アンドロイドは映るものを認識しているのか?

 糞みたいな人間関係のストレスでずっと気分が悪い。そして、そんなことばかり考えてしまう自分にも自己嫌悪がわく。

 俺は集中力がなくて、いろんな物が好きなのに、いろんなものを忘れてしまう。

 そして金や体力やらがなく、思い出すことがこういうことと言うのは、情けないし単純につまらないなと思うのだ。

 色んなことが手に入らないとして、色々なことを忘れて、年齢を重ねて死ぬ向かっているとして、自分のしたいことをするべきなのだろう。

 でも、自分のしたいことがうまくできる状況にあるかは、自分で理想の物を作り出せるかはまた別問題なのだ。でも、それをしなければきっと、俺は本当の屑に成り下がるし、屑よりかはロマンチストの方がずっとましだと思う。

 中平卓馬の言葉をまた想起しながら森山大道の著作を読み直す。中でも『絶対平面都市』という、対話形式で森山大道の写真の歴史と言葉を追っていく著作がとても読みごたえがあってよかった。以下、引用部を書いて行こう。()内は、本の中で引用されている著作だ。

 忘れないように。いや、忘れても、読み返せるように。

「国道を疾駆していると、一瞬の出会いののちにはるか後方にとびすさっていくすべてのものに、とりかえしのつかない愛着をおぼえていいしれぬ苛立ちにとりつかれてしまうことがしばしばあった(『路上にて』)」

 (略)―多かれ少なかれ、撮影と言うのはそうしたところがありますね。疾走する車とはスピードが違うにしても。

 森山 取りこぼし感と言うのは、とくにぼくらみたいな路上スナップのカメラマンには、宿命的にあります。


 これでもか、これでもか、と他人につきつけて見せる個人の心情的写真などではなくて、これでもか、これでもか、と世界からつきつけられ飛び込んでくる無数の事柄をギリギリでカメラに断片として受け止めて、それらを再組織することによって、真の世界像を認識することが写真を撮るということではないだろうか(『転換を迫られる写真』)

 通り過ぎる一瞬の時間を認識できること。複製のメディアであること。存在そのものが色っぽいこと。事物を暴く能力を持っていること。世界を開示できること(2005.3.5)

 写真は断片性のメディアで物語性のメディアではない(2005.3.5)


大岡昇平の『花影』の散文の美しさを褒めて)ストーリーってときにつまらないんですよ。小説家に殴られるかもしれないけれど、人の考えたストーリーなんてたいしたことないみたいな感じが、ぼくにはどこかあるんです、了見が狭いから。

 

 未だ気になる個所はあるのだが、面倒になってきたし、これだけでも俺なりに森山の思想を感じ取れる気がするのだ。彼の友人、中平卓馬とは違うアプローチで、しかしどこか彼らは親近性があるのだ。写真は写せない。しかし写真家は撮り続けるしかない。時には立ち止まってしまったり、居直ることもあるだろう。でも、美意識のままに欲望のままに撮り続けるということはなんと素晴らしいことだろうか。
 
 俺はお金を作り出す能力やら人と長時間共にする能力に欠けていて、しばしば自分の人生に決着をつけなければと思っている。俺は不幸になりたいわけではない。しかし、俺は型落ちの機械のようなものだ。ぼろが出る。アップデートは金持ちができることだ。


 大好きな川端康成が「忘却は恩寵」と言っていて、俺もそう思う。多くのことを俺は忘れてしまう。でも、時折思い出すそれが、下らないものではなく、好きなことについてならばいい。

 でも、俺から遠く離れているとしても、他人の熱情はいつでも暖かい。

 好きな人について考える時間を増やすこと。たとえその人が俺を愛さなくても交わらなくても。好きだって尊敬できるって素敵だって感情こそが、出来損ないのアンドロイドのような俺の身体に電流を走らせるのだ。

好きって口にすると健康にいい

 映画見る。

 『月曜日のユカ』が良かったから、中平康監督の『危ないことなら銭になる』を見る。宍戸錠主演。

これぞ、エンターテインメント!
エースのジョーがお得意の“ろくでなし”キャラで暴れまくる斬新なコメディ・アクション!


 とのことだが、うん。つまんなかった!! 

 というか、『ユカ』でハードルが上がった状態で見たからか、コメディ・アクションという前提にしても、安っぽすぎる表現の展覧会、演者の台詞が台本を早口でまくし立てるような演出(出ている人も監督も悪いなんて思っていない。そういう風に作られたからだと分かってはいるけれど)に思わず映画見ながら、3DSのエルミナージュ・ゴシックのレベル上げしちゃいました……

 ほら、wizゲーなんで、こっちもやることはオートでひたすらアビ君(序盤の経験値稼ぎ用固定出現キャラ)殴るだけの連打だけなんで……

 とか言いながら一応最後まで見たし、最後まで見てしばらくして、でも、これもすごくテンポが良い作品で、馬鹿にはできないのかなあとも思いました……

 てかね、そもそも俺アクション映画に興味ないんですよ! だって誰が死のうが生きようが罠があろうがなかろうが見せ場の金やら力入ってるシーンとかも興味持てないんだもん! 

 じゃあ、アクション映画なんて見るなよ!!!

 ということで(は?)、同時に借りてしまったからテンション下がった状態で見た、
鈴木清順監督『野獣の青春』。たまたまだが、これも宍戸錠主演。これもアクション映画。

暗黒街に単身乗り込んでいく元刑事の死闘を描いた傑作ハードボイルド。

 とか言ってもね、俺ハードボイルド苦手なんですわ。いや、苦手じゃないけどさ、やっぱこっぱずかしくなっちゃうんだよね。だってさ、当たり前だけどハードボイルドの主人公ってかっこいいんだもん。

 かっこわるいフリ、流れ者の面構え、でもかっこいい、を前提に作られてるから、ひねくれものの俺としては(嘘、本当は全くひねくれてないマジで俺)なんか苦手なんだよねー。



 これがね、すごくおもしろかった。鈴木清順って幻想的とか筋がどうでもいいとかそういった魅力的な映画を撮るけれど、こうやって分かりやすい物語におとしこまれると、単純に彼のセンスの良さが際立つ。アクションシーンやスリルある演出も俺ですらどきどきして見られるカメラワークのうまさ!

 同僚の為に命をかける男の生きざま、ってテーマも、ブロマンス的、ホモソーシャル的にBL的に良かったです(とか言ったらいい方が良くないのかもしれないが)。いや、そんなんでもなく単純な話。ストイックで目的の為に生きる男、主人公を魅了的に見せていた。ジョーかっこいいぜ!

 脇役もつ部ぞろい。ジョー(主人公)に心酔する風変わりな相棒的な男も、対立する二人の組長の対照的な人物像の分かりやすさも、なよったカミソリ男の伏線も、真犯人のやるせなさも、すごくよくできてるなーと思った。

 アクション映画なのだ。面白かったーすごかったーかっこよかったーが最高の誉め言葉なのかもしれない。

 楽しかった。

 友情の為に命をかけるとかかっこいいぜ、ジョー

 こっぱずかしい、と言えば、こっぱずかしいけれどたまに見返したくなるのがウォン・カーウァイの映画で、『ブエノスアイレス』を再見。

アルゼンチン。旅の途中で知り合ったウィン(レスリー・チャン)とファイ(トニー・レオン)。幾度となく喧嘩と別れを繰り返してきたこのゲイ・カップルは、やり直すためにイグアスの滝をめざすが、またもささいなことから喧嘩別れとなる。そしてしばらく後、ブエノスアイレスのタンゴ・バーで働くファイのもとに傷ついたウィンが転がり込んできた…。


 冒頭からの男同士のやらしいシーンで、ダメな人はだめだと思うが、これはとてもいいものです。なぜなら、ちゃんとやらしく、楽しそうに撮ってるから。

 映画でたまにえろいシーンがあるけれど、昔の映画の方が良いものが多い気がするのは昔の映画ばかり見ている俺のひいき目だろうか? やるならさっさとすませるか、やらしく撮ればいいのに! セックスシーンを記号的にとかこぎれいに撮りたいならそんなのカットしろよマジで。

 セックス「シーン」って、場合にもよるけれど、映画の登場人物同士に何かの思惑があるから、或いはやらしいことがしたいからあるんだろ? それを大切にしてほしい。

 ところで、この映画、好きは好きだけれど、見直して、すごくいい映画だと思った。

  レスリー・チャンのダメ男っぷりと、トニー・レオンのそれを受け止めながらもこっちだってやっぱりダメ男なのがほんといい味出してる。

 恋愛関係の楽しさって、きっと愚かになれることだと思う。だから、普通はそれを他人に見せないし(見る機会がないし)、他人の恋愛模様を見ることになったら、ばっかだなーあほだなーきもちわるいなーと思うだろう。はたから見たらそんなものなんだ恋愛って。

 でも、当人同士が楽しいならしかたがない。もとい、他人なんて知ったこっちゃない。ふたり、が楽しければそれでいい。

 何度も衝突とじゃれ合いを繰り返すカップル。ハードボイルドがブロマンス、ホモソーシャルに親近性があるとして、この映画で描かれているのはそれとはすこし違って、当たり前だが、恋愛物語なのだ。

 だって彼らはとても愚かで愛らしくって胸が痛い。

 ブエノスアイレスの原題は「Happy together」という。ああ、うまい邦題をつけたなーと思った。やっぱりカナビス(大麻)よりも、ゲンスブールバーキンのかっこつけ映画なら『ガラスの墓標』ですよねー。セルジュの歌う陶酔感溢れるテーマソングも最高!



 死は子供の顔をしている

 澄み切った眼差しで

 優雅に愛をまとった身体

 俺は永遠の虜

 

 ほんと、かっこいい、かっこつけ。


 ハッピートゥギャザーとか言いながらも、作品はいわゆるハッピーエンドとは少し違う。前向きで切なくて爽やかな終わり方だ。というか、ひねくれものの俺は(嘘、本当は全くひねくれていないマジで俺)それに多少の違和感を覚えたのだが、カーウァイの映画ってこの明るさが、前向きさがこっぱずかしさが純真さが間抜けさがいいんだよなーと思った。

 ほんと、ファスビンダーとかハネケとかキェシロフスキの映画とか見ない方がいいよ。健康に悪い。あんなの大好きな人はまともな人間にならないよ社会不適合者の為の映画だよそれか社会に適合してるのにあんな映画見てるなら非人間だよ、普通の勤め人よりもっとたちが悪いよ、酷い人だ、あんな映画を見てもまともに働けるなんて、妄人(ワンニン)なのかな? 風水師なのかな? まあ、パンピーの俺は見るけれど。

 それで、映画を借りるついでにCDも借りる。PSのゲーム、クーロンズゲートのサントラ。

代設定は1997年、中国返還前の香港。主人公は香港最高風水会議の超級風水師である。物語は陰界の九龍城が陽界に姿を現したことを発端とする。 どうやら原因は陰界においては四神獣の見立てが行われていないことにあるらしく、そのため気脈の流れが乱れ、最も邪気に歪んだ九龍城が陽界に姿を現すこととなったようだ。

1994年に解体された史上最大の違法建築と言われる九龍城砦を題材とした、アジアンゴシック、サイバーパンクなあまりにも混沌とした世界観でカルト的人気を持つ作品。


という説明ではきっと魅力が伝わらないと思うのだが、こればっかりはゲームだし仕方がない。要はかなり面倒で気持ち悪いゲーム。

 そして申し訳ないのだが、俺はこれをプレイせずに、プレイ動画でエンディングまで見てしまった。でも、やりたくないんだもんこんなゲーム! くそ面倒で、自分でやっていたら攻略サイト見ながらプレイか投げていたと思う。

 でも、面倒でやりたくないゲームなのに、エンディングを見てしまったのに、やっぱり自分でもやりたくなるゲーム。

 ゲーム自体の操作性の悪さやら不親切さやら、それがあっても魅力的なうさんくさくて細かくてくらくらする設定はPSの『シルバー事件』(こっちはクリアした)に通じるものがあると思う。

 プレイしながら(見ながら)

 なんでこんな面倒なのに手を出したんだろう、とか思いながらも惹かれてしまう世界観、シナリオ。

 映画の『ブエノスアイレス』でもそうだが、異国で一人ぼっち感というか、『異邦人』感って、やっぱり魅力的なんだと思う。魅力的で不親切な世界で突き放される。そんなゲームって少数ではあるが、それは作者の思い入れやエゴがつまっている。強烈なエゴイズムに酔いしれるのは、弄ばれるのは、不愉快だけど、多分悪くない。

 まるで愚かなカップル、いや、商売男/女 に手玉に取られる感覚。

 あ、でも今というか俺の人生そんなのばっかじゃん、なんて思うとクーロンズゲートのサントラを聞きながら、もう、どうしようもない気分になれるけれど、俺も君も映画の登場人物だって大抵異邦人、仕方がない。愚かさを寄る辺なさを受け入れるしかない。

 愚かなのって楽しいよって、空元気が言える間は俺、きっと妄人(ワンニン)じゃないよきっと。
 

愚か者の詩集

 気分が悪くってだるくって、気持ちがふわふわしてきて、こんな時には家にいないほうがいい。今週は二度も悪夢を見た。夢魔、なんてロマンチックだけれど、現実に訪れる悪夢は、ただ俺の力を削るだけ。

 外で読書。

 中平卓馬の『なぜ、植物図鑑か』をまた読む。彼の言葉が俺は好きだ。前にも書いたが、俺は彼の言葉を読むとジャコメッティを想起してしまう。物を作り上げるということの不可能性に立ち向かうということ、ロマンチックで痛ましくて明晰な作業。


俺が好きなジャコメッティの言葉、

「例えば一つの顔を私に見えるとおりに彫刻し、描き、あるいはデッサンすることが私には到底不可能だということを私は知っています。にもかかわらず、これこそ私が試みている唯一のことなのです」


そして、再読した本の中でまた、俺の気持ちを軽くしてくれる、中平卓馬の言葉たち。

「写真を撮ること、それはものの思考、ものの視線を組織化することである。私は一枚の写真にイメージの、私が世界はかくあるだろうとかくあらねばならないとするイメージの象徴を求めるのではない。(中略)おそらく写真による表現とはこのようにして事物の思考と私の思考との共同作業によって初めて構成されるものであるに違いないのだ」


「ではなぜ植物なのか? なぜ動物図鑑ではなく、鉱物図鑑でもなく、植物図鑑なのか? 動物はあまりにも生臭い、鉱物は初めから彼岸の堅牢さを誇っている、その中間にある物、それが植物である。(中略)中間にいて、ふとしたはずみで、私の中へのめり込んでくるもの、それが植物だ。植物にはまだある種のあいまいさが残されている。この植物がもつあいまいさを捉え、ぎりぎりのところで植物と私との境界を明瞭に仕切ること。それが私が密やかに構想する植物図鑑である」


 また、『決闘写真論』からの引用、

「見当外れな<私>の跋扈、それは<世界>との緊張から逃げ出した内面への埋没をしか意味しはしない」

「自分自身に関心を抱き、自分自身を探求すること、それは事故を見出さないための心理学的普遍の諸問題をくどくど繰り返すための最も確かな手段である。世界に関心を抱き、何かしらを企てて、むしろ自我を忘れるほうが、すなわち何かの規範に見合った存在としての事故を探求するのを止めたほうが、事故を見出すチャンスを得ることだろう アンドレ・ゴルツ」

「(<世界>を<私>化しないということ、)ウィリアム・クラインは『ニューヨーク』でそれを暴力的にやってのけた。そこにはすでに固定された<遠近法>は存在せず、いくつもの<遠近法>が並置されることによって、<世界>は混沌たる坩堝に変貌している」


 物を見るということはなんて困難なのだろう? そして、ロマンチックは、ポエジは?

 サンローランは「人は生きるために美しい幻を必要とする」と言って、

ギュスターヴ・モローは「私は自分の目にみえないものしか信じない。自分の内的感情以外に、私にとって永遠確実と思われるものはない」

 と口にした(らしい)。


 彼らが離れているとは俺には思えない。素晴らしい芸術家は、ポエジーを崇拝し、或いは慎重に排斥するのだ。自分自身の表現の為に。


 目を見開いて。

 目を見開いて生きるために、彼らが行ってきた、困難な道程(と作品)

 俺がどんな状況であっても、ストイックな行為というものは神々しさに似た感慨を与えてくれるものだ。誰かが自分の人生を捧げている瞬間瞬間、誰かが賢くあろうと、或いは自分に正直であろうとしているときは、美しい。

 読もう読もう、と思いながら、推理とかペダンチックなのは苦手なんだよな、と思っていた中井英夫の短編集『名なしの森』を読む。こんなに軽い作品だったのか、と驚く。

 掲載誌を確認して、文芸誌以外にも発表していたのだと今更気づいた(中間小説、大衆誌ではあるが)。

 この短編集の中では、表題作が俺のお気に入りだ。俺はいつだって生意気な人間が好きだ。生意気と言うのは、愚かで賢くて残酷で傲慢で断罪されるべき存在だから。現実の生意気な人のことは知らない。ただ、小説の中の生意気な人は、承認なんて求めていない。自分が十分に賢くて美をたたえていることを知っているから。

 つまり、こういった作品は必然的に愚かなものになる。目も当てられない物にぶち当たるときもしばしば。俺は人間の承認なんてどうでもいいんだ、ただ、賢さが愚かさが危うさが傲慢さがそしてそれらのカタストロフィ(の「あっけない」回避)が見たいのだ。

 ポエジーを排斥して世界と向き合うこと。或いは、大いに愚かでいること。どちらも楽しい手仕事。

 先人の屍は芳しい。

 自分自身でいたいと、思わせてくれる。というか、そうでなくてはいけないのだ。俺の身体は「きっと」俺の物。動作不良が起きるまで、まだ自由に使用するべきだ。

 住宅街を歩いていると、ベランダにブーゲンビリアを植えている家が目に入った。美しい赤紫(花に見える部分は葉っぱだ)に目を奪われる。花を買うお金がないので、地面におちたそれを拾って帰った。

 花を見ると心が落ち着くのはなぜだろう。それなのに俺は数百円の花代も出し惜しむ。労働のことを考えると何もかもが構成できなくなる。

 ただ、未だ、俺は不良品でも不幸が起きるわけでもないのだ、と嘯いて、花のことを考える。そうだ、お金をためて、新しい花のタトゥーを入れたいな。

 俺の右胸には百合のタトゥーが入っている。単に、先に左胸に剣のタトゥーを入れたから、図像学として百合だな、なんて安直な考えだった。でも、百合も好きだし、花ならばなんだって美しい。胸に刻むのも、買うのも盗むのも。

 明日、花を買いに行こう。何も解決はしないけれど、現実逃避ができますように。悪い夢の代わりに、睡眠導入剤の代わりに、

https://www.youtube.com/watch?v=kvCsYY96EYs


yutaka hirasaka - lotus



 俺がおおがねもちなら、一か月ごとに、飽きるまで、国花を変えます。
睡蓮(蓮の花)が大好きなので、夜寝る時は睡蓮に囲まれて眠りたい。きっと、死んだように安らかに眠れるだろう。

キャンドルの灯


 映画の雑記。

 数年前に見た映画を見る。『小さな泥棒』

フランスの小さな田舎町に暮らす少女の人生と成長を描いたクロード・ミレール監督が贈るドラマ。シャルロット・ゲンズブール、ディディエ・ブザスほか出演。


 不良娘の生活を描いた映画って、男性のそれに比べたら少ないと思う。増村保造の映画に出てくる、「「はすっぱ」で「おきゃん」で「とっぽい」女の生きざまみたいな物。「あんた」と「あたい」の世界の話。

 様々な犯罪やらに手を染めるシャルロットだが、それは彼女が愚かであっても、自分の力で生きようとする意志があるからだと思う。弱さや幼さはあるけれど、芯は強い、しぶとい女性。ラストシーンの選択も好きだ。

 強さと愚かさと危うさというのが、きっと不良の輝きなのかもしれない。

 かるーい気持ちで、とにかく明るい気持ちで何も考えずに見ようとした映画

『幸せになるための27のドレス』

 ええと、これは、誰がどの登場人物に共感する映画なのだろうか???
 個人的には魅力的な人物が一人もいなかった!
 感想も割と分かれているようだし、好き嫌いは分かれるとか、そもそも俺みたいな男向けの映画ではないともいえるのだが、まあ、そのうち忘れてしまうだろうか……


こっちもハッピーになろうとして(笑)ずっと見ようと思ってみていなかった
『ヘアスプレー』を見る。

 色んな所で絶賛の嵐のミュージカル映画だけあって、楽しめた。衣装も音楽もいい感じだ。ただ、ストーリーのベタな感じというか、アメリカーンな正義は勝つんだ!みたいな感じが、俺にはちょっと合わなかった……

 でもそれは些細な点で(というか、ストーリーだって評価されるべき点だと思うし)楽しい映画だった。サントラがちょっと欲しくなるくらい。

 ずっと見よう見ようと思ってみていなかった、数ある映画の中の一本。

中平康監督 加賀まりこ主演の『月曜日のユカ』

舞台は横浜。18歳のユカ(加賀まりこ)は、初老のパトロンと同世代の恋人を持ち、男を喜ばせるのが生きがいとばかりに誰にでも体を開くが、キスだけは決して許さない。そして、パトロンとの逢瀬はいつも月曜日…。

 少しショッキングな展開もあるけれど、若き日の加賀まりこキュート! な映画。モノクロの画面に大きな目にアップの髪型の加賀まりこがとても映える。中平の画面構成もとてもセンスがある。

 ただ、とてもセンスが良いのだが、今見ると映画表現としてちょいダサイというか安直な面も……(ちょっと注文が多いのかもしれない)。これは普段のシーンのセンスがとても良いしテンポよく進むからこそ、そういう描写が入ると、ちょっとあれ、と思ってしまう。

 そしてこの映画は加賀まりこがいなければ成立しなかった映画かもしれない。勿論監督が彼女の魅力を引き出しているとはいえ、通俗的過ぎずに洒落た感じで物語が終わったのは、彼女の魅力によるものも大きいのではないのだろうか。

 『天空の草原のナンサ』を見る。

モンゴルの草原で暮らす遊牧民の一家の長女ナンサは6歳。かわいい小犬を連れて帰るが、父親に飼うことを反対されてしまう。しかし、父が出稼ぎに行っている間、こっそり飼うことに。ところがある日、放牧中に小犬とはぐれてしまう。捜し回ってやっと見つけたが、あたりは暗くなり、雨が降ってきた。不安でいっぱいの彼女だったが、遊牧民のおばあさんに助けられ…。


 ストーリーはあってないようなもので、淡々と遊牧民の生活を描く。途中でドキュメンタリーなのかと思ってしまうほど、穏やかで自然で生き生きとした人々の生活が映し出される。

 自然を映し出す画面も、そこで生活をする人々や動物の姿も、穏やかな気持ちで見ることが出来る。何気ない生活だけれども、それを丁寧に描写することで、こんなにも豊かな映画になったのだなあと感じた。生活がある。それでいい、というとても良い映画。

 映画は、100円でレンタルできる。お金がない俺の、簡単な現実逃避。でも、それは豊かで虚しい、素敵な時間だ。

 俺のこれからの展望は明るいものではないだろう。でも、小さな灯を探しながら、どうにか歩いて行くしかないのだろう。

いつも揺れている

 良いことがあったり悲しいことがあったり。イラつくことがあったりほっとすることがあったり。気が休まることがない日々。ただ、何にせよ痛感してしまうのは、自分がお金を生み出す能力がないのだなあということ。

 当たり前だが、お金があれば解決できることがこの世には多くあって、お金なんかのせいで自分が矮小になる、卑屈になるというのは本当にみっともないことなのだけれど、色々あってちょっと落ち込んでいる。

 何にせよ、生産的な生活がしたいなと思う。

「お金がないなら なきゃないでいいけど 不景気そうな顔しないで」ってピチカートファイヴの歌でもあったし。

 こんな空元気で乗り越えられていければいいなと思うが、お金にいたっては、これが通用しない。当たり前の話。

 まあ、いつまでもこんな話をしても仕方がないので、別の話しでも。


 原宿で大好きなアニエス・ヴァルダの個展があるというので行ってきた。で、内容が壁に小さな写真三枚と、大きなモニターに映し出された海の映像(海辺も再現されている)というインスタレーション作品。

 俺は映画監督としてのヴァルダはほんと才能ある人だと思うけれど、この展示はどうかなあと思った。というか、俺がインスタレーション(映像を映すだけのやつ)作品がかなりぴんとこない……正直に言うと、かなり嫌いなのが多いからだ。

 それらの多くはギャラリーとか美術館の中で、キャプションや著名人という説明文付きで初めて成立する物が大多数だからだ。

 海辺のインスタレーションより、海の方がはるかに優れているのに。

 等と感じてしまうのだ。

 ただ、ヴァルダへの贔屓目か、その空間あるベンチに一人ぼーっと座っていたら、それなりに気分は良かった。そこは無料で俺以外の客はいなかったのだけれど、もしかしたらインスタレーションは無料で一人きりで味わえるような物ならば、「自然の一部」みたいな感じで受け取れるかもしれない。

 インスタレーションが大嫌い、ではないんだ。ただ、映像を流して説明文をつけて、それが美術館以外の場所で、作品として成立するのかなあと毎回思ってしまうのだ。学生時代からずっとそうだ。

 頑固な俺。学生時代から変われない俺。お金を稼げずに、お金にならない馬鹿げたことが好きな俺。


 新宿のツタヤでセールだったので映画を借りてきた。歌舞伎町店の品ぞろえはとても良い。というか、ツタヤオンラインで借りられない作品が店舗にはあるというのはどういう理由なのだろう……(渋谷や六本木のツタヤでも、店舗にはあるがネットでは借りられないのがあるのだ……)

 実相寺昭雄『青い沼の女+中・短篇集』を見る。

 この人の作品って、かなり当たり外れがあるなあと見て感じた。表題作はTVドラマ?用に撮影されたとかそういう趣向らしく、まあ、これが酷い。いや、酷いという言い方は良くないかもしれない。TVで流れてる見どころがないサスペンスドラマ。

 ほかの短編集もどうかなあというのが多かったが、『宵闇せまれば』というモノクロ映画は俺の頭の中の実相寺昭雄っぽくて良かった。男3人女1人で部屋の中で倦怠感を持て余す。そのうち、ガスを部屋にわざと流し、だれが残れるかというゲームが始まる……

 そこまで特筆すべきような作品ではないけれど、モノクロの緊張感と倦怠感のある映画は流石と感じる。

 ギャラリーに行くからとアニエス・ヴァルダの映画も借りた。

『歌う女、歌わない女』

1962年の冬のパリ。ポムは17歳の高校生。明るく、歌が好きで、人気者の彼女は大学受験の準備より、両親の家を出て、歌手になって旅に出ることを夢みていた。

ある日、通りかかった写真スタジオで、ジェロームという写真家が撮った女性たちの写真を見て、その女性たちの一様に淋しく、美しく、人生の影だけをせおったような姿にやりきれない気持になる。

それらの写真の中の女性の一人、シュザンヌは、ジェロームの内縁の妻で、22歳の若さで3歳のマリーと9ヵ月のマチューがいた。貧しい生活の中、さらに3人目の子供が生まれようとしていた。

 

 という、歌う陽気な女ポムと歌わない陰気「だった」女(ウーマンリブの活動家になる)シュザンヌの物語。

 数十年前のパリのウーマンリブ運動(と中絶)と歌が中心となった、二人の女性の友情と人生の物語。というと、かなり重い内容だと感じてしまいそうだが(実際そういう側面もある)彼女の映画だからか、最後まで見通すことが出来た。

 それぞれのつらい道のりを二人は歩むことになるが、当たり前だが人生は辛いことだけではない。そして自分の人生を生きる、ということを伝えてくれる良作だと感じた。

 ただ、俺が現代に生きている男なので、分かってない、感じられない面があるかもしれないので、多くは語らないようにしようと思う。

 続いて見たのが『カンフー・マスター!』

 中年女性が、娘の同級生の少年と恋に落ちるラブストーリー。40歳のマリーは、娘のルシーの誕生パーティーでルシーの同級生ジュリアンと出会う。

 という内容なのだが、主演がジェーン・バーキン。その娘役が実娘のシャルロット。しかもジェーン・バーキンのお相手の少年が監督、アニエス・ヴァルダの息子(美少年です)というかなり豪華な面々。しかもバーキンの両親までバーキンの両親役でちょっと出演するとかいう、あまりに身内参加がすごくてどういうことなの? ファン向け映画なの? といったキャスト。

 劇中に登場する、ゲームセンターにあるカンフー・マスターは、日本のスパルタンXの英語版(?)で、ファミコン世代としてはニヤニヤしてしまう。しかもゲームセンターにはアルゴスの戦士マイティボンジャックの英語版らしきものまでちらりと映っている! (バーキン映画でこんなの喜んでるのは俺だけかも……)

 で、肝心の映画の出来はと言うと、80分の短い中でちょっと長すぎるゲームシーン。そして説明不足なジェーンと娘や家族の関係等、ちぐはぐな印象もある。人によっては(ジェーンファン以外には)何で中年女性に美少年が夢中になるの? みたいに思ってしまうかも。

 ただ、思春期の不安定な演技を見せる、母への愛憎にも似た複雑な感情を表現するシャルロットはほんと演技がうまいなあと思った。

 それにジェーンと少年のままごとみたいな大人びた恋も、ほほえましく、ほろ苦い。

 終盤で離ればなれになって、少年が違う学校のクラスメートに「前の恋人は俺に夢中だった」というのもさっぱりしていて好きだ。

 せつなくて、本気で愛して、でもわりとどうでもよくもなってしまっている感じとか、少年期の強がりが感じられて好きなラストだ。

 いや、でも俺疲れてるから明るいのが見たいんだ! ということで何年も前に借りたはずの、バルドー主演の『裸で御免なさい』

 というか、これ新宿ツタヤのレンタルに監督「ロジェ・ヴァデム」となってるけど、≪監督・脚本≫マルク・アレグレなんですがいいのか……(ヴァデムは脚本で参加)

内容は


 兄を訪ねてパリにやってきた作家志望のアニエス。生活費の足しにしようと、
兄の本を売りさばいたはいいが、そこに混じっていたのは何とバルザックの初版本!
一刻も早く本を買い戻すため、彼女は賞金目当てでヌード・コンテストに出場するが……。
バルドーが健康的な肉体美を存分に披露するお色気コメディの傑作!!


 というおバカコメディ。正直強引なご都合主義が目につくが、それよりもスピーディーな展開とかわいらしいバルドーを楽しむのがいいだろう。というか、ほんとこの時代のバルドーは可愛すぎる。お人形よりもかわいいお人形ってどういうこと? みたいな阿呆な感想が浮かんでしまう。

 かわいいは正義。ほんとにそう思う。

 それに、単純に、きれい、かわいい、かっこいい、とか好きな感情が出るっていいことだなあと思う。

 俺は余計なことまで考えすぎてしまうし、すぐに疲れて寝すぎてしまう。自分の人生を貧しくするのは、やはり愚かなことだ。

 俺に色んな力がないとしても、美しいものを、好きなものを好きと言えるならばまだ生きていける気がする。生きていきたいなと思う。

 俺はいつも揺れている。そこに海辺のような美しさはない。でもそれが俺の人生。
 

 

夏には甘いチョコレエト

 友人に渋谷のアツコバルーが閉まると教えてもらって、最後の展示を見に行った。廃材や流木等を利用したらしいもので、好みの、良い作品だった。空間としても、渋谷の文化村近くのいい雰囲気だった。

 ずっと行こうと思っていたくせに、行ったのが最後の展示というのは悲しいなと思った。そういえば渋谷の大きなブックオフも閉まる。それだけ本が、古本でさえも売れないということなのだろう。

 無くなるものばかりが目についてしまう時もある。自分の調子がよくないとなおさらだ。

 自分に体力があればいろんな物に触れようと、何かを作ろうとできるのだけれど、それに体調が追いついてこない。

 暑い夏でただでさえ体力が削られている。陰鬱と惰性の日々。

 でも、たまに、小説を書いたり本を読んだりできていて、そのシンプルなことがうれしい。書くこと読むことで俺はできている。自分をチューニングする、チューンナップすることは絶えず行わないといけないことだ。バージョンアップはできないにしても、自分の身体は大切にしたいし、自分の見たいものは見ていかなきゃなと思う。

 その友人が教えてくれたペトロールズというバンドがとても良かった。センスが良い、円熟というのがぴったりの心地良い音楽。中々こんな音を出せないと思うのだ。

https://www.youtube.com/watch?v=ek2BThAmsKw

トロールズ「止まれ見よ」

 パヴェーゼの短編集『祭の夜』を読む。ロマンティック、メランコリックで、優しくも寂しい作品集。そして穏やかな詩情に満ちている。ショッキングな出来事も大したことのない日々も同様に流れゆく。読み終えると軽い疲労感に包まれながらも、この本に詰められた感情に少し酔っぱらってしまう。

 夏の暑さがひどくて、金がないのでエアコンをつけないのだけれど、体力がない状態でこんなんばかりの生活と言うのは危険で、やっぱり元気を出すには女の子のポップソングがいい。

 生きる体力があふれている人は、死にかけな、病的な、繊細な、いかさまの、虚言癖の、詩人の男の吐息をどうぞ。俺は遠慮したい。でもそれが欲しい。俺の口から勝手に漏れて、俺を周りを困らせるそれに似た何か、幻。

 元気を出すには女の子のポップソング。

 俺はゲーム好きなので色んなジャンルのゲームをするのだが、萌え系のゲームはほとんどしない。理由はキャラクターをすぐ好きになっても、感情移入することはまれだから。だから萌えている人、尊いとか言っている人をいいなあと思うし、そういうゲームもやってみたりする。

 元々ポップソングが好きなのだが、脳がとける系の曲はギャルゲーやエロゲーの主題歌に多い。でも俺は二次元のかわいいギャルと恋愛やエロをしたいわけじゃないのだ。それなのに俺は結構エロゲギャルゲ曲に詳しい。話したい。もえが分からない人間の燃えるポップソング集、

https://www.youtube.com/watch?v=_DdLNQYiif4
魔界天使ジブリール4 Op

ほんとこれ好きで何年も聞いている。げんきかわいいぽっぷしゃれー。みたいな感じがとても良い。アニメもかわいい。何年もこのシングルが、アマゾンのお気に入りリストにはいりっぱなし(プレミア価格だ)


https://www.youtube.com/watch?v=2Tw_hER_udg
Hey Darling! / ワガママハイスペックOC OP

聞いていると元気出る曲 何度もリピートしてしまう。アニメもかわいくて好き。でもエロゲー特有の、胸を強調する洋服のデザインは苦手なのだが……

https://www.youtube.com/watch?v=9n-nBhQ05HQ
個人教授 La Lecon Particuliere OP

 ゲーム動画で知った。こういう絵柄、ギャルゲーには珍しい部類だけど、自分的にはかなり好き。曲はこのままでもいいけど、編曲今風にしたら十分通用しそう。サントラの曲名がブリジット・バルドーのコメディ映画のタイトルばかりでオサレ。


https://www.youtube.com/watch?v=4vDpc9UkSbI
 きゅんっ! ヴァンパイアガール

 アイマスはほんと良曲多すぎ。(もはやここからギャルゲとかではない……)ライブ行けないけど行きたいなーと思わせてくれる。ライブ映像はりっちゃんの「いっぱいいっぱい」も好き。

https://www.youtube.com/watch?v=IS5FQpFdLlw
LIVE!! かくしん的☆めたまるふぉ〜ぜっ! 土間うまる(CV 田中あいみ)本人によるFULLver.

 アニメは合わなかったが、このOPは好き。こういう元気があるのが萌えアニメって感じでとても良いです

https://www.youtube.com/watch?v=ODqRfxqa1j8
【神MAD】めいあいへるぷゆー?【NEW GAME!

 元アニメ見てないので……というかこのMADとてもかわいい(NEW GAME! も途中で脱落しました……)

 あと元々ハウス風味のJPOPが好きなので、萌え、電波系のそっちよりの曲も大好き。

https://www.youtube.com/watch?v=cwn8uW9v9ww
 GO! GO! MANIAC (PandaBoY remix)

 PandaBoYセンスいいですね。原曲を生かしながら、ちゃんとクラブミュージックになってるのすごい好き。

 https://www.youtube.com/watch?v=RyveCTc1KcY
 Lazy Gung - Strawberry Fiction (Neetskills Remix)

 ちょい懐かしい感じもするダンスミュージックって感じで、心地よいしとってもキュート。

https://www.youtube.com/watch?v=Xf_hJ4Pkyq0
 ナイショの話(A Electro Remix)

 原曲もとってもかわいらしくて好きなのだが、ちょっぴり味付けをしながらもそのかわいらしさを生かしていると思った。


https://www.youtube.com/watch?v=bF0xikxgSbU
  Tokimeko fuse [ときめきの導火線]

 原曲も好きなのだが、このコテコテハウスリミックスも好き。ぼーっと聞くのに良い。口ずさむのもノリが良くていい。

 

 女の子のポップソングについて考えると少し元気が出てくる。今日読んだ本は
森茉莉のエッセイのアンソロジー『紅茶と薔薇の日々』

 彼女の文章の持つ魅力と言うのは、自由でいて美意識があるということだと思う。それは両立するのは難しい。それに彼女の文章は良くも悪くもちぐはぐだったりわがままだったりしていて、それが大きな魅力になっているし、特に「パッパ」のことや食べ物に対して目を輝かせている茉莉は「上等上等」と鴎外気分で頬がゆるんでしまう

 バタ(バタァ)やチョコレエト という文字を見るだけでもうおいしさが伝わってくる。いつでもサヴァランの彼女。好きなものに夢中な人はいつだってかわいらしい。

 鴎外が好んでいたという、ご飯に饅頭乗せてお茶かける、というメニューは普通に食べたいのに(おはぎみたいだ)評判が悪いのはなんでだろう……

 
 かわいいでエネルギーを充電して、そしてまた気が滅入る小説や、働かなくってもいいなって思える音楽を聴くことにしよう、そうしよう。

水槽の中の人型

 惰眠の日々。幾らでも寝ることができる。だからといって、『マイプライベート・アイダホ』のリヴァーフェニックスに様な美しさなんてあるわけがないし、キアヌ・リーヴスのような友人がいるわけでもない。

 鏡の前の自分を見るとぞっとする。

 不摂生をしていたら、「普通」の人は酷い顔になる。映画スターでさえ、生活によっては酷い顔になるのだから推して知るべしだ。

 ひどい顔、嫌になる、眠くなる。しかし月末の支払いのメールが幾つも届く。背筋を舐められるような恐怖感の後で、ああ、こういうのをきちんとするまでは死ねないなあと変に前向きな気持ちもわいてくる。

 先日、ケイト・スペードが自殺したことをニュースで知った。俺は彼女のブランドの物を持っていない。でも、俺が女性だったらバッグを持ちたいなと思う感じの、センスの良い、大人も持てるキュートなデザインのバッグは素敵だなと思っていた。

 自殺した人について語るのは難しい。それは単なる自分語りであったり、ゲスの勘繰りになってしまうような気がする。それが許されるのはきっと近親者だけのような気がするのだ。

 愚かであっても場違いであっても間違いであっても、その人について語らざるをえないという宿命めいた熱情。

 ただ、何の縁もない俺が感じるのは、彼女が死ぬのは、自殺したのは何だか悲しいという感情だけだ。

 自殺したい、と思うことはあまりないのだが、身辺整理をしたいとか消えてなくなりたいとか生きるとか死ぬとかが良く分からないとかはしょっちゅう感じている。

 俺がそういった考えに囚われていても、それでも支払いは待ってくれない。当然のことだけれども。俺は生きるのに向いていないのだ、向くような努力をそれなりにしてみたのだが、あまり効果はなかったらしい。

 最近病気の人や生きづらい人についての漫画やエッセイ、コミックエッセイが山ほど出版されている。それを読んで少し心が軽くなることもあるのだが、それだけ。それはその人にとっての処方箋なのだ。

 俺にとっての、その場しのぎではない処方箋があるならば、それは芸術作品で、しかし体力気力がないとそれすら消化できずに、本当に自分がクズだと思い、また眠ってしまう。

 人並みの生産性もなく喜びをかんじることもなく、さらには美しいものを感じられない人生ならば?
 

 そんな頭で、ドストエフスキーの『賭博者』を十数年ぶりに読む。ドストエフスキーは長ったらしくて、読めばぐいぐい引き込まれる反面、根気なしなので敬遠していて、しかしこの短編はさらりと読めて楽しい。

 止まらない悪罵、分かれればいいのに、止めればいいのになんて野暮なこと。自ら災厄の渦中に飛び込み、それもまたエネルギーにする多弁症はうんざりするし、楽しい。

パヴェーゼの『流刑』を読む。流刑、という題名はそれだけでなんだか惹かれるものがあるのだが、内容は結構なロマンチシズムあふれる作品。大した読書量があるわけでもないのだが、暑い国の文学はロマンチック、だなんて偏見を抱いてしまいそうだ。

 とはいえ飽き性な俺が最後まで読むことができたのは、少々鼻につく、といえなくもないのだけれど、全編が詩的で控えめな美しさに彩られているからだろうか。

 日本文学とフランス文学は、とても陰気で陽気で大好きなのだが(というか、それらから自分が好きなのを選んでいるだけなのだが)、そんなのばかり読んでいると惰眠への誘いが加速する。

 俺は下手な歌が好きなのだけれど、たまにはうまい歌の人の歌でも感動したりする。久しぶりにローラ・ニーロを聞いたら、とてもすてきだなと感じた

https://www.youtube.com/watch?v=3_69YAIa2CE&index=7&list=PLGaBtf8SblQuZkAMlmGiMv7HSKs_vWgsJ

LAURA NYRO time and love



生きる力が湧いてくるような、胸にしみる歌声。


声を出す、ということは身体にいいらしい。ひきこもっていると人と喋ることがないから症状が悪化する。かといって、外に出るような気分にはなれない。なれる時もあるが、数十秒間で気分が変わるから、それだけで疲れ切って、ベッドに身体を任せる羽目になる。

 下手な歌がとても好きなのだけれど、ハレルヤコーラスや、唱歌、聖歌の類はとても好きだ。

https://www.youtube.com/watch?v=BIYBlAhTlDo
もろびと,こぞりて

https://www.youtube.com/watch?v=VI6dsMeABpU
'Hallelujah'' chorus, from Händel's Messiah - Mormon Tabernacle Choir



 合唱をする人は、声楽とかの仕事についている人の鬱病率は低いんではないのだろうか? 糞みたいな精神状態の俺でも、こう言った曲を聴いたり口ずさんでみると、自然と気分がうわむきになる(こともある)

 単純な話、身体を動かすというのは身体にいいということかもしれないけれど。

 様々な問題が解決しない。小さな、そのひとつひとつに向き合うべきだと分かっていても、できないものはできなくて、すべてが嫌になってどうでもよくなって、自死を選ぶとしたら、「他人事のように」哀しいかもしれないと思う。

 だが、三十代も半ばにして、仕事で週に何度も同じ人に会う、というのがどうしてもできないのだと気づいてしまった。日雇いだって同じようなものだ(というかそっちのほうが労働環境は劣悪だ)。

 保護を受けるレベルではない、かといって、人並みに働けるとも思えない。

 何にせよ、決断を迫られているのだろう。願わくば、俺がこの先のことを考えていることを。どうせ死んでおしまいなのだ。それまでは、楽しいほうがいいな、かっこよくなくても、カッコつけているほうが、投薬やアルコールなしで酔っ払っていたいな。

https://www.youtube.com/watch?v=hK242uE5t2M&list=RD2ACWWm-ofeY&index=21
 Kaleido - Meu Sonho (yasuka nakata - capsule remix)


https://www.youtube.com/watch?v=Fc1q2Qlc_9M
 Weekend Warrior- 80kidz



せっかくなんで元気な曲でも。一人で繁華街を歩きながらこういうクラブミュージックを聞いていると、なんだか俺の人生、悪くないような気がしてくるから不思議だ。誰と会う用事も、金もないのに、ダンスミュージックはいつも俺に少しだけ優しいのだ。

 自殺よりもダンス、なんて言えてしまうのは健常者の戯言、だと思ってしまう。でもあなたが傷ついているならば、万引きの方がセックスの方が口づけの方が手を握るほうが、自殺よりかはましかもしれない。

 死んだら怖い位に幸福な、サンデーモーニングだって聞けないんだ。それはきっと、寂しいな。

https://www.youtube.com/watch?v=3qK82JvRY5s

Velvet Underground-"Sunday Morning"