けだものは君を見ない

 調子が悪いということを毎回のように書いていて、自分でもうんざりしてくる。しかしそれが事実なので仕方がない。たまに、ふと、自分が今生きていることが不思議で、ほわほわした、地に足つかない気持ちになる時がある。

 俺は死にたがりではない。ただ、なんか助かってしまったとか、いつの間にか生きていた、みたいに後から思うことが少しある。不思議だな。でもそれは、

 よくある話ね
 退屈な話 (夏木マリ/ミュージシャン)

 たまに、自分に金を稼ぐ才能(なんだそれ)が絶望的にないことに気づく。新宿の京王デパートの外観にカルティエの大きな広告看板がある。モノクロの豹の写真に赤でカルティエと描かれていて恰好が良い。一時期携帯電話の待ち受けにもしていた。俺、動物好きなんだ。

 そのカルティエの前で、赤銅色の肌をした浮浪者がオブジェのように固まっている。フォトジェニックな光景だと毎回思うが、撮影する気にはなれない。俺は豹の中に浮浪者の中に自分の姿を見る。しかし俺はきっと豹にも浮浪者にもなれない。ただ、自分の中の豹や浮浪者の部分が呼応するのだ。

 新宿は好きだ。二十代のころ少しだけ住んでいて、歩きながら大して好きでもないピストルズのアルバムを聞きながら歩いていたら、すごくはまった。あと、アジカンの青臭くて必死な感じのアルバムを図書館で借りて、大して好きでもない阿部和重の小説を暇つぶしに読んでいた。

 好きな物は、大抵食いつぶしてしまったような気がしていた。気がしていただけだけど。

 新宿の街のそこかしこから香る、悪臭。つつましげなデパートとラブホテル街。RPGのダンジョンみたいで好きだ。ここは俺の居場所なんかではない。というか居場所何てないのだけれども、小奇麗なのも小汚いのも受け入れる繁華街というのは、とてもいいものだと思う。


 たまに、ダイアン・アーバスの写真集を見返す。彼女のちょっと神経質で好奇心旺盛で真面目な感じが好きだ。彼女はなんで自殺してしまったのだろう。そんな分かるはずもないことを時折考える。そんなことは誰にも、きっと本人にすら分からないことなのかもしれない。

 希死念慮自死に結びつかないのは、きっとやり残したことがあるからかもしれないと最近思うようになってきた。最近ネット通販で馬鹿みたいに散財している。一回一回の金額はサラリーマンの飲み代みたいなものだが、塵も積もるとヤバイことになる。でも、久しぶりに無駄遣いをして、虚しくて楽しい。

 写真集の最初に、ダイアン・アーバスの発言がまとめられている。彼女はきっとエキセントリックな人ではなく、真面目な人なんだって感じる良い文章だ。俺は真面目な人が好きだ。それがなくてもいいのはきっと、顔がいいか動物みたいな人だろう。

以下、アーバスの発言。
 


 知っておかなければならない大切なことは、人間というものは何も知らないということです。人間はいつも手探りで自分の道を探しているということです。

 ずうっと前から感じていたのは、写真のなかにあらわれてくるものを意図的に入れ込むことはできないということです。いいかえれば写真に現れてきたものは自分が入れ込んだものではないのです。

 自分の思い通りに撮れた写真はあまりありません。いつもそれらはもっと良いものになるか、もっと悪いものになってしまいます。
 
 私にとって写真そのものよりも写真の主題のほうがいつも大切で、より複雑です。プリントに感情を込めてはいますが、神聖化したりすることはありません。私は写真が何が写されているということにかかっていると思っています。つまり何の写真かということです。写真そのものよりも写真の中に写っているもののほうがはるかに素晴らしいのです。

 物ごとの価値について何らかのことを自分は知っていると思っています。ちょっと微妙なことで言いにくいのですが、でも、本当に、自分が撮らねば誰も見えなかったものがあると信じています。



 これを読んでいてふと、ロートレックの一枚の絵画を想起する。オルセー美術館に所蔵されている(勿論行ったことがない)『ベッド』という油彩画で、ベッドで眠りにつく、二人の女性の同性愛者の娼婦の画だ。

 しかしこれは説明がなければ、二人ともショートヘアで、兄弟が眠りについているようにも見える。ここにあるのは、(ロートレックにしては珍しい、といえなくもないのだが)親密さなのだ。

 アーバスも多くのフリークスを親密さで、敬意を好意をもってカメラに写したはずだ。神聖ではなく、親密さ。だから彼女の写真はほのぼのとしていて、たまに見返したくなる。

 先日森山大道の本をまとめて借りていて『森山大道論』という評論、感想が書かれた本を読みながら、すっかり自分が批評から遠ざかっていることを再確認する。二十代の俺は、おそらく批評の言語で見てそれで何かを語っていた。今もそれは有効であり有益であるとは思うが、それよりももっと、ジャンクな言葉が、製作者のどうでもいい言葉(なんにせよ制作者の言葉はそれに関しては『プロ』ではないので、その人の作品に比べるとずっと退屈な物が多いのだ。当たり前だが)の方がずっとキュートだ。

 そんな風に思うようになってきていた。作品は、ポエジーは常に誰かの手から言葉からすり抜ける。それに対するラインズマン或いは恋文、というのは時に無粋で、しかしそれを誰かがしたいのならば仕方がない。なにより他人の恋文って、なんだかんだで人気なんだよね。羞恥を刺激されながら、文句を言いながらも読んでしまうそれ。

 その本の中で森山大道ブエノスアイレスを撮った写真とウォン・カーウァイの『ブエノスアイレス』をからめて、二人の親近性について語っている文章があった。曰く、カーウァイの主人公は「利己的な放蕩者である独身者による恋愛」であり、自分を優先して失恋を繰り返すのだ。そして、不安に突き動かされてシャッターを押し続ける大道。

 その全体を読むと、納得する部分もありつつも、少しロマンティックすぎないか、と感じたのだが、森山大道の言葉を引用している部分は好きだ。


ぼくの場合、なんか写真を撮ることも含めた日常の時間に四六時中おおいかぶさっているのは生とか死とかっていうよりも、漠としていながら確実に身辺に充ちている不安ですね。ぼくが写真を撮っている唯一のモメントは、じつはこのキリのない不安に根差しているように感じています。


 生とか死とかっていうよりも、漠としていながら確実に身辺に充ちている不安ですね。


 という部分は自分にも重なるし、何より彼が撮る景色にも表れているように思う。彼の写真はしばしばロマンティックに語られたりするけれど、それよりもどうしようもなさや寄る辺なさ、どこにいたって異邦人、という感がする(それがロマンティックだと言われたら、まあ、そうだけれども)。

 ただ、異邦人は異邦人なりに街にそれなりに歓迎され、ほっぽり出される。しかし彼はカメラを手放したりなんてしない。街に好かれていようが嫌われていようがそもそもそんなことなんて問題ではなく、不安と欲望が多くの作品を残していく。

 しばしば俺はエネルギーが切れてしまう。街も俺もポエジーも動物も神様も、どうでもよくなってしまう。ただ、俺が満足をして、区切りをつけて、ホームレス/社会人になるとしたなら、それには未だ早い。まだまだ無駄遣いをしなければ。

 ぎらぎらしたほの暗い、いや、のんきな欲望を抱いている誰かさんと誰かさん。俺は彼らにはなれないのだろうと思いつつも、その他者を見ると、自分にも何かの感性が、欲望があるような気がしてくるから不思議だ。

 惰眠に効く薬は筋トレや日光よりも、死に行く人や死んでしまった人や、獣の方がいいらしい俺の場合。

エレガントの夢魔

 酷く嫌な思いをして数時間ごとにそのことを反芻、しかし雨の日や肌寒い日が続いてきて、暑さにまいっていたので、何だか嬉しくもなってしまう。とはいえ、肌寒さの中で掛布団を抱きしめて横になっていると過眠が悪化する。

 嫌な夢を見た。二日連続で見たから次の日も見るのかなあと思ったら三日連続で見た。でも、夢の最後で覚えているのは、黒人の少女が戦後の日本のような荒れ地で、車の上で裸でジャズみたいな歌謡曲を歌うという映像。曲名は『米、米、アメリカ』という。だって、彼女がそう言っていたんだ。どんな曲なのか興味はあるが、こればっかりは知ることが出来ない。

 日々が惰眠に飲まれて溶けて行くのに、身体が動かない。まるで他人の身体。しかしそれの所有物は俺だから、たまには見るんだ映画。

 大学の時に見たっきりの、ベルイマンの『夏の遊び』を再び見る。とても美しい映画。自然の美しさと、回想シーンの恋人たちの瑞々しいやりとりがとても良い。教訓めいたメッセージよりも、自然と若者があればそれでいいのだ、と俺は感じる。

 ゴダールも好きだったらしいのだが、そういえば後年のゴダールはとても自然を美しく撮るようになったなあと感じるようになってきた。初期ゴダールには、自然の美しさというのはあまり感じない。

 中平卓馬も後期の写真を見るととても自然をのびのびと、美しく、いや豊かに撮るようになったなあと感じる。数年前にも俺はゴダール中平卓馬を関連付けて想起していたように思うが、他に賛同者がいないしそもそも友人がほとんどいない。別に関係はないけどね。

 北欧の自然の中で暮らす子供たちの生活を描いた『やかまし村の子供たち』を見る。

 正直あまり期待していなかったのだが、とてもよかった。子供たちの生活が淡々と描かれていて、それらは小さな事柄だけれど、子供たちにとってはわくわくの連続なのだ。

 見ていてふと『ロッタちゃんのはじめてのおつかい(赤い自転車)』を思い出した。あれも北欧の子供の物語だが、こちらはストーリーが一応あるし、ロッタちゃんのわがままな魅力がでているファミリードラマといった風だ。

『やかまし村』は、登場人物の子供も大人も自然も動物も、どれもこれも分け隔てなく眼差しが注がれているような感があった。勿論題名にもあるし、主役は子供たちなのだが、北欧の生活のなかにある、小さな喜びやハプニングの瞬間がつめこまれた良作だった。

 これも大学のころに見たベルトリッチの『ラスト・タンゴ・イン・パリ』を見る。二十歳のガキが最初にこの映画を見た時に、不満点もあるが、まあ、好きかもな、なんて感じていたのだが、三十過ぎの老けたクソガキが見ても、まあ、似たような感想を抱いた。

 大好きなマーロン・ブランドが出ているだけで、多少点が甘くなってしまう。しかも、中年になって顔に疲れも出ていて頭皮も寂しくなった彼だ!

 改めて見ると、女優のマリア・シュナイダーはかなり役にはまっているように思えた。あと、ジャン=ピエール・レオー が出ているのもいい。ゴダールトリュフォーが好きだからか、レオーが出ているとなんだかほっとする。彼の顔が優等生的な美形だからかもしれないし、演技をそつなくこなす優等生だからかもしれない。

 この映画を見ていると、マーロンブランドの美しさや醜悪さや哀愁やかわいらしさや、様々な表情を楽しめるのでファンには向いていると思う。

 ただ、構図やカメラワークのセンスの良さに加えて音楽も過剰で表現が大げさに感じられる場面もちらほら。実相寺昭雄の『哥(うた)』を想起させる。いや、どちらも結構好きなんですけどね。

 ただ、この映画に限ってはヴィスコンティと同じ、エレガンスによって作られている映画といえるのかもしれない。エレガンスとは滑稽で気高い美意識のこと。
この退屈な映画を見ながら(退屈、といってもフェリーニパゾリーニのようではなくて)頭の中でスパンクハッピーの『エレガントの怪物』の歌詞が頭に浮かんでいた。

 
 例えば男の子は自信なさげにはなす
 不潔な独特のファッションを纏う
 彼らが持っている現代の奇妙なエレガン
 あたしを盗撮している奴がいるって

 ヴィスコンティの映画の持つエレガンス、センスの良さは多くの人が認める所であるだろう。そしてそのエレガンス、趣味の良さの与える安心、ブルジョワジー的な感覚、退屈さに対するつまらなさ、について金井美恵子蓮實重彦ゴダールが言及していたように思う。

 つまり、ヴィスコンティの映画は良いものだけれど……

 話を『パリ』に戻そう。あの映画のラストは、かなりひどいと俺は思う。センスがない、と言ってもいい。それでも、俺はこの映画もヴィスコンティの映画もどちらも結構好きだ。愚かでロマンティックでかっこつけている(のが見透かされている時もあるが)、つまりエレガンスな映画。

 俺はヴィスコンティの映画における、美しい男性が鋭利な美、ナイフのような女性によって始末される様式美にポルノ映画のようなわくわく感とちょっとした気恥ずかしさを覚える。でもそれが好きだ。美しい男性/女性は不幸になるべきだし幸福になるべきだ。

 この映画は、マーロン・ブランドファンの為の、中年男性の為のメルヘンポルノといった感もあり、肩ひじ張らずにみられる点はよかった。

 俺は日本の一部で大人気な某作家の作品がセンスの無い謎解きメルヘンポルノだと感じて本当に嫌なのだが、この映画のメルヘンポルノは、ちゃんとおぞましく醜いから良い。でも、見る人に逃げ道を、謎やセンスの無さを用意してくれる方が、受け手としては安心できるのかもしれない。

 マーロン・ブランドのファンの俺はわくわくするのだけれど、昔は美しかった面影がある、うらぶれた中年男性の醜く滑稽で自分勝手な様子は、お粗末と言ってもさしつかえがないストーリーとあいまって、多くの人に不快感を与えるだろう。

 顔がよければ、エレガンスであれば、許される世界、許される瞬間は素敵なこと。いいや、そもそもそれさえ許されなかったら俺は何を許せばいいのだろう?

 気分が悪くなって、日々口にする錠剤と少量のアルコール。俺の、現代の奇妙なエレガン。ということにして、今日も悪夢の為にまた一休み。

アンドロイドは映るものを認識しているのか?

 糞みたいな人間関係のストレスでずっと気分が悪い。そして、そんなことばかり考えてしまう自分にも自己嫌悪がわく。

 俺は集中力がなくて、いろんな物が好きなのに、いろんなものを忘れてしまう。

 そして金や体力やらがなく、思い出すことがこういうことと言うのは、情けないし単純につまらないなと思うのだ。

 色んなことが手に入らないとして、色々なことを忘れて、年齢を重ねて死ぬ向かっているとして、自分のしたいことをするべきなのだろう。

 でも、自分のしたいことがうまくできる状況にあるかは、自分で理想の物を作り出せるかはまた別問題なのだ。でも、それをしなければきっと、俺は本当の屑に成り下がるし、屑よりかはロマンチストの方がずっとましだと思う。

 中平卓馬の言葉をまた想起しながら森山大道の著作を読み直す。中でも『絶対平面都市』という、対話形式で森山大道の写真の歴史と言葉を追っていく著作がとても読みごたえがあってよかった。以下、引用部を書いて行こう。()内は、本の中で引用されている著作だ。

 忘れないように。いや、忘れても、読み返せるように。

「国道を疾駆していると、一瞬の出会いののちにはるか後方にとびすさっていくすべてのものに、とりかえしのつかない愛着をおぼえていいしれぬ苛立ちにとりつかれてしまうことがしばしばあった(『路上にて』)」

 (略)―多かれ少なかれ、撮影と言うのはそうしたところがありますね。疾走する車とはスピードが違うにしても。

 森山 取りこぼし感と言うのは、とくにぼくらみたいな路上スナップのカメラマンには、宿命的にあります。


 これでもか、これでもか、と他人につきつけて見せる個人の心情的写真などではなくて、これでもか、これでもか、と世界からつきつけられ飛び込んでくる無数の事柄をギリギリでカメラに断片として受け止めて、それらを再組織することによって、真の世界像を認識することが写真を撮るということではないだろうか(『転換を迫られる写真』)

 通り過ぎる一瞬の時間を認識できること。複製のメディアであること。存在そのものが色っぽいこと。事物を暴く能力を持っていること。世界を開示できること(2005.3.5)

 写真は断片性のメディアで物語性のメディアではない(2005.3.5)


大岡昇平の『花影』の散文の美しさを褒めて)ストーリーってときにつまらないんですよ。小説家に殴られるかもしれないけれど、人の考えたストーリーなんてたいしたことないみたいな感じが、ぼくにはどこかあるんです、了見が狭いから。

 

 未だ気になる個所はあるのだが、面倒になってきたし、これだけでも俺なりに森山の思想を感じ取れる気がするのだ。彼の友人、中平卓馬とは違うアプローチで、しかしどこか彼らは親近性があるのだ。写真は写せない。しかし写真家は撮り続けるしかない。時には立ち止まってしまったり、居直ることもあるだろう。でも、美意識のままに欲望のままに撮り続けるということはなんと素晴らしいことだろうか。
 
 俺はお金を作り出す能力やら人と長時間共にする能力に欠けていて、しばしば自分の人生に決着をつけなければと思っている。俺は不幸になりたいわけではない。しかし、俺は型落ちの機械のようなものだ。ぼろが出る。アップデートは金持ちができることだ。


 大好きな川端康成が「忘却は恩寵」と言っていて、俺もそう思う。多くのことを俺は忘れてしまう。でも、時折思い出すそれが、下らないものではなく、好きなことについてならばいい。

 でも、俺から遠く離れているとしても、他人の熱情はいつでも暖かい。

 好きな人について考える時間を増やすこと。たとえその人が俺を愛さなくても交わらなくても。好きだって尊敬できるって素敵だって感情こそが、出来損ないのアンドロイドのような俺の身体に電流を走らせるのだ。

好きって口にすると健康にいい

 映画見る。

 『月曜日のユカ』が良かったから、中平康監督の『危ないことなら銭になる』を見る。宍戸錠主演。

これぞ、エンターテインメント!
エースのジョーがお得意の“ろくでなし”キャラで暴れまくる斬新なコメディ・アクション!


 とのことだが、うん。つまんなかった!! 

 というか、『ユカ』でハードルが上がった状態で見たからか、コメディ・アクションという前提にしても、安っぽすぎる表現の展覧会、演者の台詞が台本を早口でまくし立てるような演出(出ている人も監督も悪いなんて思っていない。そういう風に作られたからだと分かってはいるけれど)に思わず映画見ながら、3DSのエルミナージュ・ゴシックのレベル上げしちゃいました……

 ほら、wizゲーなんで、こっちもやることはオートでひたすらアビ君(序盤の経験値稼ぎ用固定出現キャラ)殴るだけの連打だけなんで……

 とか言いながら一応最後まで見たし、最後まで見てしばらくして、でも、これもすごくテンポが良い作品で、馬鹿にはできないのかなあとも思いました……

 てかね、そもそも俺アクション映画に興味ないんですよ! だって誰が死のうが生きようが罠があろうがなかろうが見せ場の金やら力入ってるシーンとかも興味持てないんだもん! 

 じゃあ、アクション映画なんて見るなよ!!!

 ということで(は?)、同時に借りてしまったからテンション下がった状態で見た、
鈴木清順監督『野獣の青春』。たまたまだが、これも宍戸錠主演。これもアクション映画。

暗黒街に単身乗り込んでいく元刑事の死闘を描いた傑作ハードボイルド。

 とか言ってもね、俺ハードボイルド苦手なんですわ。いや、苦手じゃないけどさ、やっぱこっぱずかしくなっちゃうんだよね。だってさ、当たり前だけどハードボイルドの主人公ってかっこいいんだもん。

 かっこわるいフリ、流れ者の面構え、でもかっこいい、を前提に作られてるから、ひねくれものの俺としては(嘘、本当は全くひねくれてないマジで俺)なんか苦手なんだよねー。



 これがね、すごくおもしろかった。鈴木清順って幻想的とか筋がどうでもいいとかそういった魅力的な映画を撮るけれど、こうやって分かりやすい物語におとしこまれると、単純に彼のセンスの良さが際立つ。アクションシーンやスリルある演出も俺ですらどきどきして見られるカメラワークのうまさ!

 同僚の為に命をかける男の生きざま、ってテーマも、ブロマンス的、ホモソーシャル的にBL的に良かったです(とか言ったらいい方が良くないのかもしれないが)。いや、そんなんでもなく単純な話。ストイックで目的の為に生きる男、主人公を魅了的に見せていた。ジョーかっこいいぜ!

 脇役もつ部ぞろい。ジョー(主人公)に心酔する風変わりな相棒的な男も、対立する二人の組長の対照的な人物像の分かりやすさも、なよったカミソリ男の伏線も、真犯人のやるせなさも、すごくよくできてるなーと思った。

 アクション映画なのだ。面白かったーすごかったーかっこよかったーが最高の誉め言葉なのかもしれない。

 楽しかった。

 友情の為に命をかけるとかかっこいいぜ、ジョー

 こっぱずかしい、と言えば、こっぱずかしいけれどたまに見返したくなるのがウォン・カーウァイの映画で、『ブエノスアイレス』を再見。

アルゼンチン。旅の途中で知り合ったウィン(レスリー・チャン)とファイ(トニー・レオン)。幾度となく喧嘩と別れを繰り返してきたこのゲイ・カップルは、やり直すためにイグアスの滝をめざすが、またもささいなことから喧嘩別れとなる。そしてしばらく後、ブエノスアイレスのタンゴ・バーで働くファイのもとに傷ついたウィンが転がり込んできた…。


 冒頭からの男同士のやらしいシーンで、ダメな人はだめだと思うが、これはとてもいいものです。なぜなら、ちゃんとやらしく、楽しそうに撮ってるから。

 映画でたまにえろいシーンがあるけれど、昔の映画の方が良いものが多い気がするのは昔の映画ばかり見ている俺のひいき目だろうか? やるならさっさとすませるか、やらしく撮ればいいのに! セックスシーンを記号的にとかこぎれいに撮りたいならそんなのカットしろよマジで。

 セックス「シーン」って、場合にもよるけれど、映画の登場人物同士に何かの思惑があるから、或いはやらしいことがしたいからあるんだろ? それを大切にしてほしい。

 ところで、この映画、好きは好きだけれど、見直して、すごくいい映画だと思った。

  レスリー・チャンのダメ男っぷりと、トニー・レオンのそれを受け止めながらもこっちだってやっぱりダメ男なのがほんといい味出してる。

 恋愛関係の楽しさって、きっと愚かになれることだと思う。だから、普通はそれを他人に見せないし(見る機会がないし)、他人の恋愛模様を見ることになったら、ばっかだなーあほだなーきもちわるいなーと思うだろう。はたから見たらそんなものなんだ恋愛って。

 でも、当人同士が楽しいならしかたがない。もとい、他人なんて知ったこっちゃない。ふたり、が楽しければそれでいい。

 何度も衝突とじゃれ合いを繰り返すカップル。ハードボイルドがブロマンス、ホモソーシャルに親近性があるとして、この映画で描かれているのはそれとはすこし違って、当たり前だが、恋愛物語なのだ。

 だって彼らはとても愚かで愛らしくって胸が痛い。

 ブエノスアイレスの原題は「Happy together」という。ああ、うまい邦題をつけたなーと思った。やっぱりカナビス(大麻)よりも、ゲンスブールバーキンのかっこつけ映画なら『ガラスの墓標』ですよねー。セルジュの歌う陶酔感溢れるテーマソングも最高!



 死は子供の顔をしている

 澄み切った眼差しで

 優雅に愛をまとった身体

 俺は永遠の虜

 

 ほんと、かっこいい、かっこつけ。


 ハッピートゥギャザーとか言いながらも、作品はいわゆるハッピーエンドとは少し違う。前向きで切なくて爽やかな終わり方だ。というか、ひねくれものの俺は(嘘、本当は全くひねくれていないマジで俺)それに多少の違和感を覚えたのだが、カーウァイの映画ってこの明るさが、前向きさがこっぱずかしさが純真さが間抜けさがいいんだよなーと思った。

 ほんと、ファスビンダーとかハネケとかキェシロフスキの映画とか見ない方がいいよ。健康に悪い。あんなの大好きな人はまともな人間にならないよ社会不適合者の為の映画だよそれか社会に適合してるのにあんな映画見てるなら非人間だよ、普通の勤め人よりもっとたちが悪いよ、酷い人だ、あんな映画を見てもまともに働けるなんて、妄人(ワンニン)なのかな? 風水師なのかな? まあ、パンピーの俺は見るけれど。

 それで、映画を借りるついでにCDも借りる。PSのゲーム、クーロンズゲートのサントラ。

代設定は1997年、中国返還前の香港。主人公は香港最高風水会議の超級風水師である。物語は陰界の九龍城が陽界に姿を現したことを発端とする。 どうやら原因は陰界においては四神獣の見立てが行われていないことにあるらしく、そのため気脈の流れが乱れ、最も邪気に歪んだ九龍城が陽界に姿を現すこととなったようだ。

1994年に解体された史上最大の違法建築と言われる九龍城砦を題材とした、アジアンゴシック、サイバーパンクなあまりにも混沌とした世界観でカルト的人気を持つ作品。


という説明ではきっと魅力が伝わらないと思うのだが、こればっかりはゲームだし仕方がない。要はかなり面倒で気持ち悪いゲーム。

 そして申し訳ないのだが、俺はこれをプレイせずに、プレイ動画でエンディングまで見てしまった。でも、やりたくないんだもんこんなゲーム! くそ面倒で、自分でやっていたら攻略サイト見ながらプレイか投げていたと思う。

 でも、面倒でやりたくないゲームなのに、エンディングを見てしまったのに、やっぱり自分でもやりたくなるゲーム。

 ゲーム自体の操作性の悪さやら不親切さやら、それがあっても魅力的なうさんくさくて細かくてくらくらする設定はPSの『シルバー事件』(こっちはクリアした)に通じるものがあると思う。

 プレイしながら(見ながら)

 なんでこんな面倒なのに手を出したんだろう、とか思いながらも惹かれてしまう世界観、シナリオ。

 映画の『ブエノスアイレス』でもそうだが、異国で一人ぼっち感というか、『異邦人』感って、やっぱり魅力的なんだと思う。魅力的で不親切な世界で突き放される。そんなゲームって少数ではあるが、それは作者の思い入れやエゴがつまっている。強烈なエゴイズムに酔いしれるのは、弄ばれるのは、不愉快だけど、多分悪くない。

 まるで愚かなカップル、いや、商売男/女 に手玉に取られる感覚。

 あ、でも今というか俺の人生そんなのばっかじゃん、なんて思うとクーロンズゲートのサントラを聞きながら、もう、どうしようもない気分になれるけれど、俺も君も映画の登場人物だって大抵異邦人、仕方がない。愚かさを寄る辺なさを受け入れるしかない。

 愚かなのって楽しいよって、空元気が言える間は俺、きっと妄人(ワンニン)じゃないよきっと。
 

愚か者の詩集

 気分が悪くってだるくって、気持ちがふわふわしてきて、こんな時には家にいないほうがいい。今週は二度も悪夢を見た。夢魔、なんてロマンチックだけれど、現実に訪れる悪夢は、ただ俺の力を削るだけ。

 外で読書。

 中平卓馬の『なぜ、植物図鑑か』をまた読む。彼の言葉が俺は好きだ。前にも書いたが、俺は彼の言葉を読むとジャコメッティを想起してしまう。物を作り上げるということの不可能性に立ち向かうということ、ロマンチックで痛ましくて明晰な作業。


俺が好きなジャコメッティの言葉、

「例えば一つの顔を私に見えるとおりに彫刻し、描き、あるいはデッサンすることが私には到底不可能だということを私は知っています。にもかかわらず、これこそ私が試みている唯一のことなのです」


そして、再読した本の中でまた、俺の気持ちを軽くしてくれる、中平卓馬の言葉たち。

「写真を撮ること、それはものの思考、ものの視線を組織化することである。私は一枚の写真にイメージの、私が世界はかくあるだろうとかくあらねばならないとするイメージの象徴を求めるのではない。(中略)おそらく写真による表現とはこのようにして事物の思考と私の思考との共同作業によって初めて構成されるものであるに違いないのだ」


「ではなぜ植物なのか? なぜ動物図鑑ではなく、鉱物図鑑でもなく、植物図鑑なのか? 動物はあまりにも生臭い、鉱物は初めから彼岸の堅牢さを誇っている、その中間にある物、それが植物である。(中略)中間にいて、ふとしたはずみで、私の中へのめり込んでくるもの、それが植物だ。植物にはまだある種のあいまいさが残されている。この植物がもつあいまいさを捉え、ぎりぎりのところで植物と私との境界を明瞭に仕切ること。それが私が密やかに構想する植物図鑑である」


 また、『決闘写真論』からの引用、

「見当外れな<私>の跋扈、それは<世界>との緊張から逃げ出した内面への埋没をしか意味しはしない」

「自分自身に関心を抱き、自分自身を探求すること、それは事故を見出さないための心理学的普遍の諸問題をくどくど繰り返すための最も確かな手段である。世界に関心を抱き、何かしらを企てて、むしろ自我を忘れるほうが、すなわち何かの規範に見合った存在としての事故を探求するのを止めたほうが、事故を見出すチャンスを得ることだろう アンドレ・ゴルツ」

「(<世界>を<私>化しないということ、)ウィリアム・クラインは『ニューヨーク』でそれを暴力的にやってのけた。そこにはすでに固定された<遠近法>は存在せず、いくつもの<遠近法>が並置されることによって、<世界>は混沌たる坩堝に変貌している」


 物を見るということはなんて困難なのだろう? そして、ロマンチックは、ポエジは?

 サンローランは「人は生きるために美しい幻を必要とする」と言って、

ギュスターヴ・モローは「私は自分の目にみえないものしか信じない。自分の内的感情以外に、私にとって永遠確実と思われるものはない」

 と口にした(らしい)。


 彼らが離れているとは俺には思えない。素晴らしい芸術家は、ポエジーを崇拝し、或いは慎重に排斥するのだ。自分自身の表現の為に。


 目を見開いて。

 目を見開いて生きるために、彼らが行ってきた、困難な道程(と作品)

 俺がどんな状況であっても、ストイックな行為というものは神々しさに似た感慨を与えてくれるものだ。誰かが自分の人生を捧げている瞬間瞬間、誰かが賢くあろうと、或いは自分に正直であろうとしているときは、美しい。

 読もう読もう、と思いながら、推理とかペダンチックなのは苦手なんだよな、と思っていた中井英夫の短編集『名なしの森』を読む。こんなに軽い作品だったのか、と驚く。

 掲載誌を確認して、文芸誌以外にも発表していたのだと今更気づいた(中間小説、大衆誌ではあるが)。

 この短編集の中では、表題作が俺のお気に入りだ。俺はいつだって生意気な人間が好きだ。生意気と言うのは、愚かで賢くて残酷で傲慢で断罪されるべき存在だから。現実の生意気な人のことは知らない。ただ、小説の中の生意気な人は、承認なんて求めていない。自分が十分に賢くて美をたたえていることを知っているから。

 つまり、こういった作品は必然的に愚かなものになる。目も当てられない物にぶち当たるときもしばしば。俺は人間の承認なんてどうでもいいんだ、ただ、賢さが愚かさが危うさが傲慢さがそしてそれらのカタストロフィ(の「あっけない」回避)が見たいのだ。

 ポエジーを排斥して世界と向き合うこと。或いは、大いに愚かでいること。どちらも楽しい手仕事。

 先人の屍は芳しい。

 自分自身でいたいと、思わせてくれる。というか、そうでなくてはいけないのだ。俺の身体は「きっと」俺の物。動作不良が起きるまで、まだ自由に使用するべきだ。

 住宅街を歩いていると、ベランダにブーゲンビリアを植えている家が目に入った。美しい赤紫(花に見える部分は葉っぱだ)に目を奪われる。花を買うお金がないので、地面におちたそれを拾って帰った。

 花を見ると心が落ち着くのはなぜだろう。それなのに俺は数百円の花代も出し惜しむ。労働のことを考えると何もかもが構成できなくなる。

 ただ、未だ、俺は不良品でも不幸が起きるわけでもないのだ、と嘯いて、花のことを考える。そうだ、お金をためて、新しい花のタトゥーを入れたいな。

 俺の右胸には百合のタトゥーが入っている。単に、先に左胸に剣のタトゥーを入れたから、図像学として百合だな、なんて安直な考えだった。でも、百合も好きだし、花ならばなんだって美しい。胸に刻むのも、買うのも盗むのも。

 明日、花を買いに行こう。何も解決はしないけれど、現実逃避ができますように。悪い夢の代わりに、睡眠導入剤の代わりに、

https://www.youtube.com/watch?v=kvCsYY96EYs


yutaka hirasaka - lotus



 俺がおおがねもちなら、一か月ごとに、飽きるまで、国花を変えます。
睡蓮(蓮の花)が大好きなので、夜寝る時は睡蓮に囲まれて眠りたい。きっと、死んだように安らかに眠れるだろう。

キャンドルの灯


 映画の雑記。

 数年前に見た映画を見る。『小さな泥棒』

フランスの小さな田舎町に暮らす少女の人生と成長を描いたクロード・ミレール監督が贈るドラマ。シャルロット・ゲンズブール、ディディエ・ブザスほか出演。


 不良娘の生活を描いた映画って、男性のそれに比べたら少ないと思う。増村保造の映画に出てくる、「「はすっぱ」で「おきゃん」で「とっぽい」女の生きざまみたいな物。「あんた」と「あたい」の世界の話。

 様々な犯罪やらに手を染めるシャルロットだが、それは彼女が愚かであっても、自分の力で生きようとする意志があるからだと思う。弱さや幼さはあるけれど、芯は強い、しぶとい女性。ラストシーンの選択も好きだ。

 強さと愚かさと危うさというのが、きっと不良の輝きなのかもしれない。

 かるーい気持ちで、とにかく明るい気持ちで何も考えずに見ようとした映画

『幸せになるための27のドレス』

 ええと、これは、誰がどの登場人物に共感する映画なのだろうか???
 個人的には魅力的な人物が一人もいなかった!
 感想も割と分かれているようだし、好き嫌いは分かれるとか、そもそも俺みたいな男向けの映画ではないともいえるのだが、まあ、そのうち忘れてしまうだろうか……


こっちもハッピーになろうとして(笑)ずっと見ようと思ってみていなかった
『ヘアスプレー』を見る。

 色んな所で絶賛の嵐のミュージカル映画だけあって、楽しめた。衣装も音楽もいい感じだ。ただ、ストーリーのベタな感じというか、アメリカーンな正義は勝つんだ!みたいな感じが、俺にはちょっと合わなかった……

 でもそれは些細な点で(というか、ストーリーだって評価されるべき点だと思うし)楽しい映画だった。サントラがちょっと欲しくなるくらい。

 ずっと見よう見ようと思ってみていなかった、数ある映画の中の一本。

中平康監督 加賀まりこ主演の『月曜日のユカ』

舞台は横浜。18歳のユカ(加賀まりこ)は、初老のパトロンと同世代の恋人を持ち、男を喜ばせるのが生きがいとばかりに誰にでも体を開くが、キスだけは決して許さない。そして、パトロンとの逢瀬はいつも月曜日…。

 少しショッキングな展開もあるけれど、若き日の加賀まりこキュート! な映画。モノクロの画面に大きな目にアップの髪型の加賀まりこがとても映える。中平の画面構成もとてもセンスがある。

 ただ、とてもセンスが良いのだが、今見ると映画表現としてちょいダサイというか安直な面も……(ちょっと注文が多いのかもしれない)。これは普段のシーンのセンスがとても良いしテンポよく進むからこそ、そういう描写が入ると、ちょっとあれ、と思ってしまう。

 そしてこの映画は加賀まりこがいなければ成立しなかった映画かもしれない。勿論監督が彼女の魅力を引き出しているとはいえ、通俗的過ぎずに洒落た感じで物語が終わったのは、彼女の魅力によるものも大きいのではないのだろうか。

 『天空の草原のナンサ』を見る。

モンゴルの草原で暮らす遊牧民の一家の長女ナンサは6歳。かわいい小犬を連れて帰るが、父親に飼うことを反対されてしまう。しかし、父が出稼ぎに行っている間、こっそり飼うことに。ところがある日、放牧中に小犬とはぐれてしまう。捜し回ってやっと見つけたが、あたりは暗くなり、雨が降ってきた。不安でいっぱいの彼女だったが、遊牧民のおばあさんに助けられ…。


 ストーリーはあってないようなもので、淡々と遊牧民の生活を描く。途中でドキュメンタリーなのかと思ってしまうほど、穏やかで自然で生き生きとした人々の生活が映し出される。

 自然を映し出す画面も、そこで生活をする人々や動物の姿も、穏やかな気持ちで見ることが出来る。何気ない生活だけれども、それを丁寧に描写することで、こんなにも豊かな映画になったのだなあと感じた。生活がある。それでいい、というとても良い映画。

 映画は、100円でレンタルできる。お金がない俺の、簡単な現実逃避。でも、それは豊かで虚しい、素敵な時間だ。

 俺のこれからの展望は明るいものではないだろう。でも、小さな灯を探しながら、どうにか歩いて行くしかないのだろう。

いつも揺れている

 良いことがあったり悲しいことがあったり。イラつくことがあったりほっとすることがあったり。気が休まることがない日々。ただ、何にせよ痛感してしまうのは、自分がお金を生み出す能力がないのだなあということ。

 当たり前だが、お金があれば解決できることがこの世には多くあって、お金なんかのせいで自分が矮小になる、卑屈になるというのは本当にみっともないことなのだけれど、色々あってちょっと落ち込んでいる。

 何にせよ、生産的な生活がしたいなと思う。

「お金がないなら なきゃないでいいけど 不景気そうな顔しないで」ってピチカートファイヴの歌でもあったし。

 こんな空元気で乗り越えられていければいいなと思うが、お金にいたっては、これが通用しない。当たり前の話。

 まあ、いつまでもこんな話をしても仕方がないので、別の話しでも。


 原宿で大好きなアニエス・ヴァルダの個展があるというので行ってきた。で、内容が壁に小さな写真三枚と、大きなモニターに映し出された海の映像(海辺も再現されている)というインスタレーション作品。

 俺は映画監督としてのヴァルダはほんと才能ある人だと思うけれど、この展示はどうかなあと思った。というか、俺がインスタレーション(映像を映すだけのやつ)作品がかなりぴんとこない……正直に言うと、かなり嫌いなのが多いからだ。

 それらの多くはギャラリーとか美術館の中で、キャプションや著名人という説明文付きで初めて成立する物が大多数だからだ。

 海辺のインスタレーションより、海の方がはるかに優れているのに。

 等と感じてしまうのだ。

 ただ、ヴァルダへの贔屓目か、その空間あるベンチに一人ぼーっと座っていたら、それなりに気分は良かった。そこは無料で俺以外の客はいなかったのだけれど、もしかしたらインスタレーションは無料で一人きりで味わえるような物ならば、「自然の一部」みたいな感じで受け取れるかもしれない。

 インスタレーションが大嫌い、ではないんだ。ただ、映像を流して説明文をつけて、それが美術館以外の場所で、作品として成立するのかなあと毎回思ってしまうのだ。学生時代からずっとそうだ。

 頑固な俺。学生時代から変われない俺。お金を稼げずに、お金にならない馬鹿げたことが好きな俺。


 新宿のツタヤでセールだったので映画を借りてきた。歌舞伎町店の品ぞろえはとても良い。というか、ツタヤオンラインで借りられない作品が店舗にはあるというのはどういう理由なのだろう……(渋谷や六本木のツタヤでも、店舗にはあるがネットでは借りられないのがあるのだ……)

 実相寺昭雄『青い沼の女+中・短篇集』を見る。

 この人の作品って、かなり当たり外れがあるなあと見て感じた。表題作はTVドラマ?用に撮影されたとかそういう趣向らしく、まあ、これが酷い。いや、酷いという言い方は良くないかもしれない。TVで流れてる見どころがないサスペンスドラマ。

 ほかの短編集もどうかなあというのが多かったが、『宵闇せまれば』というモノクロ映画は俺の頭の中の実相寺昭雄っぽくて良かった。男3人女1人で部屋の中で倦怠感を持て余す。そのうち、ガスを部屋にわざと流し、だれが残れるかというゲームが始まる……

 そこまで特筆すべきような作品ではないけれど、モノクロの緊張感と倦怠感のある映画は流石と感じる。

 ギャラリーに行くからとアニエス・ヴァルダの映画も借りた。

『歌う女、歌わない女』

1962年の冬のパリ。ポムは17歳の高校生。明るく、歌が好きで、人気者の彼女は大学受験の準備より、両親の家を出て、歌手になって旅に出ることを夢みていた。

ある日、通りかかった写真スタジオで、ジェロームという写真家が撮った女性たちの写真を見て、その女性たちの一様に淋しく、美しく、人生の影だけをせおったような姿にやりきれない気持になる。

それらの写真の中の女性の一人、シュザンヌは、ジェロームの内縁の妻で、22歳の若さで3歳のマリーと9ヵ月のマチューがいた。貧しい生活の中、さらに3人目の子供が生まれようとしていた。

 

 という、歌う陽気な女ポムと歌わない陰気「だった」女(ウーマンリブの活動家になる)シュザンヌの物語。

 数十年前のパリのウーマンリブ運動(と中絶)と歌が中心となった、二人の女性の友情と人生の物語。というと、かなり重い内容だと感じてしまいそうだが(実際そういう側面もある)彼女の映画だからか、最後まで見通すことが出来た。

 それぞれのつらい道のりを二人は歩むことになるが、当たり前だが人生は辛いことだけではない。そして自分の人生を生きる、ということを伝えてくれる良作だと感じた。

 ただ、俺が現代に生きている男なので、分かってない、感じられない面があるかもしれないので、多くは語らないようにしようと思う。

 続いて見たのが『カンフー・マスター!』

 中年女性が、娘の同級生の少年と恋に落ちるラブストーリー。40歳のマリーは、娘のルシーの誕生パーティーでルシーの同級生ジュリアンと出会う。

 という内容なのだが、主演がジェーン・バーキン。その娘役が実娘のシャルロット。しかもジェーン・バーキンのお相手の少年が監督、アニエス・ヴァルダの息子(美少年です)というかなり豪華な面々。しかもバーキンの両親までバーキンの両親役でちょっと出演するとかいう、あまりに身内参加がすごくてどういうことなの? ファン向け映画なの? といったキャスト。

 劇中に登場する、ゲームセンターにあるカンフー・マスターは、日本のスパルタンXの英語版(?)で、ファミコン世代としてはニヤニヤしてしまう。しかもゲームセンターにはアルゴスの戦士マイティボンジャックの英語版らしきものまでちらりと映っている! (バーキン映画でこんなの喜んでるのは俺だけかも……)

 で、肝心の映画の出来はと言うと、80分の短い中でちょっと長すぎるゲームシーン。そして説明不足なジェーンと娘や家族の関係等、ちぐはぐな印象もある。人によっては(ジェーンファン以外には)何で中年女性に美少年が夢中になるの? みたいに思ってしまうかも。

 ただ、思春期の不安定な演技を見せる、母への愛憎にも似た複雑な感情を表現するシャルロットはほんと演技がうまいなあと思った。

 それにジェーンと少年のままごとみたいな大人びた恋も、ほほえましく、ほろ苦い。

 終盤で離ればなれになって、少年が違う学校のクラスメートに「前の恋人は俺に夢中だった」というのもさっぱりしていて好きだ。

 せつなくて、本気で愛して、でもわりとどうでもよくもなってしまっている感じとか、少年期の強がりが感じられて好きなラストだ。

 いや、でも俺疲れてるから明るいのが見たいんだ! ということで何年も前に借りたはずの、バルドー主演の『裸で御免なさい』

 というか、これ新宿ツタヤのレンタルに監督「ロジェ・ヴァデム」となってるけど、≪監督・脚本≫マルク・アレグレなんですがいいのか……(ヴァデムは脚本で参加)

内容は


 兄を訪ねてパリにやってきた作家志望のアニエス。生活費の足しにしようと、
兄の本を売りさばいたはいいが、そこに混じっていたのは何とバルザックの初版本!
一刻も早く本を買い戻すため、彼女は賞金目当てでヌード・コンテストに出場するが……。
バルドーが健康的な肉体美を存分に披露するお色気コメディの傑作!!


 というおバカコメディ。正直強引なご都合主義が目につくが、それよりもスピーディーな展開とかわいらしいバルドーを楽しむのがいいだろう。というか、ほんとこの時代のバルドーは可愛すぎる。お人形よりもかわいいお人形ってどういうこと? みたいな阿呆な感想が浮かんでしまう。

 かわいいは正義。ほんとにそう思う。

 それに、単純に、きれい、かわいい、かっこいい、とか好きな感情が出るっていいことだなあと思う。

 俺は余計なことまで考えすぎてしまうし、すぐに疲れて寝すぎてしまう。自分の人生を貧しくするのは、やはり愚かなことだ。

 俺に色んな力がないとしても、美しいものを、好きなものを好きと言えるならばまだ生きていける気がする。生きていきたいなと思う。

 俺はいつも揺れている。そこに海辺のような美しさはない。でもそれが俺の人生。