ヤンキー。優等生、それ以外

色々あって、気分が落ち着かない。それでも、やらなきゃいけないことはあって、心配事があって、気持ちが悪い方に引っ張られる。まあ、でも、そうじゃない話もある。

 身体動かしてると、ある程度気分転換になって、へとへとになって頭を使うような本が見られなくなる。自由に本を読んだり過ごしたりしたくて、根無し草生活を選んだのだけれど、たまに、その寄る辺なさに何もかもがどうでもよくなって、誤魔化して、何かしら消化や目隠し。

 汗かいて、必死で肉体労働。なまりきった身体には辛いけど、これはこれでなんだかいいなって。身体動かして目の前のことを片付けなくっちゃ。やるべきこと、沢山あるんだ。

 俺が真面目にやってると、いきなり初対面の職人さんに「にいちゃんさあ、スゲー顔してるけど、連続殺人犯にいなかった?」って話しかけられ、思わず苦笑い。でもさ、喋り方で雰囲気で、悪意で話かけているんじゃないって分かるんだ。だからさ、

「マジっすか。俺超善良な一般市民っすよ」って苦笑いで返す。自分で喋りながら「俺は善良だろうか?」と自問自答。すると職人さんも軽口を返す。その後も、折に触れて俺にちょいちょい話しかけてきて、こんなに俺に色々話しかけてくる彼とは、もう会うことはないのにさ、何だかくすぐったいような不思議なような。でも、ヤンチャな感じの、こういうノリっていいなって思うよ。

 多分、俺と気が合う人ってヤンキー(気質)か優等生(気質)が多くって、良い面だけ上げるなら、前者にはノリと情があって、後者には生真面目さと思いやりがある。俺は彼らのそういった要素を持ち合わせているはずだが(たいていの人にあるのだ)、いや、そういう振る舞いができるはずだけど、結局の所ヤンキーにも優等生にもなれなかった。

 昔はそれになりたい、って思ったことがあったのかもしれない。

 何かになって、誰かの仲間になりたかったのかもしれない。

 仕事終わりにふらふらと。近場だからと用もないのに疲れ切った身体で浅草雷門へ。仲見世の、うさん臭くてざわついた雰囲気はとても好き。ごちゃごちゃしていて、よく考えれば欲しい物なんてないのに、なぜだか魅力的に映る。特に外国人向けのチャチなお土産が好きだ。JINBEI を着たマネキンは頭に「神風」と書かれた日の丸ハチマキをしめている。クールジャパン!

 修学旅行生の白シャツとグレー(千鳥格子)のボトムスを見ると、若さに溢れていて可愛らしく映る。慣れない地をゆっくりと歩く学生さんは何にわくわくしているのだろうか。

 二人組の男の子の一人が 春はあけぼの の調子で「春はあげぽよー」と言っていて。意味わからんし阿呆でかわいいなあ、と思ったが数秒後に本当に彼は「春はあげぽよー」と口にしたのか自信がなくなる。俺は耳が悪い。それにティーンの子が「あげぽよー」なんて言うか? 考えれば考えるほど自信がなくなる。かわいい、可哀相なのは俺の脳ではないかという思いがよぎると少しだけ落ち込む。

 面倒事やら色んな事が一気に降りかかってきて、どうしようかなって思う。ふと、好きなアニメの言葉を思い出す。

「やるべきことがあったら、できそうになかったとしても、戸惑ってしまっても、覚悟を決めるの。そしたら気持ちが楽になるわ」

 かなり朧げだが、こういう趣旨のことを言っていたはずだ。大切だ、覚悟を決めること。受け入れること。悪いことなんて不安なんてありまくるんだから、それに拘泥し続けるなんて居心地がいい。そんな甘えばかりじゃあだめだよね人生。

 しょっちゅう心が折れる。ああ、もう頑張らなくていいのかなって思う。でも、何度も再生できるんだ、ってことにして。

 ある人と、色々と話して、その人のおすすめのアニメを教えてもらった。その人は自然な気遣いができる人で、そういう人といると俺も自然にそういう振る舞いになる。

 ほんとさ、俺、その場その場で誰かのように振舞うんだ。かっこ悪いね。でもそういうかっこ悪い処世術、誰も彼もしてるかも。そんでさ、ノリいい人にノリで返したり、思いやりがある人にこちらも気遣ったり、そういうのはいいことだと思うよ。あいてとたまゆら、空気の交換。

 教えてもらったアニメの題名をパソコンに打ち込み、PVを見ると、あっ、いいかもって思って、即ネットフリックスに入会。

キャロル&チューズデイ

火星のハーシェルシティの富裕な家に生まれた少女・チューズデイは愛用のギターと家出。首都のアルバシティに着いたものの荷物を盗まれ途方に暮れる。チューズデイは、アルバイトをしながら、路上でキーボードで弾き語りをしていたキャロルと知り合い、彼女のアパートに転がり込む。意気投合した二人は一緒に曲を作りミュージシャンを目指す。

 

 という内容で、少し未来の、住めるようになった火星(近未来アメリカ的な雰囲気)でのガールミーツガール。話の筋は分かりやすい感じでテンポよく進む。少し未来の世界におけるコンピュータやらガジェットの描写が楽しい。女の子同士が意気投合して、問題はありながらも夢いっぱいな感じもわくわくする

 そしてなにより、歌が曲が良い。二人でセッションして、曲が生まれる感じとかを尺をとってしっかりと描写しているし、アニメも曲も力が入っていて引き込まれる。

 これ作ってるの、俺が大好きな「坂道のアポロン」の監督だと知って、納得した。ほんと好きなアニメなんだ。若者の恋や青春はもちろん、音楽をしっかりと描いてる。力を入れたアニメーションでセッションしてたシーンを思い出せるんだ。ああ、作ってる人も登場人物も音楽が好きだって分かるんだ。とても素敵なんだ。

 俺にキャロル&チューズデイを教えてくれた人に、好きなアニメは「坂道のアポロン」って伝えたんだ。その人は見てなかったけど、きっと、見たら気に入るはずだ。どっちも、登場人物が、音楽が好きだから。

 アニメの中の彼/彼女たちの大きな冒険。視聴者の俺に灯る小さな火。そういうこと、考えていかなくっちゃなって。

 諦めるまで、誰かのことを、好きな誰かのことを、死んでたり生きてたり生命がなかったりする誰かのことを考えられたなら。

酔いたい眠りたい

 僕は朝からおしっこ行きまくりでした。昼過ぎまでに4回もおしっこしました。僕の余生はおしっこ製造機として生きるのかなと思って絶望していました。その原因はジュース飲みすぎだということに夕方気付きました。

 ジュース メイド おしっこ

 悪い子のみんなはよく覚えておこう。ジュース飲み過ぎると排出されるんだ。豆知識だ。 

 

 飲み物のみまくり。連日お仕事。空いた日は面接、面接の後も仕事。なんて、働きまくっていた。あー俺マジ働きものやで、という思いがよぎるが、これ、社会人なら普通やんけ。

 いかに普段の自分が働いていないか、と思うとやべーなって思うけど、やばいと、頭と予定スカスカだと、いろんなもの詰め込めるよ詰め込もうノイズ。

 連日入ってた仕事が終わり、ビールで赤くなった顔で繁華街の歌いながら歩くと、幸福。

 

 

春でも秋でも真冬でも 愛はストリッパー

 

ってなんのことだよ、でも、かっこいいからそれでいいんだ。

 

中森明菜 少女A

 

 普通の女の子なの ってさ、言いたいことは分かるし間違ってないんだけどさ、こんな17歳他にいるのかよって感じでほんといい曲。中森明菜すごいね。

 暗くなった街で、明かりを避けて駅まで。家に着くころには酔いが醒めて、色々と忘れていたことが沸き上がってくるけどさ、疲れて、なんとかシャワーだけ浴びて、寝る。

 やっと訪れた休みの日、何かしなきゃなあと思いながらも、結局何もせずに無駄にする。

 そんなんよくないってことで、そこまで行きたいわけでもないけど、チケットを買って横浜高島屋へ。

 画業と暮らしと交流 横山大観 を見に行く。

 チケット代よりも俺の家から横浜への往復交通費の方が高いよって話。会場はかなり年齢層が高く、入りはほどほど。まあ、デパートの展示だしなあ、なんて軽い気持ちで鑑賞。けどさ、実物の墨絵を見ると、やっぱいいんだよね。

 前半は大観のコレクション、後半は自身の画が展示されていた。

 前半の大観のコレクションの中の作品。そんなに好みのは無かったのだが、夜桜 という作品(作者失念。美術館とちがい図録もらえない)は好きだ。

 花弁が薄い黒紫色で着彩されていて、重い感じがしながらも、花弁の端の方は塗られてないんだよね。闇の中の桜という感じの重々しさと、ちらと感じる花の白さを感じられる佳作。

 大観はタゴールとも交流があったそうで、掛け軸にタゴールベンガル語で詩を書いたのも展示されていた。かっこいい。読めないけど。どうせならキャプションで訳を書いて欲しかったなあ。

 大観の作品では 月下逍遥 という縦長の掛け軸の作品が見事だった。下の方に三人の古代中国風の風体の男、崖から伸びた樹、その葉は薄茶色なのだが、そこかしこに苔色の鮮やかな緑が散らされている。

 空白の多い墨絵の中でうまく濃淡を配していて、鮮やかな苔色の効果もあり、月下逍遥という題がとても合っていた。

 他にも動植物を墨で描いてるのがほんとうまいんだ。こればっかりは実物を見なきゃ分からない。売り場にポストカードがあったんだけど、全然違うんだ。印刷ではこの微妙な差は出ないというか、出せない。

 こういうのを現場で感じられると、実物を見られて良かったなって思える。

 でもさ、ネットが便利すぎて様々な作品だって本で触れることができるわけで、何もかもを味わうなんて難しいことだ。現物を見なくても、見られなくても、胸に刺さった大好きな物はいくつもある。

 ただ、自分ができるのは、しなきゃいけないのは、面倒くさがらず、外に出ることなんだろうなって。

 展示を見に行ってがっかりした回数の方がはるかに少ないからなー。そんなに見たくないよ、って思ってもさ。その金で時間で家でお菓子食べてたいよって思うけどさ。外でお菓子食べればいいべ。今日はたべっこどうぶつ二箱、横浜で歩きながらたべる、どうぶつ。

 数年ぶりに来た横浜駅。背の高い建物が多くって、何だか慣れないなあって思うけど、新宿や渋谷に初めて来た人たちも似たような感想を抱くのだろうか。デパートの綺麗な身なりの販売員とマダム。街には路上の隅にたまる疲れたリーマンと若者。こういう猥雑なエネルギーっていいなって思う。都会好きなんだ。よそよそしくって、意外といいとこある、そんな感じだ都会。

 家にいたら、寝ちゃうから俺。外でなくっちゃな。外で酔ったり冷静だったりしなくっちゃ。

残虐行為手当欲しい

 珍しく日々おしごと。めずらしい……? まあ、いい。とにかく、へろへろになりながらも、それなりに調子が上向きになっていく、こともある。元気じゃなくてお金とかの心配をすると、気分が落ち込むだけですしおすし。

 タレントがテレビで、歯磨き粉と洗顔フォームを間違えて、なんて、たまーに目にすることがあって、俺はそんなんあるかよ、あんま面白くねーなって思っててさ、先日髪をセットしようとジェルを出して、髪に撫でつけてたら全然決まらなくてあれ? って思ったらジェル状のシェービングフォームでさ、慌ててシャワーかぶって、濡れた頭に無理やりジェルで仕事へ。

 っての今週で二回もしてしまった。バカなのかな?

 でさ、昼休み、中目黒。ランチ高いし。お昼のランチで九百円、千円が普通なわけで、俺みたいなプレインズウォーカー<多元宇宙移動魔法使い>はそんな金ないわけで、ドンキホーテで賢くお買い物だーあーマジドンキ安いしほんとドンキは皆の味方だよね、あれもこれも買うべ買うべ、で、いろいろ買ったらレジでお会計千円……あれー店員さん間違えてないっすかねーってレシート見たら、ずらずら並ぶ食品。店員 イズ JUSTICE 。俺 イズ BAKA 袋の中には一食じゃ食べきれないお弁当とパンとおにぎりとおそうざい。

 まあ、疲れてるんだよ俺。

 肉体労働をするとへとへとになって、気づいたら寝ちゃう。本なんて読めないマジで。会社員で読書家の人マジ凄い。俺は無理かなー無理会社員、ダメ、絶対。

 でさ、仏教系の対談集を読んでいてふと思ったんだけど、諸行無常ってことばがわりかしあがっていて、ならさ、釈迦の教えも移り変わる物なんじゃないのか? なんでそこは変わらないものとして信じ続けるのだろう? 

 キリスト教とかの方が強引で、神様偉いから信じろよ疑うなよ、みたいな信者以外は分かんねーよ納得できねー的な感じがあり、だから俺は教義に従うというよりかは考える、仏教の教えが面白いなあ、と感じるのだが。

 帰依する、ということに対する関心と危惧が自分の中である。強固な体系を受け入れる人のことが気になる。俺も大きな物語とか神様とかがいたら素敵だと思うんだけど、そういうのってレヴィナスの言う外部で、だからこそ機能する、と考えるのがとてもしっくりくるのだ。口に出せない程の恐ろしい物に、名状しがたいものに、ふれてしまえるだなんて、考えづらい。

 なんて御託、書き散らすのも多少の余力があってこそ。労働でへとへとになったら寝るだけだ、映画だって見れないよね、なんで、少し前に見た映画の感想。

 

 成瀬巳喜男監督  川端康成原作 原節子出演『山の音』を再び見る。前に見た時は学生だったと思うから、十年以上前になるだろうか。川端の原作は高校の頃に読んで、話の筋は複雑ではないから、気軽に見返そうと、この映画を手に取った。

 割と多くの人が思うことらしいのだが、小津に似ている。人物を中央に配した切り替えしとか、構図や柔らかな陽光、自然光(的な穏やかな明るさ)がスゲー小津っぽい。

 あと、原節子がいるからだろうか。原節子って昔の日本映画の中にいると、すごく異質な顔のつくりをしていて、外国人のような彫りの深さの彼女が一般家庭の気の良い奥様、みたいなのを演じているのを見ると、それだけで奇妙な感じがしてきて、しかしそれは汚点欠点では決してなく、しかし俺はお嬢様や奥様として古い映画に登場する彼女を見ると、役者が飛び出してきた、かのような、今自分が見ているのが映画なのだと思い知らされるような、不思議な心持になるのだ。

 映画としては川端原作の不気味な、主人公男性の背骨を舐めるかのような死の影老衰の影、といった物が鳴りを潜めてはいるのだが、それでも何だか奇妙な感じがするのは、俺が原節子から抱く印象からだろうか。

 

もう一本、成瀬巳喜男監督、高峰秀子出演『稲妻』

 原作・林芙美子、監督・成瀬巳喜男、主演・高峰秀子

 って並び、ほんと好きなんだ、『放浪記』『浮雲』ほんと好きなんだ、でも、この映画は、どうなんだ。自分の中で評価をつけるのに困った。勿論出来が悪い映画ということでは決してないのだ。なのにさ、消化不良というか、四人の兄弟の父親が全員違う、ってのいかされていたのだろうか? それでラストのやり取りがあるのは分かるのだが……もう一つくらいドラマがないと、なんて思ってしまった。それにラストも俺にはなんか物足りなかったんだよね。あっさりしすぎていると感じた。

 まあ、見ている時は楽しめたんだけどね。勝手な期待が大きすぎたのかもしれない。

 仕事終わるとさ、疲れ切ってるんだけど、なんだか歩きたい気分で、一駅二駅歩きながら帰る。ipodで曲を聞いたり、口ずさんだりするんだ。何も解決していないのに、何もいいことなんてないのに、何か、良いことがあったようなこれからあるような気分になる。数十分位、歩いていたい音楽聞いていたい小声で歌っていたい。

 カサブランカ・ダンディ - 沢田研二

 

 

 沢田研二 阿久悠 マジいいっすね。セクシーってこういうことなんですね多分。

"MILKY WAY" TOWA TEI with Yukalicious, Joi Cardwell & Ryuichi Sakamoto

 テイトウワ 外れないって感じですよね。けだるいのに悲しいのに幸せ。まるでハウス、クラブ、ソウルミュージックみたい!!!

 働いて帰宅して。そしたら売る物を段ボールにつめる。怠け者なのに俺、自分が自分じゃないみたい。たのしいかなしい。

日々小銭

久しぶりに決まったそこそこきちんとした仕事だったのに、辞めた。色々悩んだのだが、面接の時の説明と違うことがあって、どうしても無理になってしまった。求人や面接での説明と現場は違う。なんてこと沢山あったし、俺に限ったことではなく、働く人あるあるなんだと思う。

 そう思って、どうにか頑張ろうと思ったが、頑張れなかった。無理して頑張るのがいいのか、さくっと辞めるのがいいのか、それは難しい問題だ。でも、申し訳なさと不満を抱えながら面接をしてくれた人に退職の説明をしたら、その人がきちんと謝ってくれて、それだけでよかった。ありがたく、申し訳ない気持ちがわく。当然のことなのかもしれないけどさ。

 でも、そしたらまた仕事探し。日々やりたいこととかやるべきことよりも、日銭稼ぎのことばかり考える生活。生きるための、テンションが上がらない。なんだか、俺、穴の開いたタイヤに空気を送り続けているような、穴の開いたバケツで水を汲んでいるような。

 でも、なにがあったって、どうであれ、俺が諦めたらそれでおしまい。早く、終わって欲しいなあとおもいながらも、まだ頑張らなきゃって。わかんないけど。色々分かってないけど。

 そんな時の日銭稼ぎ肉体労働は、なかなかいい。余計なこと考えてる気持ちの余裕なんてない。言われたことをひたすらこなさなきゃいけないんだから。

 それにしても、まだ五月なのにさ、暑すぎる。マジ、ダメになりそう。

 ダメになるって、ほんとのとこは分かんないけどさ。分かりたくないけどさ。

 次の現場まで時間あいて、渋谷から歩いて青山ブックセンターへ。普段見ない荘苑をパラパラ見ていたら、荘苑賞の作品と選評が載っていた。ファッションは好きだけど、自分はもうそういうのとは違う世界だ、なんて思いながら、何気なく見た。

 自分に刺さった、というわけではない。なのに、あーすごいなあと感じた。頑張っている人がいて、審査している人のコメントも真剣で手厳しく的確だ。頑張ってる人見ると、やっぱ、いいなって思う。知らない人、会うことがない人、どっかでめっちゃ頑張ってる人いるんだなって。

 そんで次の現場で、言われて気づいた。五年ぶりくらいに会った人。最初は知ってるって言われても「あ、たしかこういう人と仕事したっけなあ」くらいの記憶しかなかったんだけど、音楽の話、バンドの名前を出したら、急に記憶が蘇った。マジ音楽最高。俺の記憶力最低。

 連絡先だって知らないし、五年ぶりくらいに会ったのにさ、趣味の話したらすぐに盛り上がれる。こういうのっていいなって思うんだ。

 最近好きなバンドは? って聞いて、教えてもらった。その場で名前メモして、家で検索するよって伝える。

paionia - 東京 

 

 

 野太いボーカルに、ぐっとくる歌詞とメロディ。ああ、いい曲だなって思った(家に帰って検索した)。

 駅前で別れる間際、彼が最近ニューウェイヴのアーティストを聞いているという話をしていて、それじゃあ、と俺が超好きなトータスを紹介した。トータスはニューウェイヴじゃないけど!

 彼、すぐに検索してくれて、スマホにはtntのアルバムジャケが表示されていて、その場で「じゃあ」と別れた。

 Tortoise - TNT [Full Album]

 

 ふっと、気が楽になって。それも明日には消えてしまうような、か弱い灯だけれど、ありがたいなたのしいなって思って。

 嫌なことが色々あったとして、色々どうでもよくなったとして、でもさ、こういうこともあるんだって俺も何かできるんだって思うよたまに。

作り物に乾杯!

 金券ショップで、期限が明後日までの展示を格安で見つけた、という気のない理由でチケットを買い、休日の美術館という空間は遠慮したいものだけれど、覚悟を決めて朝早くから向かうことにする。

 俺は雑踏は好きなのだが、行列や店の中で人が多いというのはどうにも苦手だ。俺は目が悪く、美術館で作品を見る時は作品を間近で見なければいけないので、人混みの中で何かを見るならば鑑賞どころではなくなってしまう。

 行って来たのは、三菱一号館美術館 『ラファエル前派の軌跡 展』

 美術館へのアクセスは有楽町と東京駅の間で、有楽町、という名前を目にすると、いつも思い出してしまうんだ、フランク永井有楽町で逢いましょう。有楽町という土地の情報がほぼない俺にとって、有楽町=フランク永井という貧相で幸福なイメージが成り立っている。

ほんと、彼の甘い歌声は歌謡曲って感じがして好きだ。ちなみに有楽町には寄らずに、東京駅から美術館へ向かった。

 

有楽町で逢いましょう フランク永井

 

 

 三菱一号館美術館はお金をかけた昔の建造物という感があり、とても素敵だ。内部は天井がとても高く、そこまで敷地面積は広くないものの、開放感がある。

 で、肝心の客の入りなのだが、午前中に向かったからか、程よい入りで、見るのには困ることはなかった。また、今回は一部の作品はフラッシュ無しでの撮影が可能ということで、あちこちでシャッター音がした。最初は「おっ」と思ったが、じきに気にならなくなった。俺もいくつか撮影した。図録を買わない人間からすると、ありがたい配慮だ。というか、SNSでの拡散を目的としてこういう、一部撮影可という試みなのだろうか。

 目に留まったのは、チケットにも印刷されているロセッティの魔性のヴィーナスという作品。

 キャプションに「左手に美の象徴である林檎を持つ、美と愛の女神ウェヌス。肉感的なバラと長い雄しべのあるスイカズラに囲まれた彼女は、その添え名のとおり、右手に持ったクピドの矢で「人を心変わりさせる者」なのだろう。舞い飛ぶ蝶は、愛によって身を滅ぼした者たちの魂だろうか」

 と書かれており、アトリビュートを元にイメージが喚起される作品になつている。ただ、ラスキンに「花が雑」と言われたそうで、というか、正直、この画の技術の巧緻はどうか、と思う所があり、右上の取ってつけたような青い鳥も後輪の蝶と混じるような処理も、これでいいのかなあ、という感がするのだが、それでもこの画はとても魅力的だ。

 肉感的でかつ、人体や花の表現が作り物めいているのが、魔性のヴィーナスという題材と相性が良い。不自然に見える、構図としてやや収まりが悪いような配置、それこそも押しが強い、蠱惑的な魅力を持っているというのが、憎い、魅力的な作品だ。

 他に目に留まった作品は、ミレイの「結婚通知―捨てられて」 という作品。真っ黒な背景に浮かび上がる、手紙を手にした不安そうな不満そうな表情の令嬢。痛ましくも美しいその姿は、見ているこちらにも何事か起こっているらしいことが伝わってくるのだ。

 ウィリアム・ダイスの「初めて彩色を試みる少年ティッツィアーノ」

 屋外で液体と草花を用意して聖母子像を見ている少年の画。無理な体勢で椅子に身体を任せつつ、試案する、なんとも可愛らしい少年の姿。草木茂る屋外に対し、用意した花々がそこらに散らされているというのが、着彩やイメージの為の植物という対比で見ていて楽しい。

 フレデリック・レイトン「母と子(サクランボ)」

 見るからにお金持ちな母と娘が描かれた画。高そうな絨毯の上に寝そべる母に寄り添い、その口元にサクランボを向ける娘。二人の衣装は白、背景には百合の花々。金屏風には鶴。なんともロマンティックで品の良い作品に仕上がっている。

 エドワード・バーン=ジョーンズ「コフェテュア王と乞食娘」

 この画、俺が会場で見たのとネットでヒットする画とは違うのだが……

具体的に言うと、会場にあるのが下絵、習作みたいで、図録には個人蔵となっており、ネットでヒットする作品は、構図など全く同じなのだが、テート・ブリテンに所蔵されているという表示が出てきている。

 で、俺はちょっと習作っぽい感じの、この会場で見てきた画がとても良かったと感じたのだ。

 王が乞食の娘に惚れるという小説を題材にした作品で、会場の画だと、娘の顔の部分がぼやけて描かれている。それに対して、王の姿は立派で、甲冑の硬質な表現も見事。背景は木製の階段で、それらの書き分けが見事なのだ。明らかに力を入れて描かれている王の姿ではあるのだが、その王の少し上段にいる(会場の画では)顔がぼやけた乞食の娘の存在感。とても優れた画だと思う。

 そして、会場で一番俺の好みの画が バーン=ジョーンズ「慈悲深き騎士」

 主題はキリスト教の騎士道精神をロマン主義的な文脈で説いた『騎士道の誉』によるもので、兄弟の仇をとろうとしたした騎士だが、相手の命乞いから、それを許す。するとキリストの彫像が、兜を脱ぎ跪く彼を抱きしめ、その額に口づけるという画だ。

 こういうテーマがすごい好きなんだ。復讐、赦し、奇跡、抱擁、口づけ。厳かな顔つきをして甲冑を身にまとった騎士と木製の穏やかなキリストとの対比が情感を刺激する。

 こうして書き出してみると、好きな、素敵な作品が多く、思っていたよりもさらに良い展示だった。昔流行った中世ファンタジーゲーム好きの人にも受けそうな展示だと思った。

 会場から出て、有楽町方面、国際フォーラムで大江戸骨董市を開催しており、足を運ぶ。社会のネジとして嫌々働いていた時(今も)、ここに何度か行く機会があり、その時に知り合った人に「君さあ、テロリストにいなかっった?」という素敵なお言葉を戴いた。俺、一応時給が発生している場面ではマジガチ真面目に働いてるのにテロと無縁なのに! とかなんとか、どうでもいいことを思い出す。

 会場では何だかよく分からない物が並び、いかにも外国人にうけそうな浮世絵着物食器、といったものが並び、外国人率が結構高い。会場を進むと、いくつかの店で、箱に大量のこけしがいれてあるのを目にした。なんで? つーか、雑に入れられたこけしを見るとなんだか悲しくなったぞ。

 最初はいかにもジャパニーズゲイシャフジヤマハラキリ商品だけかと思いきや、ウエッジウッド、ミントンといったヨーロッパの食器類やら雑貨やアクセサリーやらを売っている店もそこそこあって、江戸の骨董……なのか? と感じながらも、若者よりも年齢層が上のこの会場には合っているのだろう。

 お腹が空いて、会場の住みで家から持ってきたパウンドケーキを食べていると、目の前で三十代で素手で牛を殺せそうな北欧系カップルが、人混みの中で接吻をしていた。いやーん、まいっちんぐ!(なんてことは全く思っていない)。その横を、茶色に染めたツーブロックモノグラムのバッグを手にした、俺とは違い仕事ができそうなスーツリーマンが小走りで通り過ぎ、俺はむしゃむしゃケーキを咀嚼。

 のろのろと歩く、釣りの時に着るようなポケット沢山便利ベストを着たしょぼくれたおじいさん。メタルTシャツを着た。かなりふくよかで元気そうなアメリカ人(偏見)。こういう雑多な空気が好きだ。

 帰りの電車で、家から持ってきた文庫本に目を落とす。玄関に落ちていた本を拾ってきていて、それは川端康成の『伊豆の旅』という伊豆にまつわる作品集で、彼の『伊豆の踊子』は何度読んでも楽しく読める。冒頭が有名だけれど、末尾の部分も好きだ。

「船室の洋燈が消えてしまった。船に積んだ生魚と潮の匂いが強くなった。真暗ななかで少年の体温に温まりながら、私は涙を出委せにしていた。頭が澄んだ水になってしまっていて、それがぼろぼろ零れ、その後には何も残らないような甘い快さだった」

 川端の作品に対して毀誉褒貶 を目にすることがあるが、ロマンティックな題材は、そういうものだと了解しているので、俺は気にならないし、俺は彼の小説が本当に好きだ。

 傲慢で残酷でぬくもりがあり甘く、愛情深く冷え切っている。川端とジュネの小説にはこれらがあって、たまらなく好きだ。お金も友愛もなくても、ロマンティックな錯覚の為に、俺。

毛皮を花をくれよ

 色々大変だった。ただ、どんな状況であっても、自分のテンション、生活を立て直せるのって自力じゃなきゃ自分の意志でなきゃむりなんだ。諦めよう、としながらも、でも、そうじゃないんだって。愚かな繰り返し性懲りもなく俺。

 何度か写真史の本を読んでいたら、やっぱ俺、写真撮りたい、というか撮りたい構図というか映像が頭に浮かんできて、めっちゃハッピーになった。何でもいいんだ、モノづくりをしたいという衝動ってハッピーなこと。

 でさあ、カメラ買わなきゃならない。とりあえず、十万位? 上を見たらきりがない。どうしても思いきれないんだよなー。一、二万位ならさすがにどうにかするけど、はした金でやりたいことを断念するのはみっともない。でもなー俺にとっては切実なんだよはしたがね問題。

 ただ、それだけじゃなくて、撮影道具とモデルに着てもらう衣装も必要なんだよね。何か作ろうとすると先ずお金が心配になる。がっくし。毛皮欲しいなあ。動物か人から剥ぎ取りたい。

 まあ、それはいいとして、問題はモデルだ。セルフポートレートみたいなのあまりしたくない(自撮り技術がない)んだよね。でもさあ、俺のしたい撮影に協力してくれるような、無茶を聞いてくれるようなモデルなんて、いない! 正確に言うならば友達が、いない!

 というか、素人の遊びに付き合う奇特な人はいなくて当然で、力入れて活動をしている人だってネットでモデル募集とかカメラマン募集してるのをちらほら見るよなー。

 ネットを見ていると、そういう時のトラブルを目にすることがある。男性から女性への、或いは女性から男性への卑怯な行為。こういうの見ている方も嫌な気分になる。ほんと、セクハラとか加害者が被害者ツラするのを見るのは気分が悪い。スケベ心で相手を傷つけるのダメ絶対。

 そういえば、数年前知り合いになった人に裸を撮られたことを思い出した。「あくまで練習でどこかに発表したりとかは絶対にやめて」と俺は言ったけど、相手は曖昧な返事をした気がする。でも今となってはよくわからない。まーどうでもいいやろ、俺の裸なんてさ。

 てかさ、脱ぐなよ、俺。肌にタトゥー入ってるから特定余裕だし。幾ら俺のハートとボディがプラスチック製だからって、玩具だって傷つくんですよ!

 セクハラ被害者可哀相! よくないよね! じゃねーよ。

 危機意識低すぎだね俺。やばいね。これを読んでいる悪いこのみんなは、親しくない人に(恋人だって後でこじれるやで)裸撮らせたらだめだぞ! お兄さんとの約束だ!(言われなくてもそんなんしねーよ)

 でもさ、いいじゃん裸位。昔のデッサン、モデルポーズ集とかだとちびっこの裸載ってるんだよね。こんなんでガタガタ言う方がおかしい気がする。勿論児童の権利が侵害されるという点で、そういうのが出なくなったのは良いことだと思う。でも、見る側が「裸位どうでもいい」というのが共有されていたらなあと思うんだ。子供でも大人でも性器が出ていても出ていなくても、(ゾーニングされていたら)過剰反応するほうが変だと思うんだよね。肌がでているからって、不潔とか言わないで欲しい。自分が不快なのを誰かの、世間の意見として言う、その無自覚な正義パンチしたがりの人、ほんと苦手だ。

 

 なんて考える俺は野山で暮らしたほうがいいのかもしれない。危機管理も自分の身体が傷つくということも理解してない。賢い動物並みの知性。てかさ俺マジ虎になりたいガルガルワンワン!

 てかさ、俺の為に路上に転がってくれよお菓子買ってあげるから、ってことだよいいじゃん友達なんだから裸になっても新宿でころがってもさあ、でも、俺、ともだち、いたっけな……まあ、いいじゃん。友情無くても犠牲になってくれ無様な姿撮らせてくれ。俺ならするのにな魔が差したらさあ、俺、割と簡単に魔が差す魔に刺される。

 ということで、勅使河原宏の『ふしぎな森 勅使河原宏いけばな作品集1』を読む。彼の映画の作品はとても好きなのだが、彼のいけばなの作品を見ていなかった。植物はとても好きなのだが、いけばなって、敷居が高い。やるならある程度勉強したいんだよね。だから遠ざけていた。

 また、企業やオサレ空間で振れるいけばな作品。或いは本で見て、そこまで……みたいな感想を抱いたことがあった。植物なんだからそりゃきれいだよ。でも、そこに何かを見出すのが難しい。見出す、とかいう発想がおかしいのかもしれないけどさ。

 なのにさ、勅使河原宏の作品は、とてもよかった。それは彼がこの著作の中に書いている言葉で表せると思う。以下引用。(本の見開き、左側が写真で右が作品のキャプションと勅使河原宏の文章で構成されている)

 

 

 

いけばなから出発してオブジェに至る道程がある。それにはいけばなを反自然なものとして捉える理念に徹しなければならない。私はそこに光明を見出しているのだ。

庭がそうであるように、いけばなもまた反自然のものである。日本人の美意識は、自然のものをいかしながら抽象空間にせまるという独自性をもっている。

人がいけばなをいけているのを見るのは面白いものである。特に無駄なものを切り落としていくとき、自分の感性にてらしてみると大いに参考になる。

いけばなの素材はそれ自体の表現が豊かであるから余程しっかりした構成力を持っていないと、素材のおしゃべりに負けてしまって騒がしいだけのものになる。

いけばなの素材を、色と線とに割り切って捉えることが素材をいかすための最大の条件である。

緻密に練り上げていた花が、さりげなくという風情に仕上がれば最高ではなかろうか

こういう空間の取り方をするのは、昔私が日本画をやっていた、その名残りかも知れない。

いけばなをしている人の大半が、三次元の空間に気付かずに、専ら平面的生面性の世界に安住している。

いけばなに、いろんな意味を与える作り方には賛成できない。何かを象徴しているつもりになっている作品があまりにもそのものになり切っている場合は空間が限定されて白けてくる。いけばなは菊人形ではない。アブストラクトなものだ。

私はいけばなを反自然なものと解釈している。素材が植物だから<自然らしさ>に傾斜しがちだが、間違っている。利休が花は野にあるように、といったのは自然模倣ではなく、反立華を説いたのである。

いけばなに季節感などは無い。見るものが勝手にイメージするだけだ。

 

 

 

 こういった彼の言葉は、俺にとってとても分かりやすいものだった。それは俺が抽象画やミニマルアートが好きだからだと思う。感情移入の為の作品ではなく、空間把握と省略から生まれる形。それが美しいということなのだと思う。そして、美しい物の組み合わせで人をもてなす。

 茶道、なんて門外漢だって学んでいる人だって簡単に言えるものではないのだと思う。でも、簡単に言える部分があるとしたら、美しい物を作り上げてもてなすという精神なのだろう。そしてそれを生み出すには感性も構成力も必要なんだ。何かを作り出す時は、作品について目の前の物質を良くすることを、きちんと配置することを考えるべきだ。エモーショナルな部分はその後だ。

簡単なことではないとしても、するのが好きなら、それでいいんだとりあえず。美しい空間を作り上げるのが、もてなすのが好きだとしたら。

 で、勅使河原宏の映画「利休」についての本『利休ワークス』勅使河原宏+満共敬司 を読む。

 映画の中でスポーツやら武道やら舞踏やら絵画やらが題材になることがある。でも、その多くが退屈なものだ。それは本物を見た方がずっといいから。その当たり前のことを了解していないと、辟易するようなものができあがってくる。単純に、その「動き、運動」は映像として見るに耐えるものか、という価値判断が、美意識が肝要になる。

 『利休』は良かった。映画自体もそうだが、秀吉と利休が対峙し、花を生け合うシーンの簡潔さ。利休の映画と言うだけではなく、この最小限の応酬、省略はすばらしかった。美しいとされるものでも、長く映す必要が必然性があるのかというのは、考えなければならないことだ。短くて済むならば短い方がいいに決まっている。

 この本はその利休の副読本というようなもので、見ていて映画を思い出して面白かった。

 個人的に面白かったのが、秀吉(山崎努)の怒りをかって、利休(三國連太郎)が自分の意志を曲げようとせずに、このままでは死んでしまうとりき(三田佳子)が泣くシーンでの解説。

 

ラストカットで、りきは利休の膝に顔をうずめてすすり泣く。この芝居がやや新派風であるという批評があった。つまり、型にはまりすぎているということだろう。

 たしかに現実生活では、人間は多分、ああいう悲しみの表現はしないだろう。もしする人がいれば、その人は芝居か映画でこんな場面を見ていて、それを演じているに違いない。

 では一体どんな悲しみ肩をすればいいだろうか? それも桃山時代の女性がだ。……考えてみればなんともむずかしい問題である。

 ただこの芝居をしている三田さんは、型にはまっているからこそ、いかにも気持ちよさそうに演じていた。そしてそんな芝居を喜ぶ観客がいるのもまた事実である。

 

 この映画の出演俳優は、三國連太郎山崎努中村吉右衛門松本幸四郎岸田今日子、といった名前が連なる豪華なものになっている。でも、演技では素人の人も多く出ているのだ。映画は最終編集権、監督の物であると俺は考えるので(編集で無言でどうにかなる)、演技の良し悪しについてはあまり分からないのだが、明らかにうまいとか下手なのは感じてしまう。

 で、三田佳子、わりといつも、なんか、下手というか型にはまった感じだと俺は感じていて。それを的確に評した文章がちょっと面白かった。

 ただ、演技がうまかろうと下手だろうと、迫るようなものだろうと型通りの物であろうと、映画として完成しているならそれでいいのだ。色々な役者がいて、それをうまく生かす。ああ、勅使河原宏は映画でも華道でもうまくそれをやっているのだなあと今更ながらにそう感じたのだ。

 やっぱすごい人がすごいの作ってるのを見られるのは、その考えに触れられるのはとても幸せなことだ。俺も何か作ろうって気になるし、プラスチックの心でも身体でも、暮らしていて悪くないって錯覚できるんだ。

 酔っ払うためには錯覚するためには、素面じゃないと真剣じゃないとフラットじゃないと難しい、というのはなんとも面倒な話なのだが、でも、もう少しもう少し、投げ出すことばかり逃げ出すことばかり考えていないで、頑張らなくっちゃ素面にならなきゃ人生。

夢幻チョコレートうつつ

イライラするとお菓子を食べる。ここ一か月近く、週四、五のペースで、一日にクッキーやせんべい類二袋、チョコ系二袋食べていた。なんかお腹ぷよってきた気がしている、つーかぷよって当然だべ!

 やべーし。俺、あんま太らない、と思っていたしそうなんだけどさすがにいい年なんで、ちょっと我慢するべきだしまじで。俺が栄養失調骸骨だったのは昔の話。でも、その時のセルフイメージをひきずってる。ガリガリの身体に一番、社会に適さない服が似合うでしかし。

 ということでおかしを我慢するためにお菓子を買おうと思ったんだ。体型維持の為には内容量が少ないお菓子食べればいいんだよね。

 でさ、久しぶりにペコちゃんのチョコえんぴつを手に取ったら、おまけのシールが売れ売れのうんこカンジドリルとコラボしていて、ペコちゃん、うんこの被り物してるんだ。

 マジかよほんと俺そんなペコちゃん見たくなかつた。君はそんな子じゃないはずなんやでもそんなの俺の思い込みだったんだ君のことを何も知らないのに一方的に清純さを押し付けていた俺が愚かな笑いものなんだよでも切ないよ君があんな姿になるなんて見たくなかった見たくなかったんだ

「あのこはーどこかの誰かとーえんじょこうさーいー!!!!!!」

 

 ということで、ツインクル買ってみました。初めて買った。可愛すぎてかったことなかったんだ。女の子が小さいときに食べたことがあるはずのお菓子。アルミホイルに包まった卵型のチョコレート。その中を割ると、こんぺいとうやチョコレートやラムネが入ってるんだ。マジかわいい。俺を割ってもただれた臓物しか出てこないけど、ツインクル割ったらおかし出てくる!かわいい!

 何かに依存傾向にあったりストレス過多だったりすると、何かを消費する際に、それを消化している最中に別の何かを消費しなければならない焦燥感に襲われる。

 例えば物を食べる時に貪り喰らう、みたいなの、良くないって分かってるのにしてしまうんだ、でも、ちょっと、気分を変えてゆっくりと何かを味わう、向き合う、すると、身体感覚が蘇るような取り戻せるような気分になる時がある。

 代用品で我慢するのが人生じゃあない。

 俺の身体も俺の意志も俺の物、ということにしておかないと、生きるのは困難だ。その為にはお菓子と読書を。

 『ボルヘス怪奇譚集』を読む。ボルヘスが様々な国で生まれた物語の中から、本誌一ページ~四ページ位の分量のエピソードを集めた一冊。ぼんやりと、空想の物語に浸ることができる本。

 穏やかな夢の中でまどろんでいるかのような時間を味わえるこの本では夢の話もよく出てくる。昔の人たちにとっても、夢は様々なファンタジーと物語の源泉だったのだろう。良い夢を見る為によく生きる、なんてことは難しいことだろうけれど、寝ても覚めても素面で酔ってる時間が長ければいいのにな。

 マルグリット・ユルスナール『東方奇譚』を再読。ユルスナールの歴史ものより、ずっと気軽に読めるのがありがたい。

 最初におさめられている「老絵師の行方」という作品が一番好きだ。老絵師と弟子の旅の話。金銭を持たずに世界を旅する絵師、そして弟子は彼の為に私財をなげうち付き添う。

 旅の途中、彼らは王宮に捕らえられる。美しい容貌をしながらも、老人のような手をした、二十歳の王、天子。彼に何の罪があるのかと問う絵師。王は絵師に呪詛混じりで語る。素晴らしい老絵師の画に囲まれ過ごした自分が、現実の世界を見た時の失望を。

「死刑囚の血は汝の画布に描かれた柘榴ほど紅くないし、農村では虫が稲田を感嘆する妨げとなる。生身の女の躰は、肉屋の鉤につるされた屍肉のように、余に嫌悪をもよおさせる。(中略)世界は気の狂った絵師によって虚空にまきちらされ、われらの涙によってたえず消される、乱雑なしみの集塊にすぎぬ。漢の王土には最も美しい王土ではなく、余は皇帝ではない」

 そして王が老絵師に画を描けない身体にすることを宣告し、弟子が短刀を手にして王に飛び掛かる。しかし護衛兵に取り押さえられ、弟子は処刑される。

「兵士の一人が刀を振り上げ、玲(弟子)の首が切られた花のように胴を離れた。下役人どもが屍を運び去った後で、汪佛(絵師)は絶望しながらも、弟子の血が緑の石畳につけた美しい真紅のしみを感嘆して眺めた」

 この箇所すごく好きだ。首が切られた花のように胴を離れたという表現にも、強い絆で結ばれた弟子の死に絶望しながらも、目の前に出現した色に感嘆してしまう絵師の業、血についても。

 

王は老絵師へ最後の仕事として、未完成の山水画を描くように命じる。長い人生で蓄積した最後の秘密を注ぎ込むのだと、それを書き終えて両手を落とすのだと、王は言う。

 老絵師はその絵にとりかかると、その場には水が生まれ、そこには弟子、玲の姿が蘇っていた。そして二人は船に乗り旅に出る。飾られた絵には、もう、何も残されていない。

 あらすじだけ書くとなんだ、そうなんだって感じなのだが、これをユルスナールの実際の文章に触れると、ああ、彼女は老絵師のように、現実を夢幻の世界のように作り変えているのだということが分かる。

 幻想の世界、というのを構築するには、それ相応のセンスや筆力と言う物が必要になる。インスタントな、とりとめがないもの、びっくりする(させる)それ、というのもそれなりに面白いのだけれど、長い夢を見る為には、自分が夢を見続ける為には、強固な意志、素面の状態で向き合う必要がある。

 いつでも逃げ出していたい、なんて思ってしまう。でも、逃げ出すにしても毎日のチョコレートよりも誰かの夢想を。砂糖漬けのカカオよりも健康にいいんだ誰かの精製された妄想。と、いうことで今日もお菓子屋さん行ってきます。


Lab Pop Orange - GOODBYE CHOCOLATE KISS

 

 

 

 俺が学生の頃、当時六本木にあったゲーセンで、ホストがプレイしていた。めっちゃうまかった。ホストもポップンミュージック(のかわいい曲)するんだーって思ったんだ。いいよね。いつになってもチョコレート毎日食べていられるように。