愚か者が叫ばなくっちゃ愛を

 

 ずっと、美術の話しとかを書いていて、しかしそれで出来た友達はほぼゼロだ。ゼロではないが、俺はずっと、一人で様々な人の目に触れない人達を好きだ好きだ大好きだ愛していると叫び続けていたんだ。

 

 本当に大好きで大好きで大好きな、ジュネやジャコメッティユスターシュユルスナール中平卓馬や……そんな彼らのことを、届かない恋文を叫んで、叫んで、少し疲れた。

 

 本当は共感して欲しかったのかもしれない。俺も僕も私も好きだよって、誰かと毎日言いたかったのかもしれない。世界にはたくさんいるはずなのにさ、何でゴダール最高とか川端康成愛してるとか気軽に言えないんだろう?

 

 でも、好きだって言ってなきゃ、誰かを好きにならなきゃ生きていけない。だから、また、誰にも読まれない小説を、自分の為の小説を書かなくっちゃいけない。

 あ、そういえば、自分の予想通り、スマホ中毒になって、色んなゲームにはまって、アンインストールしまくった。

 

 今日、ロマサガのソシャゲをアンインストールした。大好きななんだ、サガシリーズ。一番好きなゲームのシリーズ、と言ってもおかしくない位、自分にとっては大切なゲーム。

 だけど、元々ゲームの出来には期待していなかった。大好きなキャラが、ガチャで出てしまったから、それで続けていた。本当に大好きな、ギュスターヴ君。ギュス様。

 ただ、さすがにゲーム内容は、ゲームではなかった(大半のソシャゲはそうだけど)。ゲームではないのに、毎日何時間もポチポチしていた。でも、心の隙間ありまくりな俺には、その頭を使わないポチポチがぴったりだった。

 部屋を暗くして、薬を飲んで寝て、起きたら、ふらついた頭で、ポチポチ。

 でも、そんな生活をしていて、ふと、まともにならなきゃなあって、少し思った。恋をしなきゃ。何か叫ばなきゃ。俺も、もう三十代半ば。友人や仕事や、世界とそこそこ仲が良い人なら、何歳でも、どうにかなれると思うんだ。でも、俺みたいなのが頑張れるのは、多分あと数年かもしれないんだ。

 愚か者が叫ばなくっちゃ愛を。駄目になりたくない。駄目になる前に、大好きだって、死んでしまった人に、生きている人に言わなくっちゃ。言わなくっちゃ。そうしないと俺、死んじゃうからさ、愛してるって言いたい、今も、すぐ。

むだなはなし

日記を書いていない期間、色々あって、なにを書けばいいのか分からなかった。幾らこんな場所でも、書かない方が良いことや書くべきではないことはある。別に大きなトラブルとか犯罪とかではなくて、個人的なあれやこれやの話。

 例えばこれが、紙に書く、自分しか読まない個人的な「日記」だとしても、事実だけを書くことはなかなか難しいと思うのだ。

 文章を書く人は、時折小さなフェイクを入れて書く。そのフェイクが文章に必要だから。体裁を整えたり、嘘によって膨らんだ言葉や、韻や、物語が、文章を良くすることがあるから。

 しかし、矛盾しているようだが、時には、何かに対して正直でいたいと思う、強く思う。人であったり、作品であったり。何でもいい。普通に、なるべく自然に生きてみたいと思うんだ。

 自分の身体が、フェイクの身体だと何度も感じてきた。離人感。病的なのか病気なのか、なんて些細な問題だ。人生が生活が意志が、自分ではどうしようもないことを心得ている。でも、できるだけ、自分で生きていたいと選択をしたいと思うよ。

 人に会うと非常に疲れるのに、誰かに会わずにはいられない。誰かに会ってアップデートを続けなければ、或いは真逆の不毛な行為を続けなければ、きっと苦しいんだ。

 愚かなのかは分からないけれど、とにかく新しいこと、新しい人のことを考える。だからか、ここ数ヶ月まともな小説が書けていない。文章を構成しようとする努力ではなく、何でもかんでも行動にうつさねば、という欲求が湧き出ている。

 それがフィードバックして、文章を書く何かになればいいか、そうなるかは分からない。俺は若くないが、そこまで老いてもいない。でも、時間がないって、俺の使用期限が、耐久期間がもうすぐなのかって、たまに思う。

 まあ、それがいつかは分からないけれど、豊かな方がいい。楽しい、悲しいは多い方が好きなんだ。

 無駄遣いが増えた。ストレスの矛先がお菓子と買い物へ。ああ、おかしのまちおかは悪い。でももっと悪い、ラグタグオンラインのセール。悪いんだ、でもさ、俺、契約更新料や税金で死にそうなのに、俺さあ、一か月ちょいでさあ、服飾、17点も買ってるの!! ラグタグオンラインで17点! 俺はマジ、ラグタグでできてるのか?

 でもさ、ラグタグ悪い。安すぎる。例えばさ、普通に買うと5000~10000円のTシャツが数百円で買えるんだよ! 

COMMUNE DE PARIS

DIESEL

603

 のtシャツが数百円! ナノユニバースやアローズやレイジブルーとか、そういうのも買ったし、そういうのが数百円なのは、まあ、分かるけど、COMMUNE DE PARISの(ほぼ)ただの黒いだけのTシャツ定価一万が数百円! 買っちゃうよね。あと、ディーゼルがしょっちゅう投げ売りされてる……なんで?

 あ、ポールスミスの五万のスーツ上下が二千円だったから買ってしまぅた。店舗でのセールで、試着したらぴったりだったんだ。オンラインラグタグで買って店舗にも行く……俺はそんなにラグタグが好きなのか?

 俺は身長が185センチ以上あるので、服のサイズで困ることが多々あるが、セール対象の小さすぎたり大きすぎたりで買い手がつかない特価品を手にするときは救われる。ああ、出会ってくれてありがとう! 

 スーツなんて着ないのに! でも、着たらきたで、楽しいけど。

 無駄遣い祭りで、出費がかさみ、怠け者の俺にしては珍しく、余計に働く(羽目に陥った)。余計に働いてると、頭おかしくなるね。ここ一か月半は、かなり色々あったせいで、三時から五時に必ず目が覚めてしまって、身体も精神もボロボロなのかハイなのか分からない感じだ。嫌な時間に目が覚めたり、帰宅して気づいたら眠りに落ちてたり

 でも、生きてる。

 あ、確実にはまると思ってた、ソシャゲには色々はまって色々飽きた。

最初にインストールして、はまった黒猫のウィズはもうログインボーナスすらもらっていない。だって、このゲーム、かなり簡単に一番レアなキャラが手に入ってしまうから。ゲームとしては好きだけど(俺の好きなクイズだし、キャラが現代にチューンナップしたビックリマン的などちらかと言えばちょい古い感じのデザインと物語性があり好み)簡単に強キャラが手に入り、それを強化するのも簡単だとなあ……ガチ勢ではないので、最高レアリティのキャラをずらりと並べたら、気がすんでしまったんだ。

 キキララのパズルも超はまった。とにかくかわいい。同じのを三つ以上並べるという単純なパズル。だが、全体の中盤くらいから、かなり難しくなり、運や課金が必須みたいになってきて、かわいいキキララな世界観なのに、製作者が「さあ解けるものなら(アイテムつかって)解いてみろ」とでも言いたげな、げんなりするパズル、というので疲れてしまった。

 他にも色んなのをインストールしては、少し遊んで消した。やはりソシャゲは、俺の求めるゲームとは違う。ガキの頃の俺がゲームに求めていたのは、夢中になっていたのは、そこに物語と言うか、一つの現実が、世界が感じられたからというのも大きいと思う。 まあ、ビジネスモデルが違うのだから、あまり深くつっこんでも意味がないのだが、パッケージされていて(ダウンロードでもいいけど)数千円で売っていたらやりたいか? って思ってしまうんだ。毎日ログインとかスタミナとか誰かとプレイとか、それはそれでプレイしてしまう要素だが、ゲームとしての楽しさとは別物だ。

 そんで、今はまってるのが、ロマサガのアプリ。ゲームとしては、オート放置周回ゲー。ストーリーは何も感じない、或いは蛇足としか思えないものばかり。なのにプレイしてるんだ。思い出補正? キャラ好き? 分からない。でも、俺が超好きなギュスターヴ君がガチャで速攻当たったんだ。ほんと好きなキャラなんだ。

 俺が大好きなキャラ、大体物語の中で死んでしまうんだ。死んでしまうキャラクターに、死を賭しても何かに立ち向かった人たちに、物凄く感情を揺さぶられるんだ。

 あ、それに無課金なのに当たりキャラがかなり出てる。今手に入る中で欲しかったキャラ、ギュスターヴ、最終皇帝、ハリード、コウメイ、コーデリアロックブーケ以外は手に入ってしまった。アザミとタリアとセルマという、なじみがないんだが、どうやらとても強キャラらしい女の子らも当たった。サガシリーズはとても好きで、このゲームが微妙でも、キャラ好きで遊んでたのに、気づけばパーティに選んでるのが自分が知らないキャラの女の子(ガチャのあたり枠の女の子)という状況……

 ああ、ほんとどうでもいいことを書いてる。どうでもいいこと書くと、少しだけ気が晴れた。頭と体がそわそわしていて、しかも疲れてたんだ。おまけに、小説がずっと書けなくって、小説が書けない俺なんて、マジ価値がないねって焦燥にかられるのだが(かといって、小説がかけていたとしても、それが軽減されるということでしかないのだが)何かしら新しいことを。先のことよりも、目先の何かに飛び込む。きっとそれでいいんだって今は思うんだ。

君が見たものを何度でも

大事ではないのだけれど、(いや、その時その時ではとても大事なんだ俺の中で)色々とあって盛沢山。良くも悪くもとにかく疲れる。眠りが浅いのに、家の中にいると、ふと、寝入ってしまう。

 自分の残り時間、寿命、ではなく、何かしら意欲を抱けそうな時間が短いような、まだまだあるような変な気分だ。小さなことで、ぽっきり折れそうな、折れても仕方がないような、根なし草生活。そんなの嫌なのに、結局の所それしかできないんだ。

 そんな生活を向上させるとしたら、好きな物を見るとか触れるとか。それが難しいとか欲もないとか叶わないから見ないふりをする、ことだって仕方がない、けれども何かしらしていなくっちゃ、駄目になる。駄目ってどういうことか、理解したくないし理解できてはいないはずなんだけれど。

 恵比寿にある東京都写真美術館で「場所をめぐる四つの物語」を鑑賞。四人の写真家の作品が展示されているのだが、誰の作品が見たくて行った、というわけではなく、まあ、気が向いたから、といったような感じで訪れた。

 最初に展示されている、ユージン・スミスの「カントリードクター」の一連の作品がとてもよかった。おそらく、アメリカの田舎医者の診察や手術の光景を撮影しているらしいのだが、そこにあるのは緊迫した雰囲気で、まるで戦場での衛生兵の働きのよう、なんて感想を抱いたのだが、当たり前の話だ。手術に挑む医師も患者も、真剣そのものだから。ただ、それだけの話しだ。そして、スミスがそれを写し出したのだ。

 とはいえ、ゆったりとした時間、カントリードクター、何でも屋のオフショットも収められていて、戦場だって病院だって、悲しみと徒労ばかりじゃあない。働いている人々の様々な姿をこの一連の写真からは見出すことができて面白かった。

 奈良原一高「人間の土地 緑なき大地 軍艦島」も、とても見ごたえがあった。軍艦島で生活をしていた労働者、その家族、子供たちを収めた写真。奇妙な、あるいは一般社会からずれた人々の生活の記録、というのはそれだけでモチーフとして訴求力がある。

 その中で、人を、人の生活をどうとるか、というのが写真家のセンスと言うか、好みなのだろう。ロマンチックな眼差し、親愛なる眼差し、或いは、対象者を見たい映したいという(表現者としての痛々しくも切実なロマンテシズム)欲望。

 彼の写真は、そういった物がほどよくブレンドされているような気がした。センチメンタル過ぎず、しかし彼らの生活に寄り添っている、惹かれているような感じ。突き放すでも傍観者でもない。ちょうどよい、距離。

 ユージン・スミスもそうだが、奈良原も俺の超好み、な感じの写真を撮る人ではない。でも、惹かれたのは、彼らの構図やセンスが優れているという以上に、彼らが訴えたいものが俺にも見えた、感じたということなのだろう。

 誰かと同じ、かのような物を見る、追体験するというのは不思議な経験で、しかしとても好きなことだ。芸術の、表現の好きな所は、他人の生を、美意識を感じられることで、俺は無数の人生の一編に触れているよな感じがするんだ、好きなんだ。

 外に出て、スマホで写真を撮るようになっていた。どうでもいい風景。できあがりも「たまに、マシかも」程度の。でも、続けていくのが大事だ。街の中に構図を見つける作業は中々楽しい。

 最近は疲れまくっていて、写真や演劇や美術の本を読むばかりで、ちょっと頭を使う小説が読めてないし書けていない。でも、まあ、別のことをするのも大事な時間なのかもしれない、ということにして。

 山下裕二『驚くべき日本美術』を読む。その中での、彼の現代美術に対する視線にスゲー共感。

 

「社会問題を反映している作品が多いんだけど、そんな映像は僕に関係ないじゃない。しかも言葉で言えることなのにわざわざ造形美術にする意味があるとは思えない。(略)だったらジャーナリストになればいい。ところがみんな、美術という衣を着たがる。だから僕は基本的に社会派の現代美術が大嫌いなんです」

「文脈=コンテクスト。説明しなければわからないこと、とでも言うのかな。それが多ければ多いほど、美術としてはつまらないんだと思います」

「文脈倒れの作品は、絵をかけないやつが理屈に逃げているだけなんです」

 俺は大学生のころから、キャプションで辛うじて自立できるような、美術館の中でしか生き延びられないような作品がとても嫌いだった。でも、美術館で見られる現代アートの大半が、その文脈、アートワールドでしか生き延びられない作品だったのだ。

 ただ、山下裕二はめっちゃ作品を見ている美術史家で、自分の好きな作品が大好きで(なんて健全な事だろう!)単純なことを言っているだけなんだと思う。作品は見て感動出来てなんぼだろって。当然の主張だ。美術作品、なのだから、見て美しいか、すごいと感じるかという話なのだ。

 俺があまり好みではない、現代アートの村上やら山口晃やらを山下は評価していて、しかしそのポイントは俺も同じなのだ。俺は「好き」ではないが、絵、作品そのものに力がある。前後の文脈、立ち位置、なんてものを考慮しなくても、作品にインパクトがある。

 画って、見て美しいかそうでないか好きか嫌いかってのが「自分」にとって一番だろ? 誰かの評価ばかり気にしてるようじゃあ、アートワールドの一員には、投資家にはふさわしいかもしれないが、芸術家としての資質には欠けているだろう。

 好きな物は好きでいいんだ。

 そんできっと、好きすぎたら、ただ、好きって言うだけじゃあ物足りなくなるんだ。

 色々とトラブルと変化の日々。どうにか、暮らしていけますように。いかなくっちゃ、いかなくっちゃ。

はじめてみます

ふわふわへらへらしている。新しい仕事は慣れなくって、ああ、駄目だなあと思いつつも続けていて、しかしここ一か月、ほぼ毎日五時には目が覚めてしまう。俺はめっちゃ神経質なので、環境の変化で寝れなかったり早く起きてしまったり、ということがたびたびあるのだが、それで体力が削られるのが痛い。寝坊助なので、一日8時間は寝たいのに、最近は3~5時間しか寝ていない。(そして、家で一時間程度寝おちする。)だらだらいらいらして気が休まらない。

 ろくに本も読まずに、へとへとになって帰宅をして、ゲームやゲームの動画を見て、気づいたらああ、明日になっちゃうよ。

 みたいなの、全然好きじゃあない。好きじゃない日々を過ごしていると、自己肯定感がなくなる。よくない。

 そんな日々、スマホを買った。予想通り、一日中スマホをいじることになった。これが怖くて買わなかったのだ! 

 とは言っても、ずっと避けては通れないことだけど。

 ちなみに、ゲームは一つしかプレイしていない(その一つに時間を撮られているから、一つだからって意味がない!)。

 あんなにプレイしたかったファイアーエムブレムメガテンロマサガもツムツムもプレイしていない。グラブルは前にやって生活がおかしくなってやめた。デレステもバンドリも、モンストやパズドラも、当分やらないはずだ。

 

 その代わりsnsで人と交流。初めて数日で、ちょっといいことも悪いこともあった。なんでこの人はこんなことをするのだろう! と思うことがしばしば。具体的には書かないが、そりゃあマナー違反でしょ! みたいな人多いね! でも、俺の存在も誰かにとってはそれに近いものなのだろう。

 ただ、色んな人の生活を見たり知ったりするのって、やっぱり面白い。

 多分、ずっと同じ生活を続けていると、俺は駄目になる。それが平気な人もそれでうまくいく人もいるだろうけど。変化に敏感で耐えられないのに、じっとしてはいられないなんて、馬鹿な話。

 雨がずっと続いていて、せっかくの休みを家の中で無駄に過ごしてしまった。本も読まずに、スマホとパソコンがお友達。

 でも、やっぱり外に出なきゃ、駄目になる。ぼーっとしながら音楽を聞いて、歩いたり電車に揺られたり。俺のチューンナップ(クリンナップ)・フェイズ。

 スマホを買ってから、たまに街を撮るようにしていた。勿論、全然いいのは撮れない。ちょっと気が利いた写真、誰だって撮れるだろ? というか、すぐに良い物ができるなんて思ってないけどさ、でもさ、良い物を見すぎちゃったからさ、自分の写真を見ると何だこれって思うよ。

 けど、それなりに楽しい。街の中で構図を探すことも、偶然写ってしまったものも。俺は一番好きな写真家のような写真は撮れないだろう。けど、自分好みの写真は、撮れるようになるかもしれない。

 

 

 しばらくは、スマホのカメラでも俺には十分かもしれない。とにかく、数を撮るのが大切なんだ、多分。

 雨の中、渋谷へ。大好きなジャコメッティ中平卓馬関連の本を買う。大好きな人の本、何度も読んでいて、似たようなのを読んでいて、それでいいのかって、たまに思うことがあるし、俺は似たような人に、何かの問題に固執して動けなくなっているのか、動かないのが居心地がいいのかって思うことがあるけれど、今日は悪くはないと思える。だって、本をあまり読んでなかったから。

 帰宅ついでに図書館に寄って、本を十冊借りる。大体、週に一度、土日に十冊程度借りる。こう書くと、なんだか本を読む人みたいだが、あまり頭を使う物や面倒な物は読んでいないし、小説ですら週に一冊程度。エッセイ、評論、写真が多い本とかが中心だ。

 小説を書く、というか、題材が決まってラストも頭に入ってきた(俺はラストが決まらないと小説が書けない)。ただ、書き始めに至らないのは、もう少しパッションが欲しいというか、足りないんだ、俺。寂しい悲しい辛い苦しい、とか、愛おしい嬉しいでもやっぱり辛い、ああ、自分の感情が動いてるんだって感覚。

 それは、多分誰かといなきゃできないことで、本を読む/誰かの思想に触れる、ということでも可能だけれど、毎日知らない人に会って、下らない話がしたい気分だ。もうちょっと俺が稼いでたら、出会った誰かに、二度と会わない誰かに奢ってやるのにな、なんちゃって。

 最近感じているのは、それが事実であっても、自分を悪く言わない(認識を向けない)ということで、まあ、そんなん無理な話だけど、そりゃあ、事実じゃんって話だけど、それをしていたら歩き出すのがおっくうになる。

 誰かのことを考えて、誰かのこと、ここにはいない誰かのこと、小説書きたいんだ。

哀れにならぬよう愚かにね

 新しい仕事について、へとへとになる。これがいつまで続くんだろうって、毎回考えて、でも、続かなかったとしても、何かを続けるとか依存するとか頼みにするしかなくて、でも、頼みも依存先だってなくって、毎日へらへらしてやり過ごすのは愚かな事だろうけれども、そんな自分を哀れだとは思いたくない、というか愚かでもいいけれど哀れなのは嫌だな。哀れなのは嫌なんだ。

 写真機が欲しい、と思いながらも買ってない。金銭的な理由が主だけれど、それ以外にもあって、「今」俺が撮りたいのは、作り物の画面、コンセプチュアルアート(好きではない言葉だ)とかファッション写真みたいなものらしいのだ。

 お膳立て、衣装やモデルがあって、やっとスタートラインに立てるようなのが撮りたいんだ。

 そんなぐずぐずとした思いを抱きながら、新宿の街を歩く。写真を撮りたいな、と思って街を歩くと、街をどういう風に収めようか、と、ふと、頭に構図が浮かんでくる。

 また、渋谷の街を歩くと、特にスクランブル交差点付近にはスマホのカメラ以外にも、ごっついカメラを手にしている人らがちらほらいることに気が付く。

 俺が写真を見る、のではなく撮ることを考えたのは、小説を書けない時間に何かしたかったからだ。俺にとって小説を書くことは気になるテーマやシーンの編集作業であって、何であれとても頭を使う。だから、もっと瞬発的な、制作をしたかった。頭、というよりも感覚的な何か。

 森山大道『昼の学校夜の学校』再読。森山大道と写真を志す若者たちとの対話の記録。若い人々からの質問への、飾らない大道の言葉がとても楽しい。以下、彼の言葉の引用。

(印画紙はゲッコーのVR4 RCペーパー)

 

 

 

(若い時の写真が勢いがあって圧倒されるという言葉を受けて)「そう思ったら自分でやらなきゃあね。とりあえずやみくもにでもいいから、まず自分でやり始めないとね。それがあなた自身の写真のコードにつながっていくわけだから」

「様々な路上をうろついているのかということをごく単純に言いますと、そこにはほとんどありとあらゆる物と出来事があるからです。あなたが言ったように人間と言ってもさまざまだし、風景にもまた色々ありますよね。それらがかぎりなくクロスする都市の街路はそれこそ多様な顔を持ったモンスターです。そして出来事と物とが氾濫している。つまりそれらすべての混成が、都市であり路上であり外界であり世界であると思うんです」

「撮り続けていないとだめなんです。たいして動かないで考えて、あのスタイルもこのパターンもイヤだと分かったとか言ってやめてしまったら、そこでおしまいなんですね。やはり撮ることによって変わっていくしかないんです。(中略)要するに写真を一枚撮るということは、自分の欲望を一つ見つけること、対象化することですから」

「量もまた最大の力になるわけです。小手先の美学や観念で作られた写真なんて量が一蹴します」

 俺が引用した部分からも分かる通り、彼は若い人たちにとにかく「撮れ」と何度も繰り返して告げている。また、考える、自分の作品にキャプションをつけて説明するのはカッコ悪いだろ(しかしそういうのが一部の主流に、評価されることになっているのだろうか)、沢山撮りまくって、それを見せるんだってことを告げていて、共感した。

「要するに写真を一枚撮るということは、自分の欲望を一つ見つけること、対象化することですから」という言葉が、特に胸に残った。

 今の自分が苦しいとしたら、虚しいとしたら、おそらく、欲望が欠けているとか欲望を発散できていないからだ。俺の人生、楽しいなって時間は少ないけれども、それでもたまにはあって、友人との恋人との満たされているような幸福な時だってあるけれど、それ以外はきっと、何かに向き合っている時間、作品に触れるとか作品を作っている時間だ。欲望、好きな物を捉えようとする、幸福な徒労だ。それは愚かだけれど、哀れじゃない。俺が何度手を伸ばして、しかし手にできなくても、悲しいなんて虚しいなんて思えない。

 でも、時々、どうしようとか、もう終わりにしたいんだって思う。気持ちが毎日ぐらぐらしていて、途方に暮れる。ぐらぐらし続けていると、単純に疲れるんだ。とにかく終わらせたいんだ。でも、そういう意識に身を任せるより、何か、手を伸ばす方がいい。

 スマホを注文する前に、充電器とカヴァーと画面に貼るフィルムを注文してしまった。スマホを使って、二十代の若い子がするようなことを、この年でするのかよ、って思うとなんだか気恥ずかしいけれど、そんなんよりも、さっさとやっていかなくっちゃなと思う。

 スマホのカメラでも、多分今の俺には十分だ。撮った写真もどこかに上げていきたいな。何かしら考えるよりも、そういうことをする時期なのかもしれない。何より、やりたいこと、やらなくっちゃ。がむしゃらに。

大丈夫だって言ってくれ

 悲しいことがあって、そのことばかり考えてしまってる。何とか別のことを考えようとするんだけど、うまくいかない。

 それ以外にも心配事やら不安事があって、じぶんで思っている以上に疲れ切っていた。睡眠も浅く、でも、日中にすごく眠くなったり疲れを感じたり。

 元気になりたいなって思うんだ。その為には、何か別のことに目を向けなきゃならない。

 あ、その話とはちょいずれるけど、AVGっていうウィルス対策のソフトをインストールしているのだが、(ずっと無料版を使っていて、アップデートをしてしまった?)なんと、三か月連続で6000円近く引き落とされている。使ってないのに!! 未だに広告が出る! 返金するには購入番号とかが必要なのだが、自分のページには購入履歴がない。買ったメールも届いてない。

 会社が外国だからか、サポートも頼りない。けど、使ってないウィルス対策ソフトの使用料金を毎月6000円も取るって、詐欺か? 普通でも、一年で6000円じゃないの? 日本の企業のソフトでこれないよねレベルの酷さ。ネットで検索してもあの会社の悪評しかヒットしない……どうすりゃいんだ!

 って、愚痴はおいておいて、渋谷文化村ギャラリーでやっている 

印象派への旅 海運王 バレルコレクション を見に行った。まあ、それなりに見知った作品だと、そこまで大きな期待はしていなかったのだが、とても良い展示だった。

 マネ セザンヌ クールベ ドガ ゴッホ ルノアール といった有名どころに加え、普段見る機会が少ない(であろう)スコットランドの画家たちの作品を見ることができた。

 ラインナップとしては、分かりやすい静物画や風俗画や海をモチーフにしたロマンチックなモチーフが多かった。それらが、当時の人々の生活を感じさせていて、このコレクションの世界に引き込まれた。

 キャプションに、コレクション内に動物が描かれているものが多いが、それは動物好きというよりも、その時代は家畜が今よりも人間の生活に結びついているから といったようなことがかかれていた。

なるほど、馬車を引く馬や、神話や権力者やアレゴリーなしで、主題として描かれる動物は、素朴な味わいがあって良かった。

 当時の人々は、どんな生活していて、何を考えていたのだろうか? そんなことを考えながら、当時の街を、人を見ていた。

 好みの画はウジェーヌ・ブータン トゥルーヴィルの海岸の皇后ウジェニー

 傘を持った婦人たちが集まり歩いている。その上に広がる空が広大な空間を感じさせていてよかった。にぎやかな地上の様子が楽しく、それよりもずっと広々と描かれている空との対比が良い。

 また、この展示の目玉である ドガの初期の名作 リハーサル がとてもよかった。 ドガはバレエを題材に様々な、動きを持った、生き生きとした人を捉えた作品を残しているが、この「リハーサル」はその中でもかなり優れた作品だと思う。

 右手前にスカートを広げて立つバレリーナ。左端には螺旋階段。その奥には練習中のバレリーナ、一番右奥には赤い服の講師 と、おそらく、実在の稽古場の一面を切り取っているのだが、そのバランス、構図が巧みで、今、まさにそれが行われているのだという緊張感が伝わってくる。現物を見られて良かったなあと思える作品。

 何か、誰かの何かに触れると、気分がすっとする。素晴らしい物について考えると、生きるのって悪くないって、その時は思うんだ。

 でも、疲れ切っていたから、すぐ帰宅して、翌日行くはずの映画もキャンセル。翌日もだらだら過ごしてしまった。

 疲れた時、どうしたらいいのかな。少しずつ、自分の生活を変えなきゃいけないと真剣に考えていて、ずっと持ち続けていた本やcdをまとめて処分した。でも、もっともっと処分する。そして、新しい物にアクセスできるように。

 スマホも来月買うことに決めた。少しでもフットワークを軽くしていなくっちゃ。外に出ないと、俺は駄目になる。一人家でパソコンとにらめっこも、控えなくっちゃ。パソコンが一番の友達、なんて、愚かな考えだ。それが事実であってもさ。

 ただ、これから、色んなストレスや不安や支払いを思うと、俺は働き続けられるだろうかとか、空元気を続けられるられるだろうかと、たまに、物凄く気持ちがグラグラする。

 そんな時にできることは、きっと、大丈夫だって、そう思うことなのかもしれない。俺は多分、大丈夫。どうにかなる。誰かの声を好きな人の声を聴けるなら、聞こうとできるなら。

無限新兵

 精神状態のアップダウンが激しくて、やたら疲れてる。安定剤をアルコールで流し込み、俺は大丈夫だ大丈夫だ大丈夫だと唱えたかと思ったら、ひとりでむっちゃにやけて涙が出そうなほど気分があがったりして。

 こう、文字にするとやべー人みたいだな違うんだ、ただ少し、色々あっただけなんだ。

 たまに、自分の感性が死滅していると感じることがある。ああ、俺はもう深い感動とか情動を抱かずに、フェイクだか幻灯装置だか影だかにすがるのかなあ、なんて。ゆっくり、一人、緩慢な自殺に向かって歩んでいくのかなって。

 そんな気分。みっともない、情けない状態にしばしば陥るのにさ、色んな変化があって、何か、したい、しなきゃって思ってる。

 家の段ボール三箱分本を売った。売ったというか、どうせ値段がつかないから、処分したと言ったほうが正しい。大好きな、大好きだった本たち。とはいえ、まだまだ家に本はあって、いまだに下駄箱の中に文庫本が入ってる状態。だけど、まだまだ処分したい。

 欲しくなったらまた買えばいいんだ。

 dsのカードヒーロという超面白いゲーム、俺、この前また購入した。このゲーム買うの五回目。同じゲーム五回も買ってるんだ。頭大丈夫か? 俺、ゲームはすぐ売り払う。なのに数年くらいしたらやりたくなって、同じゲーム買って売る、というのを繰り返してる。

 暇な時、パソコンでMTGA(カードゲーム)をしながらその対戦相手の思考時間でDSのカードヒーローをやっていた。そんなに俺はカードゲームが好きなのか? 好きなんだ。あの、魔法が描かれたカードという物が。

ゲームやりこんで強くする人がいるけれど、俺は弱いのを強くするのが好きだ。永遠の新兵。身体も心も老いるけれど、羞恥を抱きつつ新兵気分。

 そんで、スマホ買おうと思った。スマホ持ってないんだ。俺。ガラケーで十分過ぎる。どうせスマホかったらスマホゲーに夢中になる。金もかかる。俺携帯扱い雑だから壊すだろうし。だからガラケーで十分だと思った。けどさ、スマホで、もう少し、誰かと交流しようかなと思った。

 スマホで交流って、何時代の人ですかね……

 ミクシイ、昔超流行ってた。好きだった。あの、いろんな趣味について熱く語っている感じ。勿論今だって、それぞれのSNSでみんな語ってる。でも、俺はコミュニティと日記、みたいな形式が好きだった。文章読むの大好き。誰かが何かについて、長文で語っているの、大好きなんだ。

 なにかしら、色々と大好きになる準備しなきゃなっておもってる。

 準備? そう。あまりにも自分がダサイと、人と会いたくなくなるし、自分が何をしたって変わらないよ、って思えて来る。まあ、それはそれで賢明な判断だけどさ、もっとさ、自由に叫ぶというか騒ぐというか踊るというかそういう軽やかさ、俺、失ってきてる。よくないな。気軽に好きって、言えばいいのにね。

 俺、相当惚れっぽい。大抵のことに大袈裟な振る舞いで感動する。そういうの、奇妙に映るんだ。具体的な話はしたくないけど。俺、はしゃぐのも派手なのも好きなのに、目立ちたいというわけではなくて。

 でも、普通に見られますように、って念じながら委縮してると、それが自分の身体にまとわりついてくる。社会性。社会性がなきゃ生きられないよ誰だって大なり小なり持ち合わせてる。生きる為に寂しさを紛らわせるために愛の言葉を口にする為に。

 恥ずかしい真似、しなくっちゃなって思うよ。誰かに馬鹿にされちゃうような行為。奇異の眼で見られちゃうようなこと。誰かに(あんまり)迷惑かけないとしたら、したいなら、したほうがいい。

 俺、小説を書くから何かしらゲスイ状況に陥ると、ああこれ資料になるかもってたまに思うんだ。勿論渦中でそんな風に思えないことも多々あるし、絶対にほじくり返したくないこともある。

 ただ、色々経験しなきゃな。もっと、知らない人に気軽に会って、知らない人と喋って、知らない場所に行く。そしたらきっと、色々考えずにすむし。多分、自分のことを嫌いにならないで済む。新しい誰か、何か。そのことを考える。きっと、そわそわしちゃう。大変だ。なのに家にだっていたくない。

 俺が売り払った本たち、金井美恵子 古井由吉、松浦理恵子 笙野頼子 町田康 えすとえむ 他にも漫画沢山(でも彼らの本はまだ家にあるのだ) ロリータファッションの本とかスタジオボイスとか美術手帖とかゲームの攻略本とか(でもまだ家にあるのだ!) ゴミみたいに捨てるなら、誰かにあげればよかった。

 あげられる友達、作らなきゃな。ジャンクでもオートクチュールでも感情を共有できるような友達。友達じゃなくても、たまゆら、感情交換しなくっちゃ。(俺の売り払った本たちの多くは、なんというか、形容しがたい、素晴らしい物です。でも、売り払わなくっちゃいけない。ずっと、持っていられない。)

 気軽に誰かと交流することを考えると、気分が楽になる。俺、自由に喋りたいな。好きな物を人を好きだって毎日言いたい。

 海野弘の『ファンタジー文学案内』のプロローグがとてもいかしてるから引用。

 

 もしあなたが、若く、無名で、貧しいなら、ファンタジーを読んで欲しい。若いとは、あなたがいくつであろうと、今とこの世界を飛びたいという願望を持っていることであり、無名とはまだその願いを可能にするすべを見つけてはいないかが、いつでもその冒険に飛び出せる身軽さを持っていることであり、貧しいとは、今とこの世界を変えたいと切に希求していることだ。

 この世界、この今の時に満足している人にはファンタジーは必要ないだろう。この世界は私の求めている世界とはちがう、もっと別な世界が見たい、と思う人に必要なのだ。

 ファンタジーを読むには、あなたはロマンティストでなければならない。現実にはあり得ないもので、他のだれもが信じていなくても、私はそれをしんじよう、という孤独な冒険を引き受けなければならないのだ。十八世紀末から始まっロマン主義は、孤独な芸術家の想像力の旅を見出した。その時から、人間が別世界を想像し、創造するようになったのであった。

 

 

 

 めっちゃいい言葉だ。こんなことを言える人だから、色んな美しい本、画家、についての本を編集できるのだろう。

 編集って、素晴らしいことだ。好きな物を自分の乱暴な秩序で構成するんだ。その為にはきっと、好きだって言っていなくっちゃ。好かれなくっても振られちゃっても、いい。いや、よくないけど、ただ、愚かでもロマンティックな人生の方がずっといい。

 俺、ずっと、これ以上嫌なことが起こりませんように、って、回避型の生活をしてしまうことがあって、それは俺なりの処世術ではあるけれど、ださいんだ。毎日の、過去の塵芥沼憎しみ憎悪、らと友達になるより、知らない何かのことを考えていなくっちゃ。

 俺は30半ばのおっさんだけど、まだまだ愚かに軽やかになれるって。この年で新兵。恥ずかしいけど。でも、何かに触れていたいと思うよ。