硝子に触れて

 朝、窓を開けると冷たい風が身体中を撫でるから、慌てて閉めて、こんなに寒いのだから外出はしたくないと思いながら、今日の予定を無理やり立てる。お金が無くても用事がなくても家にいるのは嫌だし、外に出ると家に帰りたくって仕方がないんだ俺、幼稚園児かな、否、中年也。

 池袋西武の葛飾北斎展へ行く。俺は実家から歩いて渋谷に行ける距離だったこともあり、渋谷はとても馴染みがあるというか、愛着があるのだが、二十歳を過ぎ、新宿を利用する機会が多くなり、一時期は住んでいたこともあったので、新宿という街は気になる他人のような、友人の友人のような、自分のホーム感がいつまでたっても持てないけれどもそれなりに魅力的な街で、今日行った池袋という街は、それなりに訪れてはいるのだが、どう表していいのか、分からない街だ。

 ただ、俺にとっての繁華街というのは渋谷、新宿、池袋のみっつという固定観念があり、そのどれもがデパートとゲームセンターとがあるのだ。だが、はっきり言って、収入がヤバすぎる俺にとって、デパートは本来縁のない場所であるべき、というか単純に買い物に適していない。

 ゲーム大好きの俺なのだが、ゲームセンターで何かを見るのではなく遊ぶのは、年に一~三回程度。それも、誰かと一緒の時とか、そんな頻度だ。

 それなのに、デパートとか、ゲームセンターとか、その施設自体は大好きで、大変魅力的で、大きなデパートが閉まったとかゲームセンターが潰れたとかいうニュースを耳にすると、とっても悲しくなる。

 それらの場所は、インスタントな夢を与えてくれる場所、という認識があるから。お金で夢が買えちゃうなんて! なんて素晴らしい場所だろう! 

 だから俺はデパートやゲームセンターがある繁華街が、渋谷、新宿、池袋が好き、なのだが、池袋は、何だか肌にしっくりこない。理由は分からないい。もしかしたら、俺が渋谷と新宿を盲信しすぎているからかもしれない。まあ、とにかく、池袋西武に行ったんだ。

 葛飾北斎富嶽三十六景、というのはもう、有名すぎて皆知っているし、なんて思いながら展示を見ていたのだが、それらは思いの外よかった。何かを目にする度、いかに自分が物をよく見ていないかというのを感じるのだ。 

 富嶽三十六景は、正確には四十六点あり(好評だから十点追加された)、徳川家は「富士見」を「不死身」に繋がり縁起の良い物としていた、

 とかいうことすら知らなくって、有名な幾つかの作品を、これ、見たことあるなあ、程度の認識でしかいなかったのだが、まとめてみると、彼の作品の構図の巧みさに魅了される。

 有名な波の描写もそうだが、それ以上に感動したのが、何も描かない空間表現だ。

 現代美術の類を除けば、とっても雑に言うと、教科書に載る絵画=西洋絵画であって、美術館での展示も圧倒的に写実的であったり上手かったり情緒的であったりする「画面を埋め尽くす」画 が主流だが、日本画や墨絵における、空間の表現というのは、洋画にはない表現力を持っていて、元々メリハリの利いた派手な構図やらシンプルな表現が好きな俺は、日本画や墨絵の現物を見てはっとすることがある。浮遊しているような感覚に陥る。描かないことを良しとする。中断されているかのような完成品。

 こればっかりは現物を見なきゃなあ、と思う、幸福な瞬間だ。

 富嶽三十六景を見ていて、写真の展示が頭に浮かんだ。写真も小さな画面とか、雑誌のページで見るよりも、展示されている一群を見て感動する、という経験があるからだ。

 でもさ、写真だって印刷物。富嶽三十六景って浮世絵「印刷物」だろ、だったら美術の本でもいいじゃんか、等と思っていて、それは半分位正解のような気もするのだが、作品をじっと見る、しっかり何かと対峙する時間と言うのは何であれいい時間なのだ。

 とか言いながら、好きでもない人の作品は、実物よりパンフとかネットでみるだけで十分とかってのもあるけれどね! そっちの方が圧倒的多数かもしれないけどね! でもさ、何かをじっと見るって、感じようとするのって大切なことだ。

 俺は余裕が無かったりして、ついつい遮断しようとしてしまうけれど、感受性、生きてるうちは大切にしなきゃあね。

 森茉莉のエッセイでは食べ物とお洒落の話題が多いのだが、たまにデパート、百貨店の描写もある。そして、森茉莉はとても食べ物をおいしそうに描写する。彼女のエッセイを読み返していて、ああ、俺は美味しい物がそこそこ好きなくせに、舌の快楽を忘れていたなあと再認識してしまう。

 食べ物はある程度、値段と美味しさとが幸福な比例関係にあるといっても過言ではないだろう。分かりやすい例でいえば、激安スーパーの一斤百円の食パンと、スーパーの二百円のパンと、パン屋さんの三百円のパンと、それ以上の値段のパンとは、やはり味が違うのだ。まあ、調理する人の腕で、安い食材だって上等なものになるだろうが、生憎俺は料理ができない。

 ただ、幸か不幸か、俺はデパートの、食品売り場、特にケーキコーナーがとても好きで、お店ごとに小さな面積に並んで、ガラスケースの中で行儀よくお澄まししている彼らがたまらなく愛おしいのだ。もしかしたら、自分が食べるよりも、その光景を見る方が好き、という位に、ガラスの中で仲良く並ぶ甘味は可愛らしい。

 大量に、同じものが並んでいるというのが好きなのかもしれない。ウォーホルのキャンベルスープの作品も好きだし、外国の市場で山積みにされている野菜の映像にも惹かれるし、口に入れるよりも、もしかしたら、それらを見るだけでも十分楽しい、いや、口にしたら味を、現実を知ってしまうから、見ているだけでいい、

 なんて言っておいて、でも、俺もそれなりにデパートの地下で(値引きシールのついた)食品を買うことがあって、ちょっとだけ値が張る物は、ちょっと以上の驚きを与えてくれること位知っているのだ。

 長崎産の、一尾千円!のアジの干物は、最初目にした時、なめてんのかてめえと思って静かな怒りに震えたが、百貨店でいっつも彼、値引きシールが貼られてるんだよね、夜中まで売れ残ってるんだよね、でさ、買って食べたら、まあ、旨い、旨味が凝縮されているというか、干物ってこんなにおいしかったんだ、と自分の中の干物感が更新された気分になれた。

 一リットル500円の、蒜山ジャージー牛乳は、濃厚な味を想像して飲んでみると、驚くほど口当たりがよく、水っぽさがなく、後味がほんのすこし甘く、これ、すぐ飲み干せるぜ、みたいな美味しさだった。

 一パック180円位の、京都の大粒納豆は、大豆のうまみが強く、いっつも食べている三パック百円以下の納豆はたれで味をつけている感じがしたが、こっちの大粒納豆は、納豆の味でご飯が食べられるといった感があるし、大粒で食べ応えがあり、良かった。

 等と思いつくままに書き散らしてみたが、少し、お値段がして、美味しい物は山ほどあるし、少し、お値段がしたのに「何だこれ」ってのもそれなりにあった。

 つい、いつもの。つい、傷つかないように余計なことを考えないように、なんて保守的になりがちな所がある俺。というか、幸せな時間を過ごす努力を怠りまくっているなあ、と反省することしばし。そういう気質だから病気だから、というのは簡単だが、小さな幸福、ありもしない用事を作らなくっちゃ、綱渡り芸人やっていけないよってことで、ショーケースの中を、舌先の遊びを夢見て、今日はおやすみ。

 

どぶ河でプラネタリウム・シンドローム

どうしようかなとか、どうすればいいんだろうとか考えて、小説を少しだけ書いたり、書けなかったり。でも、少しであっても書けると言うのは健康に良いことだ。自分には何かができる、かのような気分になれるから。

 予定がスカスカになってしまったから、映画でも見ることにして、アマゾンプライムに再加入。俺はアマプラの映画検索の方法がさっぱり分からず、アマゾンには見たい映画が無いと思っていたのだが、アップリンクが映画配給したのがあったことを最近知ったのだ。

 


現在、Amazonプライム・ビデオ プライム会員見放題で観ることが出来るアップリンク配給作品は22本です。
http://c.bme.jp/38/2166/804/2780027

『ソウル・パワー』
『ふたりの人魚』
『レストレポ前哨基地 Part.2』
『わたしはロランス』
『光のノスタルジア
『真珠のボタン』
『聖なる呼吸:ヨガのルーツに出会う旅』
『聖者たちの食卓』
『創造と神秘のサグラダ・ファミリア
『二重生活』
『曖昧な未来、黒沢清
『VHSテープを巻き戻せ!』
アルマジロ
『エヴォリューション』
おいしいコーヒーの真実
『オマールの壁』
『サクロモンテの丘』
スプリング・フィーバー
『パパ、遺伝子組み換えってなあに?』
パラダイス・ナウ
『バレエボーイズ』

 

 とのことで、この中から気になったのを見ればいい。ズボラな生活を続けていたせいで、映画を見ること(二時間近くじっとしていること)すら難しくなってきた。おまけに視力が低下して、字幕を見続けるのがちょい辛い。でも、映画見るとさ、何かやった気分になるんだ。自分では何もしてないのにね。

 ただ、作り手の意思や登場人物の生きざまとかが、人間関係が過敏で希薄な(最悪の組み合わせだな)俺にはありがたいのだ。誰かが何かが一生懸命だったりそうじゃなかったり、そう言うのを見ていきたいんだ、感じていたいんだ。

 

『光のノスタルジア』という映画を見る。星の映画だと思ってほぼ前所法を知らず軽い気持ちで見た、が、以下アマゾンの説明文。

 

チリ・アタカマ砂漠。標高が高く空気も乾燥しているため天文観測拠点として世界中から天文学者たちが集まる一方、ピノチェト独裁政権下で政治犯として捕らわれた人々の遺体が埋まっている場所でもある。生命の起源を求めて天文学者たちが遠い銀河を探索するかたわらで、行方不明になった肉親の遺骨を捜して、砂漠を掘り返す女性たち……。

 

 ということで、天文学者と宇宙の話を想像していた俺は、塵の独裁政権下での墓場と骨、そして遺族や天文学についての映画を見ることになる。星々を見るよりも砂漠と遺族(遺体)のシーンの方が多いんじゃないかって感じだ。

 宇宙の広大さと砂漠と虐殺。そしてさまよう人々。映画は良質でよくできたドキュメンタリーなのだが、今の俺、というか、ぼーっと星座でもみたいなって見るにはちょっと困惑してしまった部分も。というかさ、チリの歴史について、理不尽な虐殺について理解が遠いんだ。外国の映画だと、たまにあからさまな階級社会や移民問題等が描かれることがしばしばあるが、俺は「わからない」のだ。表面上の理解ならできる。でもそれは薄っぺらい同情でしかないのだ。

 宇宙のことを考えるとなんとなく不安になって、戦争や政治のことぉ考えると、さっぱりわからなくなる。

 プラネタリウム行きたいな、てか、プラネタリウムが俺には丁度いいのかも。数年前行ったっきりだけど、思ったよりずっと迫力あったんだ。だって、映画のスクリーンが半円形になった感じだからさ、とても迫力があったし、プログラムが終わった後の、あの虚しい感じ、好きだ。パリスマッチのプラネタリウム・シンドロームって曲好きなんだ。誰かと聞きたいな、行きたいな。

 『ふたりの人魚』見る。監督がロウ・イエで、昔見たような見てないような……とにかくタイトルや画面はパッケージは覚えてるんだけどね、記憶力ないですね俺。

 

 現代の上海を舞台に、本当の愛を求め揺れ動く男女の切ない恋愛を描いたミステリー。ビデオ出張撮影の仕事をする男が、ある日水槽の中で泳ぐ美しい人魚メイメイに一目惚れしてしまう。恋人同士になったものの、彼女は突然彼の前から姿を消してしまった。

 ビデオ・カメラマンの男とナイト・クラブで人魚を演じるメイメイ、運び屋のマーダーとマーダーの前から姿を消した少女ムーダンという2組のカップルの愛が、ミステリアスかつ複雑にからみ合う新感覚ラブ・ストーリー

 

 現代の上海、というか20年前の上海、そして蘇州河を見ていると、池袋と東京の下町がごっちゃになったような、雑多な生命力を街や人々から感じた。そんでさ、蘇州河がさ、小汚い河なんだ。カメラが手持ちカメラでぶれるんだ。そういうのがいい味出してるんだ。

 映画はなんだか随分ロマンチックだな、と思ったのは中盤まで。その後はけだるくほろ苦い、結末へと。

 出ているカップル、運び屋のマーダーとマーダーの前から姿を消した少女ムーダンが、この街で生きる若者といった感じの、危うくてあまり頭が良くなくて愛らしくって、そういう魅力を持っていてよかった。

 それに、現代(2000年)の小汚い街や河のナイトクラブの人魚、といういかがわしい設定が、ミステリアスな展開とうまくマッチしていてよかった。

 ただ、俺にとってこの映画は青春映画だと感じられたから、ちょっと今の俺には甘すぎる映画だったけど、好きだ。人が’(多少強引だったりご都合主義だったり感傷的な展開もありながら)生き生きしているからさ。てかさ、強引ご都合主義感傷的、に見えないってどういう物語だろう。そう言うのがあるとして、その物語は完成度が高いかもしれないが、魅力的ではないかもしれない。

 金のことばかり考えてしまう。この先どうしようとかどうなっちゃうのかなとか。でもさ、映画見て、外を歩く方がずっといい気分だ。一人プラネタリウムしたことないけど、しようかな。ああ、でも年末年始閉まってるかー。誰かといないから誰かといたいし、誰かといると非常に気疲れして、家で寝たくなる俺は、生きるのに向いていないけれど、向いていなくても老いて、金も力もすり減るから、まだ、今のうちに何か見ておかなくっちゃ。

 

目隠しも上等、きらきらも上等

せっかく受かった仕事をすぐに辞めてしまった。根気のない俺も勿論悪いのだが、その職場が結構なブラックな感じで、例えるなら、昼休憩以外ずっと、一人で「ぐしゃぐしゃになっているトランプを順番に並べる」だけをひたすらやらされて、色んな細かい説明とかないという虚無。

 いやあ、仕事ってそんなもんだよなあ、と自分を納得させようとしたけど、無理だった。一応そこそこ大きな会社のはずなのに、新人ほったらかし。それにやることは、無言でひたすらトランプ並べをやるだけ。たまに隣の人に数時間以上やっても終わらない量を「早くできた?(速さの基準が分からない)」とか言われる。それだけ。これ、おっさんがやるには辛いなー。高校生の初めてのバイトとかなら耐えられるかなー。って感じだった。

 合わないならさっさと見切りをつける、という意味では俺の判断は間違ってないのだが、会社勤めをしている人はこれの何倍、何十倍ほどの理不尽を乗り越えて、或いは感じないでいられるだなんて、マジ異世界の人だと思う。異世界の人達、ちょっとうらやましくて、ちょっと距離を感じるんだ。

 

 帰宅して、ずーっと次のバイトを探してたら、パソコンの前で8時間以上経過していた。何故か家にあったリポビタンd飲んで、徹夜して幾つものサイトで仕事を探すのに、できそうなのが無いというか、俺、バイト数十やったりやめたりしてるから、自分にできそうか、やりたくても落ちるか、ってのがわりと分かってきていて、あれ、俺、ないのかな? って思った。

 

 ないのかな、俺。できないのかな、俺。

 でもさ、何かしらしなきゃなって。当たり前だけど。世体も金もなくて、家で寝て金がじりじり減るだけなんて、怖いんだ。何も書けなくて、只老いておいつめられて、だなんて。

 一つ、ネットで応募をしたら、数時間後に面接の電話が来た。とにかく、しなくっちゃ。家にいるとつい、何も考えたくなくてゲーム動画見ながら、ラブプラスと黒猫のウィズをやってしまう。

 俺、ゲイだけど、ラブプラス楽しいよ 寧々さんの声が超好きな皆口裕子さんというのも大きいが、最新の恋愛ゲームってこんななのかーみたいな気分で興味深い。恋愛ゲームやアンドロイド、ヒトガタ、そういうのに興味あるんだ。のめりこめないくせにね。まがい物の愛なのに、たまに、キラキラしてるんだ。

 俺は恋愛対象は男だから、ゲームの寧々さんとは恋人? ではないような、不思議な感じだが、それでもコミュニケーションツールとして面白いのかもしれない。

 誰かと話すの楽しいよ。人でもロボでもプログラムでも人形でも。

 あと、黒猫のウィズはオートモードが採用されてからまたはまってしまった。でも、最高レアリティのレアがわりと簡単に手に入るのがいいのかわるいのか……(良心的に決まってるのだが)。前はまってたグラブルでは大好きなあのキャラ出すんだ! 出てくれ!みたいにしてガチャが楽しかったなー。

 あ、アイマスははまると怖いという理由でいまだに未プレイ。初期のアイマスの曲大好きだけど、デレマスの曲も好きで聞いてる。わがままファッションガールズモードにはまった人間だから、アイマスにははまらないようにしている……

 全然読書ができていないというか、文章を書く、まともな自分の為の小説を書く、というのはとても精神力がいる作業で、毎日そのことが頭をよぎるのにできていない

 せめて読書くらい、と思うのだが、どうしてもいろんなことから逃げてしまって、疲れ切っていて、そんな中で読み返す森茉莉のエッセイ集『贅沢貧乏のお洒落帖』。彼女のエッセイは、とても大好きだ。本当のお嬢様の、自分の美の世界をおもいつくままにつらつらと書き連ねるのがたまらなく愛らしくも稀有な存在で、彼女独自の傲慢で可愛くて光る感性を味わうことができる。

 着物についてのエッセイがとても素敵なので、一部引用する。

 

 

 

父が選んだのは、たった二色の友禅縮緬の着物に、白(白と言っても、上等の織物によくある、象牙色を含んだ、牛乳がチイズになる過程を、その儘固まらせてたべる、プチ・スイス・チイズ=巴里では砂糖やコンフィチュウル、森の苺なぞを添えて食べる=のような白である)地の西陣の帯である。着物は白と濃い紅とに大きく染め分け、白地のところには紅で、紅色の所は白ぬきで、燕の列が、柔らかい曲線を描いている柄で、

 

 という文章は、茉莉のくいしんぼうぶりも含めてとても可愛らしく、美しい文章だと思う。俺は彼女がバターのことをバタと表記するのがとても好きで、バターよりもバタ。の方がおいしそうだと思うのだ。

 それに、一番とか上等のことを、「一等」なになに、と書くのも好きで、真似している。

 きっと、芸術家には、芸術家が生き延びるには、感性を、美意識を守るには、パトロンか理解者が必要だ。茉莉が「御茉莉は上等、御茉莉は上等」と何をしても父鴎外に溺愛されていなかったら、こんな文章は生まれなかったかもしれないのだ。

 でも、まあ、そういう存在がいるなんて、まれなことだ。だからか、まがい物に、きらきらも見つけられるんだ俺。

 ところで君、楽しそうだね。オシャレさん。黄色が好きなのかな。せっかくだから写真撮っておいたよ。

 

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 こんなさ、どうでもいい写真、沢山とっていきたな。どうでもいい、きらきらやめかくしで、いきていけるんだよってことにしておいて。

 

小さな願い

嫌なことが立て続けに起きて、メンタルがやられる。でも、少し、いいこともあった。俺みたいな生活(性格 をしていると、回復の泉がないまま、砂漠や荒野を彷徨い、苛まれるばかり、といった有様で「それを選んだのはお前だろ」的、自己責任論めいた言葉が頭に浮かびながらも、たまに、辛すぎておかしくなる、おかしくなるのはとても辛い。

 本すら読めなくて、ひたすら薬飲んで寝るけれど、お金を稼がねばならないから、外には出る。外に出る時、電車の中で久しぶりに読書ができて、ほっとした。

 でも、よりによって読むのはゴッホの本。

 ほとんど知っている内容。図版もそうだ。なのに、たまに、似たような本を読んでしまうのだ。

 ゴッホの才能は置いておいて、彼の主張、性格、激情的で躁鬱気質で批判を恐れて無駄に献身的で臆病で自己中心的で……いやがおうにも自分に重ねてみてしまう。

 自分=ゴッホだなんて思っているわけではもちろんなくて、似たような気質の、うまくは生きられなかった芸術家という点で、どうしても感情移入してしまうのだ。

 ゴッホにはもっと長生きして欲しかった。でもさ、「もう少し頑張れ」、だなんて、彼に言えるだろうか? 言えないよなあ。テオのように彼と心中する覚悟がないと駄目だ。マザーテレサの言うように、「傷ついた人は哀れみではなく愛を求めている」んだよね。

 でも、少しのごまかしで、日々を繋ぐんだ俺。長生きして、小説とか、少しずつ書いていきたい。駄目になってしまうのは怖いけれど、元気なふりをしていなくっちゃ、どんどんだめになるから、眠りから覚めたら、できたら、元気なふりを。

 若松孝二監督 『裸の銃弾』を見る。

 

全編激しい撃ち合いシーンによって構成された若松孝二監督の異色作。組を抜け、愛人と駆け落ちしようとしたチンピラが、拷問を受けた末に指を詰められる。数年後、No.1の殺し屋へと成長した彼は、復讐のため麻薬の取り引き現場を襲撃するが…。

 

 正直、何も期待しないで見た。ハードボイルド、苦手なんだ。なのにさ、とてもいい映画だった。音楽、山下洋輔トリオ、とてもかっこいい。モノクロを主にした(たまにカラーになる 構図も画面もセンスが良い。あっけない終わり方も、カッコつけ映画にはぴったり。かっこつけとセンスの良さで構成された映画。俺、若松孝二好きなのか……? ATG系映画に多少苦手意識あった(でも見てる)けど、好み変わったのかも?

 何もかも駄目になる、時があって、それが続いたり、酷い仕打ちが続くと、もう、色々とどうでもよくなる、なのにさ、未だ生きたいな、色々見たり書いたりしたいなって思えますように。小さな願い。

働くよりも難しいこと

仕事を辞め、仕事探し。落ちるのは俺に問題があるのだが、何で企業は嘘ついたり、約束を守らなかったりするんだろう。他にもいろいろ嫌なことが積み重なって、薬飲んで寝る、パソコンスマホで検索。それだけの虚しい日々。

 今日、やっと短期の仕事が決まったが、そこはとても忙しそうで、やりたくなかったけど、他になかったんだ。てかさ、そこの担当の人がスゲー上から目線で、決まった後もこっちに不利な条件のは色々ごり押しして、勤務日数変更もあちら主導でさらっと流し、さらに今後の勤務日もあるかどうか、後にならないと分からないとか!(こっちには需要な問題なんだよ!)、なのにこっちの質問には「私、説明しましたよねえ?」とかネチネチ攻めてきて、ほんと生理的に無理すぎる。なのにさ、働かねば何だよね。

 ほんというと、そんな所短期でも働きたくないよ。でもさ、やらねばならないんだ。家で、何もしないひたすら寝るだけだから。

 小説が書けそうで、でもやっぱり書けなくて、将来の展望がなにもないと、流石に病んでも仕方ないだろって思うんだ。ゴッホ展を見て、頑張って長生きしよう、長生きして作品作ろう、なんて少し思ったけど、でも、小さなことの積み重ねで、こころ折れて、溺れて、何もかも分からなくなるんだ

 貧すれば鈍する、みたく、体力精神力金銭に不安がある状態で、いろんなバッドイベントがあると、どんどん駄目になる。てか駄目になってた。新しい短期バイトさえ、いけるかとても不安だ、って、行くけどさ……行かなきゃ、ね。

 俺は不安の種を育て続け、一人こもるという愚かな行為から抜け出せなくって、でも、だれかと話したりしたいなって、馬鹿なこと、したいなって思うんだ。

 寂しい悲し不安、ばかりの時期、人生でも、投げませんように、もうひとふんばりだ。ただ、踏ん張った先になにがあるかと聞かれたら、何もないんだってことなんだけどね。今年、来年の目標は小説以外に、気の合う友達作ろうと思うけれど、それってもしかして働くよりも難しいことだったりして

こんなにあるのになにもない

わりと、きちんと仕事を辞めることができた。働いていたとこの先輩方は良い人が多かったのだが、仕事が絶望的に俺に合わなかったのだ。で、俺に合う仕事って? ないんだな、これが。

 仕事がないよりも、仕事がある方がまだ気持ちが安定してしまう年末。忙しさからも人々からも置いてきぼり、それを自分が選んだのか、いつの間にかはぐれてしまったのか。

 ひとり、はぐれたままでいると、精神がひどく病んできて、そわそわぞわぞわぐらぐらしてくるのがとても嫌だ。元気なふりをしていたら、案外平気なあれやこれやが、乗り越えられず、一人家で時間を潰してしまう。

 あ、でも、先日、渋谷文化村で行われていた、 リヒテンシュタイン 侯爵家の至宝展 を見に行った。

 宗教画、肖像画、愛用品の磁器や銀食器、花の静物画。そういった物らはとても趣味が良すぎて、俺にはやや刺激が足りない面もあったが、それでも目に楽しい品々ばかり。なんとなくヴィスコンティの映画を連想してみたり。

 ただ、俺は花が大好きなので、ボタニカルアートの数々はああ、いいなあ、とうっとりと鑑賞。花が描かれているって、なんで、なんて素敵なんだろう。

 あと、「リュートを弾くクピド」という皿が展示されていて、天使大好きだし、あー欲しいなあと思っていたら、会場を出たおみやげショップで複製の皿が2000円で売ってた。

 2000円て、普通に考えたら、安くないか? と思ったが、俺の家は河合と美しいの墓場みたくなっているので、置き場所がないんだよ、馬鹿みたいに色々買っちゃうんだ、しかも2000円って一般人にとってはやすくても、おれの貨幣価値に換算すると2000ドル位なんだ買えないんだ、

ってことで、買いました。

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 無理やり置き場所を作ったから、デビルチルドレンの漫画が映ってたり、ゴダールのdvdがねじ込まれてたり、後ろにタトゥーの図柄が貼られてたり……こういう小汚いやばい家で暮らしてるんだよ俺。

 天使の皿、買ってよかった。でもさ、心がぐらぐらなのは治らず、おまけにずーっと一人家で次の仕事探して見つからない、誰かに会いたくてもおれも見つからない、というのが続いてがっつりメンタルがやられてしまう。

 でも、そういうどうしようもない下らない愚痴、そういうのを書くと、多少だが、気分が楽になる。

 俺はいつまで大丈夫なのかな、もう少しずつ腐り始めて錆び始めているのを誤魔化しているだけなのかな、でも、そう言うのって俺だけじゃなくてみんな似たような物なのかな。

 分からないけれど、もう少し、あがけますように、もう少し、平穏な心でいられますように。

 

フェイクスターはいつもご機嫌

髪を切ってさっぱりツーブロックになって、少し肌寒くって、気持ちよいし、風呂の時髪がすぐかわく。動物みたいに冬毛と夏毛なんて生え変わらないものだろうか。毛皮も亡骸も大好き。

 眠りが浅かったり深かったり、風邪気味なのか、疲れが抜けない。って、いつものことか。

 家にこもってゲームのRTA動画ばかり見続ける(流し続ける)という、不毛で幸福な休日もいけど、やはり外に出ないと駄目だ俺。家なんかにいたくないのに、家から出る体力気力金が無いんだよね。でも、出たら出たでどうにかなるんだ。逃げ出すのは得意なんだおれ。休日の新宿で久しぶりに鳩居堂に行って、干支の土鈴を買う。あと、人に渡すお菓子も。

 日中の新宿は、人が程よくいて、今日は厚着をしてきたら少し汗ばむほどで、ロックを聞きながら歩くといい感じだった。

ポップでだらしなくてかっこいいルーリード

ポップでサイケなMGMT

ポップではないけれどかっこいいバウハウス

ポップで爽やかなベルアンドセバスチャン

ポップなのに聞いてると寂しくなるけど大好きなシーアンドケイク

ポップかもしれないけれどけだるいラテン・プレイボーイズ

 とか、色々と。数分間の魔法で、或いはまっしろな錠剤で数分間は数時間は安定していられるんだ俺。一日幸福、一日安心なんてことはありえない。毎日程度の差はあれどぐらぐら。ありえないって書いて、我ながら引く。恐ろしいな。

 『ラマン』で有名なジャン・ジャック・アノーの映画『神なるオオカミ』を見る。正直、監督目当てではなく、オオカミ目当てだ。映像は、確かに良いし、お金かかってるなー感もあるので映画としては見ごたえがあるのだが、自然を理解したいけど困難、という役回りだからだろうが、狼あかちゃん飼う主人公にマジ魅力が無い! そういう映画を避けてチョイスしてきた(見てもすぐ視聴を止める)から、映像だけはいいけど、主人公もだっさいこれ見よがしの使い古されたベタな演出(重要な場面でスローモーションしてどやあ!とか、正気か?みたいなsan値チェック箇所多い映画だよ)もげんなりしながら、たまに綺麗な自然やオオカミが見られる環境映画としてなんとか見終えた。

『毛の生えた拳銃』大和屋竺 の映画を見るつもりで、サントラを借りてしまった! バカだなーでも、それを聞いたらかなりかっこいいんだ。俺は日本のジャズメンに対してガチで無知なのだが、中村誠一(TS)、森山威男(DS)という方々の、荒々しくもキャッチーで力強い演奏が良かった。

 でも、これアマゾンでも売ってるのに、itunesで久しぶりの、データなしだった。まあ、聞ければいいんだけどね。

 本屋で見つけたけど、税込みで4000円越え、俺の両目を売らなきゃ買えないような値段の欲しかった本を、図書館で借りて読んだのだが、とても良い本だった。借りて読んだのに、買いたくなっちゃったもん。

 

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『西洋骨董鑑定の教科書』ジュディス・ミラー

 これはすごい情報量とシンプルで丁寧な解説と写真が豊富で、流し読みするだけでもめっちゃ楽しかった。てかさ、俺複製品とか贋作って言葉や存在自体が好きだからさ、なんかさ、贋作ってわくわくする。まあ、本物欲しいけれど、フェイクの輝きとか複製品の有用さとかに慣れ切ってる一般市民だからこその発想だからかも。ていうか、騙し騙されるゲームという発想を喚起する、アンティークやら贋作というのは魅力的な題材だ。

 

 「ホンモノ」を見分けるコツや「ホンモノ」は美しさ、精巧さが段違い、みたいなのを実物と説明文で教えてくれたりするのがとても面白い。例えば、魚や蟹の画が描かれた皿の本物と質の悪い贋作は、実物の写真を並べられ、説明文を読めばすんなり頭に入るんだよね。安い方が「下手」だし「つまらない」ここら辺は俺が美術の知識があるから分かることかも。家具とかの高い安いみたいなのはマジ分からないというか分かる気がしない。

 薩摩焼の「低品質」な品の説明に、当時の外国人の日本趣味が反映された、派手な色彩や、人気の芍薬モチーフとかって現代の観光客向けの商品みたいで、ある意味味があったりして。こういうのは見ていて興味深い。派手でそこそこの出来だけど、「低品質な薩摩焼」なのだ(本物の方がずっと品があってすきだけど、というか、真横に高品質すぎる薩摩焼の精密な絵付けを見せられたら、そりゃ、お高い方がいいよねってなる)

 逆に、19世紀のポーセン・プラーク(油絵を模した、豪華な磁器の肖像画やら風景画)だと、横を向いた美人さんがとても高い値段がついて、とても画としての質は高いけれど、説明が必要な聖書の一場面は「今は」値段があまりつかない。みたいな相場の話も面白い。

 後は海外には熱心なテディベアコレクターがいるからくまさんのぬいぐるみが高い値段つく話の中で、古く見せかけた偽物を見分けるポイントの、「長年かわいがられた経緯に見合わない摩耗状態は、直ちに疑ってかかること」って文章すごく好き。納得なんだ。かわいがって触る部分が変色したり劣化するし。

 色んなネタから美術品から庶民的な物まで取り扱っていて、材質や年代のスタイル一覧も載っていて、本当に素敵な本。やばいな、欲しいな。でもさ、素敵すぎる本、家に山ほどあるんだ。積まれてるのに、疲れて読めないんだ。自己嫌悪なんだいつも。

 俺が贋作って言葉にわくわくするのはベンヤミンを引く前段階の話しで、アンティークの素晴らしすぎる数千万、数億円の物は手に入らないけれど、ポーの詩集、100円で古本で買えちゃう、みたいな当たり前だけど無茶苦茶な世界が体系が面白いからかもしれない。油断ならない。物の価値何て、ぐちゃぐちゃでルールがあって、その中で、できたら、好きな物にふれられたらなって。

 久しぶりにポーの詩集を読む。俺には詩を解する能力が低いと思うのだが、自分で詩を書いてみるかな、と思って読むと、また、ポーのすごさが伝わってくるんだ。詩って思い人や神(神話)に向けたものが多くて、その分理解を阻んだりもするけれど、それなのにさ、好きになっちゃうってのは、どういうことだろう。俺は原文を読んでないし読めないけれど、それでも、その音が文字の連なりが、美しいと思えるんだ。

 詩だか散文だか分からないけど、できないとか低品質なのしかかけない(最初は当たり前だ)とかではなく、色々やってかなきゃな。

 ある方の質問箱に、自分語りめいた文章を投稿してしまい(勿論その人のことを思ってかいたのだが)思いがけず温かい返信を戴いて、ありがたいやらはずかしいやら。匿名だからできることだよね。でも、本当はその方と気軽に話せたら、なんてね。とにかく、先生、本買います。

 先のことを考えると怖いだけ、だから、今できることを、なるべく片づけなくっちゃ。