錯覚を編み、蝕み夢を

さすがにここまで長引くとは思わなかったというか、思わないようにしようとしていたというか。働き口は減っているし見つからないし。まあ、選ばなければ、誰でもどこかで働けるだろうが、大抵の人はそういうわけにはいかない。でも、そろそろ覚悟を決めなきゃなってことか。

 ふとした時、心がささくれ立っていることに気付いてしまう。自分の身体や思考がスポンジのように感じられる。でも、水を吸ったその時は、いきいきとしているような錯覚を覚えるのだ。錯覚で編んだ紐の上、綱渡り芸人で生きていけたら。

家にいるべきだし、第一金が無い。でも、家にこもっているとおかしくなる。流石にこの時期は極力行かないようにしていたのだが、厭になり新宿へ。仕方なく乗り換えで利用はしていたが、新宿駅で降りたのは2,3ヵ月ぶりか? こんなに新宿に行ってないのは初めてかもしれない。

 でも特に用があるわけでもない。薄汚くも華やかな雑踏を歩くと心地良い。紀伊国屋書店の壁に森山大道のプリントがあって、元気を貰った。本とお菓子とゲームを買う。色んな店先にビニールカーテンが出来ていて、人通りや店の人の入りもまばらだった。店内ガラガラで、通りを見る店主が目に入る。二回も。街が少しずつ弱っていく、かのような感覚。そんなのは感傷だって、思う方がいい。これからの生活は不安しかないが、明日のことは明日にできたら。

アイスキュロス『縛られたプロメーテウス』再読。天界から火を盗んみ人に与えた罪で、終わりなき責め苦を受ける。永遠の苦しみとか火刑、という題材は恐ろしく、惹かれてしまう。『裁かるるジャンヌ』や自らの焼身自殺をした某国の僧侶。彼らのことが時折頭の中で映像になり、投射され、俺は陶然とする

赤瀬川源平が選ぶ広重ベスト百景』読む。シンプルかつ大胆な構図の作品は、どれもこれも素晴らしい。赤瀬川の感想・解説からは感動が伝わり読んでいて楽しい。技法や構図から、つげ義春水木しげるの絵を連想するといった話題まで、なる程と思う説得力がある。

ヒッチコック『鳥』久しぶりに見る。パニックの要素としての鳥って絶妙だなと思う。猛禽類でなければ、どうにかなりそうな感じと、集団で襲われたらどうにもならない存在。攻撃してこない鳥の群れは、いつ襲ってくるのか分からない恐怖心を生む。良く出来てるなー

辻惟雄他『花の変奏』読む。文学や絵画や行芸等の中に現れた花と日本文化についての一冊。仏教から花の意匠は生まれ、四季が花の文化を育む。九相観(死んだ人が土に帰る様)、六道絵の中で腐乱して啄まれ白骨になる様子に四季の移り変わりと花が描かれているのはおぞましくも美しい。

古今集では落花の首が多く収められているという。散ることへの嘆き感嘆安らぎ。日本人と花、諸行無常、全ては移り行くという仏教思想を感じる。それでも草花は芽吹き、魅惑する。文中に花筏(桜の花びらが集まり水面を流れる図)という俺の好きな言葉が出たが、桜は散るからここまで愛されるのだろうか

永井荷風『麻布襍記 附・自選荷風百句』読む。初めて荷風の小説を読んだのは高校生の頃で、なんとなく好きかもしれない、というぼんやりとしたものだった。おっさんになり、荷風の孤独侘しさ寂しさ優しさ、といった物が多少は身に染みてきた。孤独という病を抱えたまま生きるのは、辛い慰めなのか

赤瀬川原平が読み解く全作品 フェルメールの眼』読む。フェルメールをカメラが出来る前の写真家、と定義し、その魅力に迫る。19世紀にカメラが登場するまで、絵画はリアリズムを目指していた。フェルメールの絵も本物みたいなのだが、少し違う。ところどころ筆のタッチがずいぶん粗いのだ。

それは視覚のレンズ効果。ピント機能により、合っているとこはありありと、合っていない所はぼやけて見える。また、絵画的な人のポーズではなく、スナップショットのように人の動きを切り取る。白い歯を見せる女性の絵画なんて、昔はほぼ無かった。写真のない時代に、写真的な写実と神秘を備えている

全編空撮のドキュメンタリー映画、ホウシャオシェン制作総指揮『天空からの招待』見る。台湾の美しい自然、発展、その代償。島国で農耕と漁業が盛んで山が多く、経済発展を遂げた台湾という国は日本に似ていて、映画を見ながら日本の自然と歴史に思いを馳せる。空撮で雄大な自然を捉えた映像は圧巻

山田五郎『へんな西洋絵画』読む。現代人が見たらへんな絵画を集めた一冊。明らかに遠近法がおかしい絵や想像上の動物、超絶技巧を駆使して描かれた細密画やデフォルメの激しい身体。時代や国や作者のことを考える。落選が続いて、絶望する男なる題をつけたナルシストイケメンのクールベの自画像がツボ

 大人、というか悪鬼のような顔をした「かわいくない子供」やデッサンが一部だけおかしい身体というのは、見ていて面白い。ぎょっとするものだったり、作者の美意識を感じられる物だったり。自由に描いているんだなって伝わる

檀一雄『わが百味真髄』読む。幼い頃両親が別離し、料理をすることになった著者は報道班員となり、各国の料理にも触れる。どんな食材も貪欲に求め、調理する。自分の為、人をもてなす為。何度か太宰治の名前が出てきて、さっぱりとした仲の良さを感じる。酒飲みは優しく強引で寂しがりだ。

図書館で古い『マラルメ詩集』を借りたら、装幀がピエール・カルダン。シンプルで洒落ている。神秘をまとう優雅な倦怠或いは音の連なりのごとき飛翔。

「諸々の対象の観想、対象がかもし出す夢想から立ち昇る心象、これが詩というものです(略)この神秘を完全に駆使してこそ象徴が形作られるのです」

 マラルメ関連の本を読むと、高確率で「難解」と書かれている。それはそうとして、彼の詩についての文章は、とても詩情に溢れていて良かった。説明できないことを表現するには、詩やユーモアのセンスが求められる。批評や評論がつまらないとしたら、その分に詩が足りないからだろう。俺はマラルメの詩や、もっと言うと古典的な詩を理解しているとは思えないのだが、彼の文章を優雅だと思えるのは幸福だ。何度でも迷い、感動できる。

 とはいえ、色々と当てのない中年がいつまでも迷子というのは、心身が腐っていくのだ。みっともなく、辛いことだ。蝕みの中で見る夢よりも、健康的な状態で、明晰な瞳で物事を見ていきたいのだが、そんなことができていたかなんて子供の頃から疑わしい。

 変わらない変われないんだ大体。それでも、本は大抵俺に優しい。図書館でならタダで、俺のメモリや処理能力以上の物が閲覧できるから。こんな状況だけれど、迷子を楽しむ心を忘れずに。

まあ、あと30分

久しぶりに肉体労働。電車のつり革なんて、絶対に触りたくない、なんて生活を送っていたが、汚れ仕事でそんなことを言ってられないし、マスクなんてしたら酸欠になる。

 でも、仕事をしていた方が雑念が入らずに済む。なにより生活費を稼がねばならないから、色々と動き出さなきゃなって思っていた。のだけれど、東京の状況はまた悪化しているし、色んな求人も少なくなっている。

 さすがにこんなに長引き、終わりが見えないとは思わなかった。俺のメンタルや色んなのが、じわじわと削られているのを実感する。本すら読みたくない日が続く、けれども俺に力を与えてくれるのは本位なのかな。

 ボルヘス『幻獣辞典』再読。様々な時代の人々の創造力の産物、怪物を集めた楽しい一冊。「誰しも知るように、むだで横道にそれた知識には一種のけだるい喜びがある」って素敵な言葉だ。日本はゲーム文化に恵まれていて、この本に載っている幻獣の多くに、俺はゲームの中で出会ったことがある。

ボルヘスが、日本のゲームに触れたらなんて言うだろう? どんな時代も怪物が求められているなんて幸福だ

「我々は宇宙の意味について無知なように、竜の意味についても無知である。しかし竜のイメージには人間の想像力と相性のよいところがあり、そのことがさまざまな場所と時代の竜の出現を説明する」

たまたま、野宮真貴小西康陽の言葉が目に止まって、しんみりする。高校生の俺が好きになった時には解散していた、日本で一番好きなポップスター。今も昔も、野宮はキラキラしていて、小西は悲しみに寄り添っていて、変わらない。好きな人達が変わらない(ように見える)のは、切ない幸福だ。

マンディアルグ『海の百合』読む。高校生の少女が、サンタ・ルチアでヴァカンスを過ごす。そこで彼女は美しい男と恋に落ちる。健康的で潔癖で大胆で危うい若者の心情や、太陽の下の自然を丁寧に書き出す。肌を重ねた男を心に残したまま、名前も知らずに別れる「恋に名札なんか必要ないんですもの」

ステファヌ・マラルメ秋山澄夫訳『骰子一擲』再読。俺は決して詩に詳しいとか理解力があるとは思えないのだが、それでもこの詩が好きだ。豊かなイマージュの潮流を目撃する心地良さ。何度読んでも新しく、俺の物にはならない。秋山澄夫の解説も有り難い。

勅使河原宏監督『豪姫』見る。前作に近い関係の『利休』がとても好きなのだが、この映画はあまり合わなかった。俺が歴史に疎いのも一因だと思うが、主役らしき登場人物がいるとは言いがたく、断片的な物語が進行する。ただ、セットはとても美しい。竹のアーチをくぐる人々はとても良かった

映画監督の実相寺昭雄が好きだ。彼の映画は暴力エロ政治といった昔の日本映画って感じの作風が多いが、有名なのは特撮方面らしい。で、彼が監修した、地球防衛少女イコちゃん、なるものを見たら、ユルくて良かった。女の子が頑張って怪物退治する。特撮全然知らないけど、こういうユルいの見てみたい

ボルヘスの詩集『エル・オトロ、エル・ミスモ』読む。集められた詩は30年位の幅があるので、幅広い。死、ナイフ、暴力、歴史、神秘、不死等。俺はこの詩集に祖国のアルゼンチンへの思いを感じた。昔は血の歴史で育まれたものが国だったはずだ。熱と敬意とを揺籃に、人々は認識できない不死になるのか

 一進一退の日々の中で駄目になっていくことばかり考えてしまう。でも俺はあまりにも自分の身体を大切にしていないことにも思い当たるのだ。自分が幸福になるには、どうすれば楽しいか、という当たり前のことすら余裕がなくて投げ出している。それじゃあいつまでたっても辛いまんまだ。

 不幸や苦しみに底なんてない、として、まあ、苦しくない生活を。何度も落ち込んでしまうにしても、立ち止まり、気づかなくっちゃ。

明日の不幸は明日にして

 東京の状況は変わらず、色々と不安が残るけれどいつまでも家にいるわけにはいかない。不安にばかり心をさいているのはよくない、と分かってはいても気分は安定せず。

 でも、数週間前の自分のことを思うとまだ改善された気がする。いつだって不安定なのだから、楽しいことを考えている時間を大切にしなくっちゃ。

 雑記

編集者、カステックス編『ふらんす幻想短篇 精華集 上』読む。バルザック、ユーゴ、サンド、ネルヴァルら15作品が収録。読む前に、短い作品と作者の紹介があるので有り難い。幻想とは言っても、作品の源泉は悪魔が存在する世界の話から、狂気、薬物、宗教、ミステリ仕立てと幅広く読んでいて飽きない

カステックス編『ふらんす幻想短篇 精華集 下』読む。作家はボードレールリラダン、ローデンバックらで15作品。上巻との違いをあげるとしたら、下巻には悪魔との共生、自分の内から出る狂気、精神病といった視点が多く見られる点だろうか。モーパッサンの作品が、丁寧な狂気の記録で良かった

 この二冊の本はとても質の良いアンソロジーだった。編集者のカステックスという人は知らないのだが、こういう本があるともっと小説を読みたくなって楽しいな。

 アルコール依存症だった人ライターが、回復(禁酒)した本読んでた。様々な症状が出て、彼は好きだった物が好きじゃなくなった。でも、新しいものを好きになって禁酒は続けている。俺は酒をあまり飲まないが、何かに依存している自覚がある。1つのものだけが救いだと思うと、ある時破綻する。難しい

何かを好きだと思える心は、その人の支えになるが、体調、精神の悪化はその妨げになる。周りで頼れる人いるのは幸福なことだし、自分の矛先をそういう人や他人に向けている可能性もある。でも、何らかの帰属意識や帰依や依存無しで生きるのは難しい。自分が間違っているかもと気づく、考えることが必要なのかもしれない。

久しぶりに青山行ったら、
昔から、こどもの国(今は営業してない?)の前にある、岡本太郎の作品が目に止まった。近頃めっきり美術館行ってないからか、誰かの作品がとても胸に来た。様々な顔の子供たちの像は、とても力強くのびのびとしているようだ。美術作品が気軽に見られるって素晴らしい。

青山ブックセンターで色々見る。短い時間だけど、モード系の洋書や写真集とかパラパラチェックする。美しいもの、奇妙なものを見ると心が豊かになる。世界には不思議な物が沢山あると感じられることは幸福だ。知らない写真集が良くって値段見たら八千円だった。来世で買うぜ!

野田彩子『ダブル 2巻』読む。忠犬のような親のような頼もしい友仁、子犬のように天真爛漫で不安定で才能ある多家良。小学校の親友同士のような不思議な関係の大人。多家良の様々な顔を表現出来る作者の説得力。盤石に見える友仁の方が危うい気がする。二人の、終わりの始まりがあるならば、彼から?

『リイルアダン短篇集 上』読む。訳者が複数いるし旧字体だから、文章が頭に入るのに難儀した。一番好みなのは鈴木信太郎の訳。宝石に恋に死に命を灯す詩情を感じる。
リラダンの小説は反道徳、一般的なモラルからは遠く、自由さといやな感じを覚える。それでいて話は蠱惑的なのだからたちが悪い

『文豪と借金』読む。石川啄木、約60人から金を借り「弱い心を何度も叱りつ、金をかりに行く」壷井栄、15家を変え50才で家賃が払えた。葛西善蔵、貧乏には慣れているが40過ぎでは世の中が厭になる。他、多数。教科書に載るレベルの人らですら、借金生活。文学って楽しい地獄絵図かよ

手塚治虫のエッセイ『ガラスの地球を救え』読む。手塚の幼少期、下に見られていた漫画、それを与えてくれた母や認めてくれた先生のおかげで居場所を見つけた話。豊かな自然の中で育ち、生命や自然に敬意や美しさを見出す話等、今読んでも胸に来る。自分の漫画に異物が多いのはコンプレックスに居場所を与えようとした、といった趣旨の発言も好きだ。

手塚治虫は、自分が、人間が不完全で過ちを犯すことを知っていて、だからこそ一人の人間として警鐘を鳴らす。簡単に割り切れない問題に漫画や言葉で立ち向かう。彼の残した多くの作品のことを思う。大好きな火の鳥鳳凰編にも言及していて読めて良かった

マンディアルグ短篇集『みだらな扉』読む。正直に言って不満だった。彼の描き出すエロスや悪夢や迷路はなりを潜め、そのフレーヴァーだけが香る。引っかかりや置いてきぼりにならず軽く読めるが、軽く読めるマンディアルグの作品なんて厭だな。

海野弘監修『世界の美しい本』読む。写本、初期の印刷本、豪華本といった本の歴史。それは美しい本を作ろうとした人たちの歴史でもある。序文でブックは予約、契約、約束という意味を内包しており、聖書は神と人々との約束を記したものとある。神様や制作者の祈りが本に輝きを与える。それが、美だ

プレステの風のクロノアの動画見てた。ポリゴンの絵本みたいでとてもかわいい。プレステやサターンや64の荒いかわいさや不気味さは何だろう。あれで感動してたのだ。最新機種のゲームは、誰かの夢の世界のような迫力があるし、ドットはちょっと怖くて魅力的。それぞれの良さがあるのはとても良いことだ。

 俺は三十代で、ファミコンスーファミといったドット絵、初期のカクカクしたポリゴン、プレステ2以降の実写に近づいたゲームと運よく?ゲームの盛り上がっていた時代をリアルタイムで経験していたが、それぞれの「最新の表現」に素直に感動できて、楽しかった。プレステの初期のゲームなんて、当時でもちょっとひどいなあ、という出来のが多かったのだが、それもまた好きだし、楽しかった。

山田五郎『銀座のすし』読む。銀座百点の連載をまとめた文庫本で、ファストフードだった鮨がフルコースのような値段になったのはなぜ、という疑問を足掛かりに銀座の鮨屋を訪れた記録。高い店に縁が無い俺が読んでも、とても面白い。店や人の歴史に対する敬意と共に、文学等の話題も自由に書ける幅広さ

 この人は有名だからずっと前から知っていたが、著作を読むのは初めてだった。とても読みやすいのだ。さすが元編集長といったところだろうか。手前勝手な作品では読みやすいと言うのは誉め言葉ではないこともあるだろうが、こういうルポやエッセイにおいて、知識や経験からくる考察や寄り道と共にすらすらと読ませる文章はとても上手で彼の他の本が読みたくなった。

 幸田文原作、成瀬巳喜男監督『流れる』見る。山田五十鈴が女将の、老舗の置屋田中絹代が女中として働きに来る。華やかに見えるお座敷ではなく、様々な立場の女性の生き様を描く。脇を固めるのは高峰秀子杉村春子岡田茉莉子ら。哀しく淑やかで凜とした名演技。それぞれの悲喜劇を捉えた傑作。

 落ち着いた構図もあり、女優の演技を堪能できる。雄弁にならずとも、内に燃える激情や口に出さない感情を感じる。元々好きだが、おっさんになってから成瀬巳喜男のすごさが分かってきたような気がする。

市川崑監督『ぼんち』また見る。船場の老舗問屋に生まれた男を市川雷蔵が演じる。若尾文子山田五十鈴中村玉緒船越英二越路吹雪等役者がとても豪華。しきたり、を人間よりも大切にする河内屋。それに翻弄される男女。多くが空襲で焼けても、残った者の人生は続く。雷蔵の色気と品が心地良い

 若尾文子がものすごい美人!(知ってるけど!)若くて調子乗っててしたたかでどこか抜けているような、画に描いたような芸者が「実写」で出てきたよって、見ていて楽しかった。あと、船越英二の顔はとてもいいけれど「あほぼん」っぷりが好きだ。むかしのいかつい男前だけど情けない姿は可愛らしい。市川雷蔵はほんと、動いて喋っているのが素敵だ。彼の顔も好きだが、いわゆる男前とかイケメンとかいわれるような役者ではないはずだ。でも、どの役でも彼には色気というものを感じる。ひとたらし、って感じだ。演技のうまさは勿論だが、動く彼を見るのは楽しい。

木下恵介監督『永遠の人』見る。恋人がいる小作人の娘。負傷して帰ってきた地主の息子に犯され、入水自殺するも果たせず、恋人と夜逃げする約束も破られ、地主の男と結婚して子を産むのだが……という前半だけでかなりきつい展開なのだが、不幸や憎しみには底はないのだ。産んだ子を愛せない母。妾の子、と苛められた息子は学友に暴力をふるうようになってしまう。その息子を愛せと言う愚かな父親。

 息子が置手紙を残し、自殺してしまい、男が女を叩くシーンがきつい。やりきれない。

見ていて思わず泣いてしまった。脚本に多少疑問もあるが、モノクロの自然や立派な家を映すカメラ、構図がとても美しい。高峰秀子のやりきれない生き様も、仲代達矢の弱い屑男も、二人の演技が上手く引き込まれる。すっきりしない映画だが、監督と役者がとても良い問題作

 木下恵介は自然を美しく撮るなあ、と思ってはいたが、この映画はとてもすごくて、どっしりとした自然の中で戸惑う人の姿と、お屋敷の中で対話したり事件に対峙したりする役者の姿がとてもよく撮れていた。モノクロの画面が美しいと思った。俺なりに最上級の誉め言葉だ。

 成瀬、市川、木下、と続けて巨匠の映画を見てきてふと思ったのが、商業的な、分かりやすい演出を一番好まないのが成瀬で、そういったパンチの聞いた表現もするのが市川崑、という気がする。木下はその中間だろうか。まあ、あえて言うなら、ということだけれども。

 でも、俺の勝手な想像だが、有名な、作品を見た人が多いのは市川崑木下恵介成瀬巳喜男となるような気がする。もっとも三人とも優れた作品を残しているのだから、好みはあっても優劣はない。でも、俺は二十代の頃はもっと市川崑に夢中で、成瀬は三十代になってから理解が深まった気がする。

 様々な物について、俺は少ししか知ることがなく、身体や頭が駄目になる。ただ、夢中になっている時間はそういう迷妄不安虚心が軽くなるのだ。明日の不幸は明日考えるべきだ。追いつかない幻の方が俺に優しい。

肉袋の中の宝石、悪魔

あまり外に出られず、家でグダグダしている日々。しかしこんな生活をずっと続けられるわけがなくて、久しぶりに肉体労働。マスクをして、体力が落ちた身体でのそれはびっくりするくらい疲れて、俺、大丈夫か? と思ったが、大丈夫大丈夫ではないとかではなく、やらなければ。やらなければ終りってことだ。

 とはいえ、体調は以前よりはだいぶ良くなっている。ちゃんと外出なきゃなってことだ。引きこもっていた頃は気分の波が激しかったが、一応読書の時間はとれていた。でも、当たり前というか、身体が疲れていると活字を追うという気にならない。

 けど、俺の楽しみは読書なのだ残念なことに幸福なことに。貧しい者にも等しく書物は開かれている(と思う)。好きなことがあるのは幸福だきっと。

 雑記。

ボルヘス詩集『永遠の薔薇・鉄の貨幣』読む。どれだけ理解しているかは置いておいて、俺は彼の書く文や詩や散文や講演の記録等が好きで、優れていると思っている。だが晩年に書かれたこの本は、好きとは思えなかった。意識したであろう、繰り返し現れる盲目や死からは詩情とは別の物を感じた

これまではページを開くと、彼の筆致に才能に夢中になっていたのに、この本は大して感受性が動かなかった。単純化して、同じことを語るのは意図したことだろうが、その詩は小説の一部を切り取ったかのような散漫さがあり、彼の以前の作品にも到達しないまま終わる物があったにせよ、それらには詩情を感じられたのだが、この本の中の文章には、そういったものが弱く、俺がこの本を理解してないとしても、別の本の方がずっと出来がいいのではと思ってしまった。好みの問題だろうか。目を向けている先が違うのだろうか。単に好きな作家の本の前で俺が戸惑っているだけなのか

生田耕作マンディアルグ『ポムレー路地』読む。彼の手にかかれば町の路地を幻が浸食する。「私の側の病的関心によって幻想的に拡大された細部」例えば「殺し屋の石鹸、いんちきトランプ、花嫁の鍵、悪魔の目玉砂糖」、もっと山ほどの不可思議に出会う。謎の女性。鰐人間。著者は一流の雄弁な人さらい。

 とてもこの短編は好みだった。マンディアルグの中でも一番好き。もしかしたら、マンディアルグとしては話が分かりやすいからかもしれない。すんなりと様々な魔術(意匠)や構成(骨子)が頭に入ってくるのだ。

 『前衛調書 勅使河原宏との対話』読む。勅使河原宏の足跡と映画作品についての本で、とても面白かった。華道家の家に生まれたが、美術への道を歩み映画制作をすることになる。だが、父と妹が相次いで亡くなり、華道家として本格的に生きることになる。彼の作品が様々な経験から育まれたことが分かる。

映画の話を引き出す四方田犬彦がうまい。勅使河原は型にはまった演技を嫌い『砂の器』での岸田今日子をとても褒めている。ヌーベルバーグの監督の話題、影響関心。『利休』のシナリオを赤瀬川源平に頼んだのは路上を見つめるトマソン、無用の物から。それが利休の茶室に繋がる

監督の立場にある時、撮影時に型にはまったものよりもハプニングへの対応や揺れを求めるのは、似ていても昨日と同じ花などない、自然の花で構成する世界、いけばな、花を素材を尊重して与えられた物を空間に配置するからだろうか。

 彼の花、いけばなの作品が好きなのは、美術の空間把握能力、抽象絵画やミニマルアートに通じる美意識を感じるからだろうか。映画、美術、華道、陶芸等というものが混じり合って、それぞれの制作に良い影響を与えているように思える。

 同著106p

四方田「(伝統とか映画史的記憶とやらが重荷になったかと質問して、勅使河原がないですと答えた後で)そこがハリウッドにこだわり続けるゴダールなんかと違うんですね。勅使河原さんのフィルムには映画というものをめぐる自己言及が全然ないわけです」

勅使河原「そうなんです、風景や人物たちに感動したりという、そういうぼくがただいるだけなんですね」

 この質問はとても興味深く、軽やかな彼のスタンスを表しているから、読んでいて楽しかった。目の前の題材を捉える、美しく或いは意図したとおりに撮る、なんて言葉で書くのは簡単だが、それができるのはとても困難だろう。美しいコンポジションを提示する作り上げるのに、美術、華道の感性が通じている。引用と主張(政治、意志)の織物を音楽に乗せて投擲するゴダールとはかなり異なる立場にいながら、二人共刺激的で素晴らしい作品を作っているというのは感謝したくなるような心持にすらなるのだ。

 アイラミツキの復帰第一作のシングル『lightsaver』のカップリング曲f.c.c. が本当にいい曲なのだが、この曲シングル限定でiTunesに売ってないのだ。何年もどこを探してもない。だが、数日前アマゾンで5000円で売っていた。マジかよ。今見たら数日で売り切れてた。マジかよ。

宇野千代95歳(!)のエッセイ『私は夢を見るのが上手』読む。歳をとり身体の不自由について「人間はどんなことでも、慣れれば平気になれるものなのである」と言えるのに明るい心持ちになる。歳をとっても、欲望はなくならず、整理されシンプルになる。書けなくても机に向かう姿。人生とは行動すること、そう彼女は言う。

ボルヘス、文学を語る』読む。米大学での講義録。様々な作品を手がかりにして、詩や文学について語る。それは自分の文学観と自作への言及になる。「書物は不壊の対象ではなく美の契機」「生涯で最も重要な事柄は、言葉たちが存在すること、そしてそれらの言葉を詩に織り上げるのが可能だということ」

ボルヘスの自撰短篇集『ボルヘスとわたし』読む。登場人物も読み手も夢の中に誘うようないつもの作品と共に、残酷で暴力的な作品も多い。百年前のブエノスアイレスを想う。自伝風エッセーと著者注釈があるのが嬉しい。その中でアルゼンチンの人間はやくざや女衒の話を好むとあり、日本にも近い文化、ヤクザ、任侠物。色町、花柳界についての作品の歴史と人気があることを思う。色欲と暴力は(物語の中では)どこでも人気だと言ったらそれまでだが、それが作品として残っている、未だに人気があるとしたら、見知らぬアルゼンチンに日本と近しいものを感じたのだ。

 最近ボルヘスをよく読んでいるなあと思う。彼の本を初めて読んだのは大学の時で、大学の頃読んだ本、好きになった本で、俺の好みはほとんど変わっていないことに気付くと、何だか虚しい気持ちになる。だけど、俺は大学の頃よりも作品に対する理解が深まった、或いは別の感受性を得るのだ、と考えるとまだましな気がする。

 恐ろしいことに俺は読んでいない本が山ほどあり、しかし俺は読んだ本を十全には理解できない血肉にできないそうだと少し思えてもそれらは薄れゆく。大した理解のないまま、やがて、精神か肉体かが駄目になるのだ。

 今の状況だと、それが身に染みる。大学の頃は先のことはなんとかなると思っていた。まあ、なんとかなったのかもしれないが、それから十年以上すると、駄目かもしれないという気持ちが滓の様に身体にたまっていくのだ。

 そういう考えを頭から締め出すためには、書く/読む、しかないのだ残念なことに。虎と遊んだり生でガムラン聞いたりしたい、けど今の俺ではとても無理だ。でも、俺は幸福だと錯覚できる時間が多い方がいい。だから肉袋の中の宝石を、悪魔が憑りついていないかと、ありもしない虚妄にふける。

目隠し、騙し、手当もね。

多少、調子が戻ってきているかもしれない。というか、数週間前、一、二ヵ月の状況が悪すぎたから、沼の中から頭だけ浮上したといった体だけれど。

 それでも、そのこと自体は喜ばしいことで、少しは自分の身体をいたわらなければと思う。俺は怠惰で自堕落だけれど、自分の身体を痛めつける。

 ただ、本を読みたいなら、本に文章に見えないものに人間に向き合うならば、多少の健康さ公正さ精神の余裕が必要なんだ、だから、たとえなくてもあるふりをした方がいい。目隠しは、騙すのは自分から。

 色んな店の閉店やら何やらのニュースが耳に入り、他人事ではないのに、まだ俺は実感がない。少しずつ、色んな物に触れる機会が減る。

 ただ、渋谷のレコファンが閉まると知って、最近は全然レコファンで買っていなかったのに、妙な気持ちになった。今は中古cd、レコードショップはどこも厳しいこと位分かっているけれど、閉店、おしまいの日は、宙ぶらりんの いつか であるはずだった。

 高校生になってバイトが出来るようになって、渋谷のレコファンにはとてもよく通っていた。実家から少し遠いが歩いて行けたのだ。バス代往復で安いcdが買えちゃうよ。何でもいい、誰かが好きな人がオススメした奴、ジャケットがかっこいい奴、沢山聞きたい知りたい。

 渋谷にレコファンは、最盛期には三店舗あったはずだ。でも、一番大きな店舗もしまるという。今は色んなサービスで無料で聞けちゃうし、俺もかなりcdを買わなくなってしまった。でも、cdが今も好きで、youtubeなんてなかった時代に、色んな曲に出会う機会を与えてくれたんだ。ありがとうレコファン。お疲れ様、というよりも、俺も好きなの買わなきゃなー。

バルバラ『赤い橋の殺人』読む。19世紀のパリで急に金回りがよくなった男。しかし、ある事件の真相が自宅で語られた時に彼は異様な動揺を示す。
探偵小説だが、執拗な心理描写、ボードレールの引用、貧困と反抗を胸に抱く芸術家、それに加え神や良心の不在といった要素があり、解説にもある通り『罪と罰』を想起させる。

マルグリット・ユルスナール『青の物語』再読。死後まとめられた、彼女が若い頃の短編集。表題作がとても好きだ。サファイアを求めて青の洞窟に向かう、様々な国の商人達。彼らは残酷な、或いは虚しい結末を迎える。詩情のある表現で世界を彩り、冷静で簡潔な表現で生き様を記録する。一時、宝石の夢を見る

白洲正子『鶴川日記』読む。鶴川に越して、30年になる著者の記録。当時は戦中で、田舎の朗らかな描写と共にそうも言っていられない状況なのだが、この本では日々の生活、自然との交流、村の人々や仲良くしている文学者等との話が多くて湿っぽさは薄く、著者のたくましさと穏やかな筆致を楽しめる

マンディアルグ短編集『狼の太陽』読む。人工物も自然も妄想も、悪夢に変える恐ろしい作品群。デコラティブで飛躍する文体を訳するのは生田耕作。奔放な夢魔の迷宮の中で迷子になる。

木下恵介監督『二十四の瞳』見る。原作は小さい頃読み、映画はいつか見るだろうと思いつつ、十年以上経って見る。前半は小豆島の自然を唱歌に載せて美しく描く。しかし貧困や親が幼子の運命を決め、戦争が人々の生活を激変させる。生徒を深く愛する高峰秀子の名演技と、人々の生きていく姿に涙が出る。

 リマスター版を見たのだが、古い時代に撮ったのに豊かな自然、海と山がとても美しく、広がりを持って捉えられていてすごかった。また、感動ものというか、そういった描写があることを知っているのに、映画を見て涙が止まらなかった。五回くらい泣いた。そりゃあ、ちょっとお涙頂戴演出ではないか、と思うこともないシーンもあったが、それでも高峰秀子(と子供達)の演技は良かったし、自分の意志を踏みにじられる子供達は見ていて辛い。だが、大好きな人の助けに力になれなくても、必死で生き抜く力と献身が伝わってくる。とても良い映画だった。

鈴木信太郎のエッセイ『記憶の蜃気楼』読む。小林秀雄森有正渡辺一夫等々錚々たる人々との交友。仕事も遊びも大切で楽しいと言える、恵まれた環境での、優れた研究者の探究心に触れる。ランボーの引用

俺の生活は饗宴であった、すべての人の心は開き、あらゆる葡萄酒は流れ出した饗宴であった。

 このエッセイを読むまで、俺はフランス文学の訳者鈴木信太郎という人に対してかなり神経質なイメージを持っていたのだが、そういう一面があるにせよ、結構恵まれている呑気なお坊ちゃんといった姿が見られて(というか、昔はかなり恵まれていないと、大学、留学、学者にはなれないだろう。あ、今もか?)楽しかった。感受性を育むのは喜びであって虚ろではないのだ。

 ピエール・ルイス『妖精たちの黄昏』読む。語り部が話す物語は、どれもこれも救いの無い悲劇で、納得出来ない聞き手が質問をしても、幸せな話がいいと言っても語り部は応えない。あとがきで、友人が著者に捧げた寓話を読み、この作品が腑に落ちた。その寓話は、様々な物を持っていても手に入らない。

 永遠の渇望を、どんな才能や輝きを持っていてもお前は不幸の闇に没するのだ。


この予言、寓話が友人の(!)書いたルイスへの本の冒頭にあり、『妖精たちの黄昏』とも奇妙な類似を見せている。知ってはいけないこと、意味がないことをたしなめる。くすぶる感情、気持ちが整理されないまま幕は降りる。しかし著者は美しい詩や物語を生み、作っていた。大人の為の残酷なおはなしだ。

 パゾリーニ監督『カンタベリー物語』見る。8つのエピソードを巡礼宿でつづるオムニバス作品。その中身は、性欲に正直過ぎる男女の物語。夜這い覗き男色罪で火あぶり兄弟で殺人、ラストの地獄では悪魔の尻の穴から僧侶が吹き出る。裸の男女が沢山。猥雑の極み。だが、構図陰影が巧く悲劇も明るく描く

 久しぶりに見たパゾリーニは、まあ、生命力にあふれていてすごかった。とにかく裸の男や女の多さ! でっぷりとした脂肪がついた男や女。尻と放屁。無修正だからか、丸出しの男性器に下着なしで服を着るという動作が何度か見られて、それが妙な躍動感というか、あっけらかんとした様子で、嫌なエロティシズムがない。アダルトヴィデオではない、映画の濡れ場での、つまらないセックスシーンもどきよりもずっと、パゾリーニの方が自然だから。

 とはいえ、それは自然を映す時は陽光で全体を映す、室内や緊張感があるシーンでは陰影を強くする(カラヴァッジオみたいに!)、猥雑な集団もあればシンメトリックな落ち着きのある構図もあるといった彼の美学映画のセンス、様々な使い分けができるから、下品さをあまり感じないのだと思う。

 岩波文庫シェリー詩集』読む。自然の讃歌、甘い恋歌、政治的な問題視される歌、神話を題材とした重厚な詩。様々な顔を持ち、詩情を感じさせる豊かな作品群。読み応えがある。丁寧な解説・脚注もあり、とてもありがたい。彼が30歳で亡くなったとはとても思えない!

ボルヘス『創造者』再読。彼の好きな物が集められた詩文集。それは、夢や引用や神話や記憶で編まれたバベルの図書館、或いは盲目の図書館。濡れた金貨、死後に対話する勇士、夢の中の虎、天恵の歌。

私は書物の引力を、ある秩序が支配する静謐な場を、みごとに剥製化して保存された時間を感知する という言葉は、いつ読んでも素晴らしい。

 体調や気分が優れないことはしばしば、というかパッシブスキル標準搭載。でも、何も消費できないんじゃ生みだせないなら死んだほうがまし、でも、死んだら本も音楽も映画もどこかへ消える。だったらまだ消費できますように。目隠し、騙し、手当もね。

優しさ落し物

やっと、すこし体調が安定してきた。というか、夜に調子が良くなるのはいつものことだけれど。

 それにしても、生活が一変、というか、かなりおかしくなっていて、それは俺だけではないのだけれど、この二ヵ月位の間はかなりまいっていた。

 昨日今日と、目的なく、家の周りを昼間に歩いていて、少しだけ気分が上向きになるのを感じた。外に出て歩きながら音楽を聞いて、街路樹の緑に目を向けるだけで、余計な雑念が薄まる。いつまでも悪意や不安不満に溺れるような生活態度では愚かだ。愚かなんだ。賢い生き方なんてできそうにない、けれど気分は悪いよりも良い方が好き。

 たまに、好きな物が分からなくなるどうでもよくなる。その割に惚れやすくすぐに感情がざわつく。そんな性分のおかげで大変困難になっているのだけれど、本を読む/書くというのはそういうのが役に立つ、ということにして。

 雑記。

 三好達治随筆集読む。彼の詩がとても好き。この随筆では、詩人が自然、動植物を見つめる精緻な眼差しもあるが、俗への嫌悪や虚ろな心情や自虐的な文も。だが、

どんなに寂寥になれて孤独を愛する人でも、人間はみな、大なり小なり他人の生活によって自分の心を支えているのです

と、心の広さを感じる

サン=テグジュペリの『夜間飛行』再読。郵便飛行業が今よりずっと危険だった時代に、夜間飛行という危険な業務を行う人々の話。彼らにとって夜空は、空は、死と隣り合わせで、しかし魅惑的だ。厳しささえ感じる勇敢さ。飛ぶ者、陸で見守る者それぞれの思いを現場の厳しさと、少しのロマンスで描く。

シュニッツラー短編集『花』読む。訪れた悲劇に対して、登場人物の心理描写を丁寧に描いている。目の見えない弟が、あるときからずっと暮らしている兄を疑う展開は辛い。

1983年岩波文庫の、売上カード挟まってた。
この頃文庫は旧字体で200円だよ。この時代の本棚見てみたい

ロウ・イエ監督『パリ、ただよう花』見る。北京からパリにやってきた教師の花。彼女は様々な男と身体を重ねる。どんな人種でも教育が近しくても遠くても、すれ違う人々。弱さに肉欲に寂しさに溺れる、愚かな人々。でも、そんな人達もたまに優しい。人々のどうしようもなさを捉えた切ない映画。

 彼の映画を何本か見たのだが、ほとんどの映画でセックスシーンと怒鳴り散らすシーンが出てきている。怒鳴り散らすシーンは、結構見ていてきつい。感情の爆発や行き違いというのに、彼は固執しているのだろうか。

 フェティッシュは、オブセッションは苦しみを与えるかもしれないが、何かを作る時には大切な物かもしれない。俺は同じような主題のものを繰り返し作る人が割と好きだ。とか言って、自分がそうだからかもしれない。

 ローデンバック『死都ブリュージュ』読む。愛する妻を失い、その想いに、何年も囚われている男。その妻に瓜二つの女性を偶然見つける。しかし、その女は身持ちの悪い踊り子だった。男の幻想は蘇り、朽ちる。敬虔なカトリックの都市で、彼は愚かな行動を止められない。ドラマチックな展開は巧みだ。

ジィップ著の戯曲『マドゥモァゼル・ルウルウ』再読。わがままで天衣無縫な14歳のじゃじゃ馬娘ルウルウの、自由なお喋り。訳が森茉莉で、彼女がルウルウを愛して、作者に手紙を出し、翻訳。森茉莉が手紙で、ルウルウが見える、今どこにいるのですかと尋ねているのは可愛らしい。装画は宇野亜米喜良

宇野千代 女の一生』読む。彼女の人生や生き方、仕事や好きな物を豊富な写真つきで紹介する一冊。晩年の彼女のエッセイを数冊読んだ位の俺でも十分に楽しめた。
好きなことには貪欲だが、喜怒哀楽が穏やかで、人と幸せを大切にする生き方。読んでいると心が解れる

 そういえば、最近またパソコンがフリーズからの強制終了からの普通に動いている、という状態で、俺のノートパソコンwin10だが6,7年使ってるかもしれない。しかもずっとつけっぱ動かしっぱなし。何でクラッシュしていないのか、分からない。いつ壊れるか。今壊れたらかなり金銭的にきつい。でも、もう、そんなに長くはないのを騙し騙し使っている。

 まるで俺の身体みたい、なんて思うけれど、俺の身体に代わりはいないのだ。たまに、些細なことで、身体があって意識があって良かったと思うこともあるし、俺は怠惰ですぐに回避しようとする癖に、自分の身体のメンテナンスもサボっている、痛めつけている。

 自分の身体に良いことをしよう。というのを自然とほとんどの人ができているというのは驚きで、しかし体調不良のままの時間よりかは何かを消費して埋葬する時間の方が有意義なので身体のことを考えて数日過ごして見たら、体調や気分が多少、しかし確実に改善された。

 ああ、俺は優しくされたかったのかなあというか身体は人は優しくされたいものかなあと思うのだが、俺は落し物が多くてそういうのを見つけるのは不慣れでぼんやりとしてしまう。

俺の為の図書館の司書でなければ、辺獄で迷子

色々と安定していない。こんな時だから当然なのだけれど。

 雑記。

 『ボルヘス怪奇譚集』再読。世界中の、数十年前から、数千年前まで様々な物語を集めた一冊。滑稽や皮肉、幻想や理不尽、悲劇や洒落。幅広い物語の中の、数ページの断片の数々は、読む者を夢の図書館へと案内する。本を求める人はきっと、自らの終わりない図書館を編んでいるのかな。

 『林芙美子随筆集』読む。彼女といえば、『放浪記』の困難な生き様が頭に浮かび、この本にも愛金嫉妬悪口強気、もあるが、それよりずっと穏やかな文が並ぶ。生活の雑事や野草や詩句を愛する姿は、微笑ましい

川端康成の『禽獣』を


川端氏の触覚、視覚すべて愛(かな)しく美しい。という一文は胸を打つ

白洲正子『草づくし』読む。草花や和歌や古典文学や骨董品を自由に語る楽しい本。

若菜摘む、に俺は残酷な喜びを見たが、著者は豊穣の祈りとエロスを見る。
山部赤人の句

春の野にすみれ摘みにと来し吾ぞ
野をなつかしみひと夜宿にける

(菫摘みに来たら、魅せられてそこで一夜)
可愛すぎだろ。

今日も、何度も眠り続けて、夜になるとましになる。ふと、『マイ・プライベート・アイダホ』のことを思う。ゲイの監督が撮った(ガスの映画好きだが)、美少年同士の友情、片思い、犯罪。当時見ていて恥ずかしくなった。多分、俺は彼らに憧れていたんだと思う。あと、設定はハードだけど優しいから。

寺田寅彦『柿の種』読む。本人が日記の断片のようなもの、と言う短文集。動植物の話題がやや多いか。観察をして、明晰で読みやすい文は著者の人柄からか。

震災後、焼けた樹木に黴が生え、恐ろしい速度で繁殖し、植物も生える様を

焦土の中に萌えいずる様はうれしかった。

という言葉は胸に来る

YMCKのファミリー スウィング
聞く。いつものjazz+チップチューンの楽しい仕上がり。タイトル通り、ジャズ色強めで、ミュージカル映画を見ているような気分。捨て曲無しの、ワクワクしてちょっぴり切ないアルバム

ゴダール『フレディ・ビュアシュへの手紙』また見る。シネマテーク館長フレディへの映像手紙、という手法のわずか13分の短編映画。
音が画が動画が美しい。最高。後期ゴダールは自然も美しく撮る。
手紙というより、いつもの自由な独り言、エッセイ。平和な内容で、穏やかで幸福な時間は、すぐに終わる

シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』読む。一般的なアイスキュロスの作品とは異なる解釈で、暴虐と全能の神ジュピター(ゼウス)への抵抗と愛の成就による勝利が描かれる。訳注が数百!一読しただけでは読み取れてない点も多いだろうが、大地や月や精霊や神々の織り成す叙情詩はとても美しい。

『インノサン少年十字軍』読み返していた。少年十字軍って題材、耳から血が出る位好き。結末は予想がつくのに。踏み散らされる花々が好みというよりかは、彼らが絶望へ立ち向かう姿に心を打たれるのだと思う。
この本は全三巻。濃密。好きとか言っておいて、切なくてラストは読み返すのが辛い

夜になって少し安定。毎日こうだ厭になる。早く白骨かチェブラーシカになりたい。
軍艦島全景』の写真集をパラパラ見ていた。この本は、何年の何号棟はどういう目的で利用されていたか細かく説明されていた。写真だけではなく、生活の気配を伝える説得力がある。もう、誰もいない風景は心を慰撫する

Nq のrecording syntaxを数年ぶりに聞く。工業製品のざわめきのようなエレクトロ。買った時俺は学生で、CDを買い漁っていた。このCDもそうだが、ライナーノーツに佐々木敦の名前を見つけると、それだけで当たりだと分かった。なのに、俺は音楽雑誌をほぼ読まないから、彼の仕事をほとんど知らない

『フランシス・ベイコン 対談』再読。晩年のインタヴュー。偉大な画家にゴッホを上げる。二人の絵には近しいものを感じる。自分の画が人気なのは運が良かったと語る曲者の彼

僕の作品は、自分が嫌いなあらゆるものと、自分に影響を与えるあらゆるもののお陰というわけさ

永井荷風『花火・雨瀟瀟』再読。随筆のような小説のような作品と、短編小説が収録。知らぬ間に孤独になってしまうと言う著者。自己憐憫の甘さは薄く、雑事や自然の移り変わりを乾いた眼で美しく捉える。短編は浮気芸者嫉妬冷酷、という小品で、それを上手く書けるのは、やはり著者の孤独からか

音楽がないと不安になるので、寝るときも常に流している。しかし体力は消耗する。
思い切って音を消す。交感神経は喜んでいる気がする。
音の無い時間に身体を調律するのか、と思うと、調律師、チューニング出来る人が冥府の住人のように思えてくる。音を殺して身体を正しくするのだ彼ら

トリュフォー監督『野生の少年』また見る。昔の実話が元。森で発見された捨て子に教育を与える話。冒頭四つん這いで森を逃げる少年と追いかける犬達はすごい迫力。見世物になったり教育を押し付けられたり、胸が痛む場面が多い。だが、自然の中を二足で駆けたり温まる交流もある。少年の演技とても巧い

 教育を受けてはいても、雨を全身で受けて歓喜を表す少年。てか、ほんと少年の演技がうまいのだ。

ヒッチコック/トリュフォー』見る。トリュフォーが書いた『映画術 ヒッチコックトリュフォー』を軸に、十人の監督が彼や著作について語るドキュメンタリー。サスペンスとサプライズは違う。とは、ホント名言。彼の映画の作法、美しいパズルについて、敬意と興奮で人々が語る様はとても楽しい。

 この映画でウェス・アンダーソンを久しぶりに見た(映画ではなく本人だが)。彼の映画、大抵家族が大きなテーマで、暖かくてトラブルばかり。でも、彼の映画見てないなー。見たい監督結構あるんだよな、でも。思うだけ。

 柳田国男『日本の祭り』読む。神事である祭り。その歴史を体験していない学生に向けて語る講義録。祭りを通じて、人が成長し結びつく。民俗学的な信仰の形。今は形骸化した文化、しきたり。経済発展は、文化を殺し、新しい娯楽や聖なるものを生む。忘れられる思いを記録し伝える事もまた、大切な事

 『二人のヌーヴェルヴァーグ』見る。ゴダールトリュフォー。批評精神と映画への愛と才能で結ばれた友情は、ゴダールが政治へと傾倒していくことで決別へと向かう。出てくる映画、ほとんど見てた。彼らの、あの時代の映画が大好きなんだ。才ある者は挑戦する者は常に新しい。彼らの作品も、勿論。

 見ていて楽しくて切なかった。高校時代に彼らの映画と出会って、それからずっと彼らの映画が好きだから。色んなあの時見たシーンが、彼らの映画の断片だけでも見るのは楽しい。ただ、俺は古い物ばかり愛するのか、あの時のまま年だけとって変わらないのかと我が身を思ってぞっとする。

 またそれとは別に、二人の決別。トリュフォーが亡くなって、しかしゴダールはまだ撮り続けているという奇跡に感謝すべきか。

 二人の才能ある監督に愛されたレオーにも焦点が当たっていて良かった。インタヴューで彼が、(一時期)近しすぎるトリュフォーに反発心を覚えるようになり、ゴダールの映画ではのびのびとできた、というのが何だか聞いてて微笑ましくなった。

 三日連続でトリュフォー関連の映画を見て、それはネットレンタルでたまたま適当に選んだのを見ただけなのだが、やっぱりいいな、好きだなと思った。それは映画の本の芸術の中の巴里。俺は一生会うことがない、できない巴里。

 体調がぐらぐらしている。というか、こんな時期に元気な人の方が少ないだろう。開き直って、読書の時間は増えたような気がするが、やはり街に出られない、色々な物が静かに幕を下ろす姿が流れ過ぎて、自分の感覚が麻痺してきているし、俺の何かも駄目になってきている。

 とはいえ、生活は続く。生きている限り。俺は俺の身体を任されているのだから、幕引きまでは良い選択をしなければ、つかみ取らねばならないんだ。

 書き終えた小説を、ちょこちょこ直しつつ、気持ちや小説を整理している。男を、生き生きとさせて、埋葬する。そういう物ばかり書いているのかと思うとぞっとする。でも、俺は俺の為の図書館の司書でなければならないのだ。それが俺の役にしか立たないにしろ、俺は書くことで虚ろな自分を繋ぎ留めているのだ。

 数年前から行き当たりばったりで、「人に読まれることを意識した」「俺が読みたい、古臭い」ファンタジー小説をネットにアップしている。ほんの少しだが、読んでいる人もいる。

 人に読まれる、ということで、最初の方に書いた文章は特に読みたくない。俺は読みやすい文章なんて書いてなかったし、書くつもりもなかった。

 エゴイスティックな自分の為の小説ならいいだろう。でも、さらりと読めるゲームみたいな、ファンタジー小説が読みたかった。

 読みやすくしようと思ったら、単にスカスカな感じになった。人に伝わる表現を、と思うと味気ない物になる。更新頻度も少ないし、惰性で続けていた。

 でも、気晴らしに小説を書くというのは、それなりに身体にいいものだ。最近は、物語の中でよく分からない図書館で、シェヘラザードの語る「おはなし」と称して、ボルヘス矢内原伊作やフランシス・ジャムやノヴァーリスボリス・ヴィアンを引用していて、書いていて楽しい。

 もっとも、読んでいる方がそれで楽しいのかは分からないが、読んでいる人がほとんどいないという点では、好き勝手できて気が楽でいい。「人に読んでもらえるような」作品にしよう、とは思ったが、自分の為に書いているのだ。

 登場人物、がでるとして、誰かの人生に向き合う作業、というのが作品を作る上では必要になる場合が多いだろう。それは大抵とても疲れる作業だ。毎日他人の苦しみや喜びのシャワーを浴びていたらおかしくなる。

 でも、小説は、文章は、何でもいいから書き続けている方が良い。地獄のようなマラソン、なんて思うよりかは、司書なんだ世界の編集者なんだと思う方が身体にいいだろう。

 体調ぐらぐらだけれど、何かを消費して、何かを生み出さなければ。それが当たり前なんだって、そうやって生き延びなければ辺獄で迷子