恋の時間愛の時間何にも追われない時間

 新しい小説を書こうとして、一文字も書けずにうろうろしている。一度決まれば後はわりと早いと思うのだが(でも、人がどんな風に小説を書いているかなんて知らないけど)、そのスタートに立つまでがとても長い。億劫だし面倒だし集中力が無いし。

 でも、俺は作り物の中では息ができるのだ。架空の空想の作り物の偽物の幻想のありもしない、いや、ありえるはずのいつかの何かのことばかり。

 多分、文章を書いていないと考えていないと文章を書く力は衰える。そのことは、スポーツ選手や料理人みたいなものに近いのだと思う。同じことの似たようなことの反復が、その人の輝きを作るのだ。

 とはいえ、ずっと現実逃避しているわけにはいかない。いかないというか、生活が成り立たない。最近は毎日のように辞めたいと思いながらも仕事を続けていた。俺は根気も集中力もないので、普通の仕事でもとても疲れてやる気がなくなる。

 後、どれくらい文章を書けるのか、日銭を稼げるのか、おかしくならずにすむのかと、たまに心に浮かんでは消える。きっと、緩やかな自殺の様にして俺はおしまいになるのだろう。

 でも、その前に少しでも現実逃避ができたら、夢を見ることが、錯覚を編むことができたら。哀しいやつまらない、よりかは楽しいことが好きだ。俺は厭世家やペシミストではないけれど、気が付けばメランコリーが親友。見えない親友の手を取りながら、誰かの錯覚を瞳に映したいと思うのだ。

 

 

Bunkamuraザ・ミュージアム 永遠のソル・ライター展。見る。この時期は人がとても少なくて良かった。ニューヨークの日常を撮り続けていた彼の作品は、ファッション写真のようにフォトジェニックだったり(というか)ファッション誌でカメラマンしていたのだが、人々の息づかいが伝わるような瞬間のショットだったり。特に、妹やパートナーの女性を撮った作品が良かった。

妹は仲が良かったけれど、ずっと病院生活になってしまったらしい。そんな彼女は同じ顔の角度の写真が多くて、表情も固く、世界に不信感を抱いているかのようだ。しかし、兄の撮影には応じていたのか。反対にパートナーの写真は生き生きとしていて、映画のワンシーンのようなものも多くて魅力的だ。

 正直、チラシを見た感じだとそこまで期待はしていなかったのだが、展示は思いの外ぐっと来た。カラー写真よりも、妹やパートナーの女性を取り続けたモノクロの写真がとても良かったのだ。

 それらの写真は、親密さがとても伝わる上に、彼のセンスの良さ、ファッション雑誌や映画のワンシーンのようなフォトジェニックなショットの魅力があって、幸福な時間を感じられる物だった。

図録欲しかったけど、高い上に俺が求めるものではなかった。判型小さめでカラー写真がたくさん載っている感じ。多分俺とは彼の写真の魅力的に感じた部分が違う人が構成したのかなあと思った。

 ソル・ライターは、きっと芸術家タイプというわけではないと思う。でも、芸術よりも愛おしい人との時間や街のちょっとしたできごとを大切にしていて、それを印画紙の上に定着できているのだ。見ていて心がすっと楽になったのだ。

 恋の時間愛の時間何にも追われない時間。俺が忘れたものたち。

 飯島都陽子『魔女の12ヶ月』読む。月ごとの、伝承やハーブの物語と、レシピや手仕事を紹介。魔女という名称だけだと、何だか怖いイメージがあるが、この本では実生活にも役立つ知恵も教えてくれる。本物の魔女がいたとして、彼女たちも薬効のあるハーブティーで一息いれていたのかも。

穂村弘『ぼくの宝物絵本』読む。歌人の著者が会社員だった頃、忙しくて自分の時間が取れなかった。そんな時に出会った絵本は、彼を様々な世界に連れて行ってくれた。絵本の紹介でもあり、彼にとっての絵本の魅力について語っている。それは、怖さ。めでたしもいいけれど、死の予感。誰かの生活を感じる

たなと『あちらこちらぼくら(の、あれからとこれから)』温かみのある終わりも好きだけど、続きが読めるのは嬉しい。ゆっくりと仲良くなった二人の、ゆっくりと進展する共同生活。細かい心理描写はキャラの存在と魅力に説得力を与える。たなとの漫画はめっちや読むやすいのもすごい。繰り返し読むぞ。

『知っておくべき四つの価値 宝石の常識』読む。宝石や鉱物の本って、割と似たような内容になりがちだが(それでも楽しいけど)、この本の色の価値基準表というのはとても分かりやすくて良かった。普段宝石を見ないし見られないから、同じ宝石にもこんなに違いがあるのかって気づくことが出来る 

 俺は決して手に入らない宝石も、数百円で買えてしまう宝石(原石、クズ石)も好きだけれど、等級の差、似たような宝石でもプロから見たら差があるというのを写真で見せてもらえるのは刺激的だった。

 最近喫茶店やお菓子のレシピやら鉱物やら、とにかく小説を読まずにさらりと読めるものばかり読んでいる。小説を書こうとしていると、誰かの小説に向き合えるような体力や集中力がない。とかいって、単に仕事でへとへとになっているだけなのだけれど。

 しばしば、自分が駄目で、もっともっと駄目になっていくのだと考える。たまに、誰かの何かの輝きや展望に目を奪われる。俺の凝り固まった思考や行動を改めてくれる。

 そういうことにしておいて、と何度でも思う。

まぼろしに目を見開いて

 新しい仕事で、帰ったらへとへとになって、頭を使う本なんて読めない日々。前に進むというよりも、ひたすら我慢してしのごうとする日々。そんなのがいいなんて思えないし、嫌でたまらなくって、逃げだしたくなる、逃げてばかりの俺の人生。

 楽しいのは、きっと本の映画のカンバスの中の世界だけ。

 なんてことを感じてしまう。間違ってはいないかもしれないけれど、生活をないがしろにしては、何も進められない。ただ、疲労に負けて過ぎ去る日々。

 でも、先日半年ぶり位に美術館に行った。それだけで、少しだけ自分の気持ちに変化を感じた。

 混んでない。嬉しい。三菱一号館美術館『画家が見たこども展』に行く。ボナール、モーリス・ドニナビ派の画家達の作品が多い。単純化した表現で、こどもの魅力を捉える。ジョルジュ・ラコンプ 木彫りのシルヴィの胸像 がとても良かった。赤木に少女の生命力を感じる

 展示で見られる作品は、子供というテーマで集められたからか、身近な存在への温かい眼差しを感じるものが多かった。誰かの作品を目にすると、気持ちが軽くなる。誰かの力が、俺にも流れ出すような心持になるのだ。

 画集で十分なんて感じるものもあるけれど、やっぱり現物を見るのって大切なことだ。情報量が違う、ということ以上に、誰かの熱情の結晶、作品を見るって大切な機会だ。

 ずっと、コロナやら金欠やらで外(のイベント)に出られなかった。ずっと辛さだけがたまっていって、駄目になるのかなあ、誤魔化さなければなあ、ってそれだけの生活。でも、美術館とかに行ったり、誰かに会わなくっちゃ。そうやって、まあ、悪くないんだって思わなければ生きていてもしかたがない。

 雑記。最近は軽く読める本ばかり読んでいた。感想を書く必要も感じない感じのばかり。でも、それでも本は本、読書は読書だ。本がない生活なんて、怖くって考えたくない。

まぼろしの奇想建築』読む。構想されながらも幻と消えた建築の数々を紹介。建物や都市を作るのは途方もない金や時間がかかるから、個人の力ではどうしようもないこともあるだろう。実際には作られなかった風景だが、それは実在の建築のイメージや、漫画映画の中で生きている。永遠に未来の風景。

ディック・ブルーナ ミッフィーを生んだ絵本作家』読む。アーティストを志しながら、デザイナーとして働き、才能を開花させたブルーナマティスドミニコ会修道院のデザインに強い影響を受けたという。紙の切り抜きというシンプルな手法。ブルーナの絵本も、人に伝わるセンスと暖かさがある。

高峰秀子 松山善三『旅は道づれ雪月花』読む。一線で働き続けた二人が老年に入り、のんびりと豊かな旅行をする。美術館で絵を分からないという人に、高峰がピカソの引用をする。
「すべての人が、絵画を理解したがっています。それではなぜ、小鳥の歌を理解しようとしないのでしょうか」

YouTubeのオススメに出てきたので、公式の少女革命ウテナの1話見た。すごく良かった。切り絵のような作画は全然古く無くて、異世界感が素敵。十年以上前に漫画読んでサントラもiPodに入ってるのにアニメ見てなかった。絶対運命黙示録って1話から流れるのか!って、なんか変な感動をしてしまった。

『世界の鉱物・岩石・化石・貝大図鑑』読む。写真が多く、見開きごとに一つのテーマ、鉱物を紹介していてとても分かりやすい。サファイアの小石、ジェードの埋葬服、アメシストのバスタブ、琥珀の象……見ているだけで物語の世界のイメージがわく。

たなと『スニーキーレッド 3』読む。とても好きな作品なので、また続きが読めるのが嬉しい。三崎さんのおもいやりドエム盤石。1巻から読んでると、ハルの変化に驚き&ほっこり。ラストのハルの心の声可愛すぎる。登場人物の幸福な日常が続いていくんだなって思える、ほんわかした一冊。

森山大道 写真集『tokyo』読む。東京駅銀座新宿渋谷上野秋葉原……有名過ぎる東京の観光スポットめいた場所を、モノクロのインパクトのある構図で捉える。最初は今更、こんなベタなのを見てもなあ、なんて感じていたが、続けて読む進めていると、改めてこの人は凄いと感じた。21で上京して、

60年東京に住んだという森山。しかし、未だに東京が分からずに撮り続けているという。変わらない東京、ではなく、森山の中の憧れ、幻想のフィルターがかかった東京。町は少しずつ変わっても、森山大道の東京への高揚は変わらないのか。老年の彼が、こんなにも変わらない写真を撮れている熱意に敬意。

スパンクハッピー 夏の天才
やくしまるえつこ summer of nowhere
go!go!vanillas サマータイムブルー
パリスマッチ アルメリアホテル

夏の曲は好きなのが多い。でも、今年の夏は例年よりもさらに嫌な夏だ。もう少しで、夏が終わりそうだけど、いつかこんな夏もあったなんて思い出すのかな。

アイドルマスターの全話と映画を公式が公開してたから、数年ぶりに全部みた。見終わって、懐かしい曲やら765声優の動画とか見てた。普段アニメをあまり見ないのだが、アイマスは本当好きで楽しめた。曲がいいのもそうだが、キャラクターの成長がぐっとくる。何より、制作者や声優の愛が伝わってくる。

きれいな昆虫、海月、金魚を集めた三冊の本を読んでいた。最近の写真集は、とてもセンスが良く、見ていてたのしい。でも、昆虫のは途中で無理だと思ってしまった。画面いっぱいの昆虫は、見ているとざわざわする。海月も、脳味噌やエイリアンみたいなのは苦手。金魚は平気だが、ずっと目玉を見ている

と不安な気持ちになる。俺が過剰反応しているだけ、というのはあるだろうが、動植物を見たときに魅力と不安・不快が入り混じる時があって、自分の感覚だけど不思議だ。ぱっと見ではいいなって思っても、だんだん不安な気持ちになる。鉱物を見てもならないのにな。

 最近、新しい小説の骨子を夢想しながら、なんとか形にできたらと思っている。その為に、動植物や鉱物の本を読んでいる。綺麗なあれこれ。お金が、生活力がない俺は、そういうのを気軽に手に入れることができないけれど、本のおかげでとても助かっている。でも、本当は「欲しい」なら、手に入れた方がいいんだけどね、分かってるんだけどね。

 そうは思っても、俺には俺の生き方しかない。すぐに疲れてキレて嫌になる、うんざりする身体と精神。でも、その代わり、夢想することには向いているのかもしれないし、そう思わないとやってられない。

 書き上げたから何か変わるという訳でもないのに、小説を書いていないと不安で仕方がない。きっと、生産的な行為が全然できていなくて、生活も綱渡りだからだろう。

 制作の欠片を見つける為、誰かの幻想に現実にある物体の豊かさに身を任せる。それは怖くて疲れることだけど、それなくしては何も生みだすことはできない。目の前の非情でげんなりする現実よりも、まぼろしに目を見開いて。

 

まるで祈りの様に。

アスファルトの上に転がる、蝉の死骸を見た。今年初めて見た蝉だった。穴が空いた身体には、片方の羽根しかなく、それが強い光を浴びてきらきらと輝いていた。

 

新しいことをしたい。しなければ、駄目になってしまうかもしれない。そういう強迫観念なのか、逃避願望なのか、この状況と新しい仕事でかなりまいってしまっていた。

 一日の内に何度も気持ちがぐらつくし、平穏、とかいう言葉が遠い。それを手にする為に、頑張らなければと思うのだけれど、上手くいかない日々。でも、ふとした瞬間、それなりに悪くない気もするのだ。

 形にはなっていないが、久しぶりに気軽な短編小説を書こうと思ったから、そのアイデアが出たからか。それとも、誰かの本を読んで感銘を受けたからか。

 そういう短い時間は、夢を見ている、夢の中にいる気分。夢は脆く、すぐに覚めてしまう。夢の幻想の創作の現実逃避のことばかり考えていると、社会で生きていけるはずがない。

 なのに、どうしようもない夢を見るため、それに血肉を与えられるように願う。

 雑記。

アンナ・カヴァン中短編集『草地は緑に輝いて』読む。幻想、SF、随筆風等多彩な作風の中に共通するのは、不安と恐怖。妄想か、過剰反応か、現実か。それからは決して逃れられないのだ。執拗な、作者のオブセッションに読み手も包まれる。それでいて、愛らしさや美しい描写もあるのだ。

 正直言って、彼女の小説を読むのは結構疲れる。俺も、逃げ出したいし恐ろしい何か、から逃れられないと感じているからだろうか。

 『氷の嵐』の引用 アイス・ストームに襲われた後の、氷を浴びた街を目にする主人公。

「木々は美しいと同時に恐ろしかった。わたしは木々を怖がるまいとした。神様お願いです、どうか自然界のものにまで恐怖心をいだかせないでください。恐ろしいのは人間の世界だけで充分です……。」

『骰子の7の目 2巻 ハンス・ベルメール』読む。かなり久しぶりに見た彼の作品集は、淫猥さやグロテスクさよりもずっと、身体が持つ質量の奇妙さを感じさせた。緻密なデッサン力から生み出される奇怪な身体。そこには探求と喜びがある。人間の人形の身体は、不思議だ。それを鮮明に示している。

本江邦夫 監修『抽象絵画の見かた』再読。作品や作者への理解が深まる、分かりやすい手引き。抽象絵画というのは、好みが分かれる。つまらない落書きや、似たような画家の模倣に見える物もある。しかし、それらの中には確かに美しさが、秩序が存在するのだ。好きな画家の作品に気軽に触れられる良書

 久しぶりに出会う、バーネット・ニューマン、フランク・ステラ、クリフォード・スティル。スティルは生で見たことがないと思う。見てみたいな。

 本江邦夫、先生は俺の学校にも教えに来ていた。彼の授業が一番面白かった。熱意がある先生というのは、どの人も素敵だと思う。たまに、また大学や何かの教室に行きたいなと思う。勉強がしたい。でも、お金の問題でそれは叶わないだろう。それを思うと、自分の甲斐性無しや金銭を稼ぐ能力のなさ社会性の無さにうんざりげんなりする。でも、そのおかげで、たまに、輝かしい愚かさを見る力を育んでいるのかもしれない。

ぼんやりとした頭で、ALI PROJECTの令嬢薔薇図鑑を聞きながら、森茉莉の『私の美の世界』を再読していた。しばし、現実を忘れる。森茉莉の、卵料理の描写が一等好きで、卵料理の文章を世界一上手く書ける人だと思う。バターではなく、バタ。と書くのがとても好きだ。

ジャック・タチ監督『ぼくの伯父さんの休暇』また見る。この映画の滑稽でのんびりとした時間は、俺にとってもバカンスみたい。ドタバタコメディでありながらも、ユロ伯父さんは飄々として押し付けがましくない。モノクロの南仏での生活は、微笑ましく、開放的で、ゆったりと流れている。

監督エルンスト・ルビッチ他オムニバス映画『百万円貰ったら』見る。巨万の富を築いた男は死を向かえようとしているが、財産を譲るべき人間がいない。電話帳で選んだ人に100万ドルの小切手を送る。馬鹿らしいコメディもあるが、辛い展開も多い。様々な境遇にある市民がいきなり大金を得てしまう

というのは、人生を大きく変える要素だ。生活が激変する者もいて、映画を見る観客としてドラマチックな展開は面白いのだが、そこまで変わらない、変えられない人間もいるのだ。基本コメディ映画だが、辛い展開も多く楽しめた。オムニバス映画としても、優れていると思った。

ダイアン・アーバス作品集』を読み返していた。彼女の写真に心地良さを覚えるのは、被写体と同様に、彼女もチャーミングな人だからだと思う。人間が、他者が、不思議で間が抜けていて魅力的な面を知るのだ。目に見える物はどれも異質なんだ。彼女はそのよく分からないものに敬意を払い、捉えている。

高峰秀子のエッセイ『コットンが好き』再読。5歳から親の都合で映画界にいた高峰の、晩年のエッセイ。彼女のエッセイは飾らなさや謙虚さや芯の強さが読んでいて心地よい。二十四の瞳の、百合の弁当箱の話や友人の越路吹雪の死を悼む言葉は再読しても胸にくる。身近な、愛おしい物、人。大切な記憶。そういうのを感じられるなんて、とても豊かなことだと思う。

『世界をまどわせた地図 伝説と誤解が生んだ冒険の物語』読む。偽物の地図、存在しない国や怪物等が収められた楽しい一冊。希望や誤解や詐欺により生み出される、悪魔の島や黄金の国。オーストラリアには内陸海があった? 一番すごいのが、架空の国をでっち上げ、土地の権利や紙幣を作った詐欺師

映画『BOY A』見る。少女を殺害した(関与した)少年。彼は14年の刑期を終え、新しい名前を得て世に出る。ソーシャルワーカーや友達の助けを得て、彼女もできる。まっとうな生活を歩む彼。しかし。展開は予想がつくのだが、見ていてキツかった。主演のアンドリュー・ガーフィールドの演技がとても良かった。不器用で過敏な様を上手く表現していた。


加害者を許すことができるか、というのはとても難しい問題だ。この映画の主人公は、十分同情できる点がある。でも、彼を「殺人者」として晒し者にしたい人々を、正義の暴走とは言えない。ただ、許すのは、理解するのは困難という現実があるのだ。

 俺は、この映画の主人公は許されてもいいと思った。でも、凶悪殺人犯が少年法に守られて極刑にはならずに、十数年後には社会に出る。という文だけ目にすると、そう軽く考えるのは無理かもしれない。

 人を許すのも、他人に寛容になるのも難しい。過去も忘れるのは断ち切るのは難しい。でも、生きている人間は、明日を、自分のこれからを信じなければ歩いていけないのだ。

 俺はしばしば、自分の過去や未来が明るくないから、不安に依存し、自棄になり希死念慮に甘える。それしか方法がないのだと思い込み、まあ、実際そうなのかもしれないが、それでも、愚かな輝かしさを育む術を知っていて、それは他者の生き方や作品によるものだ。感謝する。誰かに感謝できるなら、まだ生きていけそうな気がする。

 精神的に不安定だと、誰かの言葉に作品に触れられない。ひたすら逃避するだけで、時間と体力を浪費する。それでも、本が、誰かの何かが救いになる。光を日常を思い出す。まるで祈りの様に。

下手くそでも、調律師の気分で

新しい仕事が始まった。慣れない肉体労働と、この終わりが見えない状況で、メンタルはかなりグラグラだった。でもさ、働かなきゃ生きていけないんだ。でもさ、働いて頭が駄目になったら、生きていることを見失っちゃうんだ。

 多分俺は人よりずっと、小さなことに過剰反応して疲れて逃げ回ってきたのだろう。そのツケを、払うことになっているのだろう。

 頭を使う本なんて、ほとんど読めなかった。一日のうち、本を一度も開かなかった日もあった。でも、本がなければ生きられないんだ俺。悲しみや不安にチューニングを合わせてしまう俺。だからこそ、自分から楽しさに喜びにアクセスしなくっちゃ。何度だって忘れる。でも何度でも思い出さなきゃ。俺の人生俺が感じたこと見てきたこと、悪くない、悪くないんだって。

ソライモネ『88rhapsody』読む。表紙見て、あれ?あびるあびい先生?と思ったらpn変えてたみたい。バンドマンの恋物語なのだが、すごく良かった。ポップな絵の魅力、長髪バンドマンかっこいい。上手くいかない生活があっても、登場人物がとってもキラキラしている。作者の愛が皆に降り注いでる。

 この人の漫画は何冊か持っているのだが、どれもこれも登場人物が魅力的だ。主役だけではなく、わき役も。登場人物が生きている、暮らしている感じがする。どういう物が好きで嫌いで、どういう癖があってどういう人生を歩んできたのか、みたいなバックグラウンドを感じる。人はみんな違う、けれど(漫画に出てくる人は)魅力的だ、(物語に登場するなら)魅力的でなければ、引力がなければならない。そんなことを感じる。作者の愛で、キャラクターが動くんだから。

何故か『ユリトロ展』のカタログを見ていた。前は彼の良さが分からなかった。今もかもしれない。だが、彼の街を描いた絵は、俺が新宿や繁華街に抱いている感情と近いような気がした。こちらがどう思っていても、街は人間によそよそしいのだ。街の中では誰もがよそ者になる。それは多分切ない幸福。

五十嵐豊子 絵本『えんにち』読む。いつもの街が『えんにち』になっていく光景、縁日で楽しむ人々が描かれる。ほぼ文字がない絵本なのに、えんにちの楽しさ、息づかいが伝わってくる。子供の頃にワクワクした光景が、絵本の中にあった。

アンドルー・ラング再話 エロール・ル・カイン絵『アラジンと魔法のランプ』読む。魔法の力で起こる様々な、驚くべき奇跡の連続。それを絵にするル・カインの画力が本当に素晴らしい。手描きの幻想の世界は細密でありながらも、どんな場面か分かりやすく魅力的だ。

ル・カインの絵本はどれもこれもすばらしいけれど、その中でもかなり上位に入るのでは、と思う位に画が良かった。魅惑のオリエンタル、ファンタジックな東洋の魅力がつまっている。恐ろしくって奇妙で、惹かれてしまう世界。彼の画は細かく描かれていても、デザインとしてすっきりしているのが大好き。細密画の類は「見やすい」という点がとても重要だと思うのだ。

フェリーニ監督『オーケストラ・リハーサル』見る。いかにも人間くさい自由な人々のドタバタ喜劇。だけど俺がフェリーニ好きで期待が大きかったからか、今一つといった感じ。映画の時間も短いし場面も実質礼拝堂の中だけだし。フェリーニの映画は観客を圧倒するパワフルなのが魅力だと思う。

アイマスのライブに行って、地獄のミサワが感動する、という内容のツイッター漫画を読んだ。ゲームのファンだけど、声優のステージはなあ……からの感動、というのはよくある話なのかもしれない。でも、彼が本当にアイマスのステージに感動しているのが伝わってきて、とても良かった。

 俺はアイマスの緩いファンで、ゲームもcdも持っている。特別な推しキャラはいない。アイマスというコンテンツが続いているのを、陰ながら喜んでいる。その程度のファン。でも、誰かが誰かを感動させているという光景は、とても美しい物だと思う。そういう感受性って、本当に大切だ。

新しい、何かに感動できるような自分でいなきゃなって思う。体力気力お金がないとそれは結構難しい。でも、他者に感動できない人生なんて、つまんない。

生田耕作訳 ピエール・ルイス『女と人形』再読。カーニバルの喧噪の中、魅惑的な女性に惹かれたフランス人の青年。しかし彼の旧知のスペイン人が彼女の正体を暴露する。愚かな男と悪徳の女の愛憎劇。或いは怖ろしくも愚かしい喜劇。話の筋は単純だが、恋で身を滅ぼす残酷さと恐ろしさを堪能できる。

ウンベルト・エーコ『醜の歴史』読む。著者によって集められた、膨大な量の『醜』のカタログ。当時、醜さ恐ろしさを意図されたものが、現代人(俺)から見れば魅惑的な物に変化する。美は、美しい平均。醜は、歪み、はみ出し。美と醜は、案外簡単に反転するのだ。美に魅了された者への良いカタログ。

『家のネコと野生のネコ』読む。様々なネコの図鑑。素晴らしい写真が豊富だし、生態についてもきちんと書かれている。家も野生も、少し違うけど魅力は同じ。猫の写真というだけで素晴らしいので、あまり言うことがない。ページをめくる度に出会う猫に、ああ、いいなあと思うのだ。

美の壺 櫛』読む。俺は二十代の頃ずっと長髪だった。たまに、嫌味を言われたし、仕事も限られたが、長髪が自分のアイデンティティだった。俺が独り暮らしをする時、「苦労を分けるから本当はあげない方がいいけど」と言いながら、母が黄楊の櫛をくれた。母は俺の長髪を嫌っていたはずなのに。

 ずっと大切に使っていたのに、家でしか使っていないのに、無くしてしまった。今も後悔しているし、何でなくなったかも分からない。今は短髪で、櫛なんて必要がない、でも櫛は好きだ。

 新しい生活が始まっている。状況が良くならないまま、色々な問題に立ち向かわなきゃいけないのは、結構ハードだ。俺は気分の変調が激しいので、一日の内に何度もぐらつく。

でも、やんなきゃな。何かに触れられるように。できれば、新しい何かを生み出せますように。

うつろびともひとがたも、みんな友達

 新しい仕事が決まった。不安が色々あるし、いつまで続けられるのだろうか、なんて、始める前から考えている駄目な俺いつもの俺。でも、やらねば生活が終わるんだよなーとりあえずあまり暗いことばかり考えるのは止めよう。

 そういう風な考えがいい、とおもってはいても、東京の今の状況がとても悪く、これが改善されるということは考えにくいから、ちょくちょく具合が悪くなる。

 てなことを、ここ数ヶ月書き続けている。自由に、ふらりと外に出られない、何かのイベントや美術館とかに行けないってことがこんなにもストレスになるんだって、前までは気づかなかった。嫌なことに底なんてない。元気がないのは通常のことだけれど、そこばかり見るの、止めなきゃな。って、止めるのは無理だと思う。だから、別のことを考える時間を。何かを読む、作る時間を。

 久しぶりに次の小説を書くアイデアが浮かんできた。色々資料やら幻想の肉付けやら骨組みやらをぼやぼや考えていきたい。作り上げたものが何にもならなくても、俺は俺の小説が好き。そんな小さな幸福で生きていられるんだ、案外。そういうことにして。

 雑記。ここに書いていないのも読んでいることを思うと、本、結構読んでるなあ、俺。

岩合光昭『ネコを撮る』読む。動物写真を撮るのが抜群に上手い著者による、ネコとの対話記録。技法的なことも書いてあるが、それよりもシンプルな話、猫の性格や生態を知ろうとする、街を歩く、猫の生活に入り込む。構図も重要だが、被写体への理解と、忍耐、楽しみが伝わる本。猫を尊重しているのだ。

生田耕作訳 マンディアルグ短編集『燠火』再読。悪夢から覚めても別の悪夢。淫靡と嗜虐に糖衣を纏わせ、わりと読みやすいのにおぞましく、素晴らしい短編集。宝飾や少女や怪奇に眼を奪われていると、いつの間にか無数の刃で貫かれているのだ。悪鬼を育む幸福。

ぱっと見て惹かれ、中身も知らずに購入した『モダン図案 明治・大正・昭和のコスメチックデザイン』がとても良かった。舶来品への憧れや日本独自の浮世絵や叙情画により生まれた、懐かしさと品のあるデザイン。くすんだ硝子瓶や痛んだパッケージすら愛おしい。宝石箱を集めたような一冊。

 昔の化粧品、ってとても惹かれる。自分で使いたいというわけではなく、「きれい」や「あこがれ」といった、美に対する夢がつまっている感じがとても好きだ。単に硝子瓶が好きなのも大きいけど。デザインに花が多いのも俺的には好きなポイント。

ロオデンバッハ『墳墓』読む。短い散文と、『死都ブリュージュ』等を手掛かりとした著者の評論。何故彼はこんなにも墓や死に固執し美しく飾るのだろうか。愛の幻想を留める為なのか。彼は死を嘆きながらも恐れてはいないのか

「すべては虚偽と無益となる中に唯「死」のみは真実なのである」

ロジェ・ヴァディム脚本『恋するレオタード』見る。バルドーと親友の少女はウィーンの声楽学校に通う。そこの音楽教師のジャン・マレーに二人は恋してしまうが、彼は別居中の妻帯者で浮気者。愛に振り回される、二人の少女の成長を描く。若いバルドーが妖精のようなかわいさ!親友やマレーも魅力的。

 邦題からセクシーなラブコメと思いきや、愛が大切な少女の成長物語になっていて楽しめた。バルドーとは対照的な親友の女の子(清楚でかわいらしい)にもスポットライトが当たっているし。

小川三夫『棟梁』読む。徒弟制度、共同生活を送る宮大工の半生とその言葉。エゴの塊の表現者ではなく、集団で1つの物を作る職人の言葉。

木は一本一本違うし、人も一人一人違う

言葉で教えられないから弟子に入ってくる。

人は育てることはできないが、環境さえ準備してやれば学び育っていきます

 俺は集団生活とか子弟制度とか無理だけど、職人の人に憧れというか敬意を持っている。同じこと(のように素人には見える)を繰り返し行う人って、やっぱ好きだ。芸術家という名前のエゴイストに比べて、職人は与えられた仕事を全力でこなすぜって感じがカッコイイ。芸術家も、一部はすごく好き。

原作 マンディアルグ 挿絵 オーブレー・ビアズレー 翻訳 生田耕作『ビアズレーの墓』再読。怪しげな帳の中を覗けば、残虐と豪奢、奇怪と乱痴気。数多の宝石が輝き、弾け、滅する。サディスティックな饗宴の当事者になるのは、おぞましくも豊かだ。
「罪のない快楽はわたしの好みにあいません」

『コオリオニ 上巻』と『悪魔を憐れむ歌 4巻』、主人公(たち)が暗闇の中をバイクで走るシーンがある。どちらも見開きで、暗闇の中、バイクは光の尾を放ちながら進んでいる。とても美しいのだ。電子版の良さもあるけれど、ページを開いたら暗闇(見開き)で、主人公が一瞬光になるなんて、辛くて綺麗だ

 見開きの感動って、漫画を読む幸福の一つだと思う。特にコオリオニで佐伯さんがバイクに乗るシーン、好きすぎる。というか、コオリオニは本当に好きで、一時期毎日読んでた位。作者の梶本レイカが今も制作を続けていると言うのは、読者としてはとても暖かく有難いことだ。

 プロでもそうでなくても、何年も何十年も続けるって、困難で素敵なことだ。

市川雷蔵主演『妖僧』見る。厳しい山嶽仏教の修行に耐えた道鏡は、法術を得る。そして女帝の病を治し、二人は恋仲になるが……
僧侶と女性天皇の(禁じられた)恋ということで、芝居の動きや言葉は抑えられ、落ち着いた画面が多い。モノクロの映像も合っている。長髪に髭の雷蔵が新鮮!

 市川雷蔵好きだけど、俺はチャンバラ映画が好きではない……途中で必ず飽きてしまう……なので、彼の出演作はあまり見られていない。ちょいちょい、見ていきたいとは思っているけど。

『パリの小さな美術館』読む。美術館というのは、どこも素晴らしいと思う。邸宅や修道院を改装したとか大好き。特にギュスターヴ・モローが自邸を公開したのは見てみたい。習作や未完成品もあり、若き芸術家に全てを見せたかったらしい。誰かの作品に想いを馳せる時間は、豊かなものだ。

ロジェ・グルニエ『写真の秘密』読む。戦場や報道に身を置いた作家、カメラと共に歩んだ人生と写真。スーザン・ソンタグダイアン・アーバスボードレール、ナダール、ウィージー他の発言。作家や芸術家にとっての写真という神秘、発明について語られており、読み口は軽やかだが、読み応え抜群! 以下引用。

15p スーザン・ソンタグの考えでは、「写真は、愛する存在やモノを、もっとも単純なかたちで、置換によって所有することを可能にしてくれるのであり、この所有行為が、写真に、唯一のモノのいくつかの性質を帯びさせる」という。

69p(ウィージーが)「三流の新聞雑誌にとっては、殺人犯の女たちが美形で、見た目がいいことが大事なんだ」というのだ。ウィージーにとっての飯の種である、ニューヨークの歩道で殺されたギャング連中について、彼はこう告白している。

「ときには、あまり画面に血を見せないようにと、レンブラント風に、横からの光を使って撮影していたんだ」

76p 写真撮影が不可能な場合もあるものの、そんなときでも、ちょっとしたテクニックで、泣き悲しんでいる一家に一枚撮ってくれるように頼むことだってできた。

 マグナムの有力メンバーであるインゲ・モラスは、「やましさなしに写真を撮れるということが、わたしにはわからなかった」と告白している。

 彼女はマグナムが好きで、50年代のことを、なつかしさをこめてこう述懐している。「あれは、すべてが芸術になる前の、報道カメラマンであることが幸福に感じられる時代だったのです」

132p ナダールは、だれもがそんなふうに「芸術家」になれるはずがないと、はっきりわかっていたのだ。

「写真の理論など、一時間で覚えられる。写真の基礎知識も、一日あれば学ぶことができる。学ぶことができないのは、光の感覚であり、さまざまに組み合わされた光によって生み出される効果を、芸術的に判断することなのだ。またもっと習うのがむずかしいのは、対象を精神的に理解することであり、モデルと一体になるための機転や気働きなのである。そうしたものを学んではじめて、暗室の最低の奉仕者にも手が届くような、乱暴かつ行き当たりばったりに撮った、無頓着そのものの造形的な複製(ルプロデュクシオン)などではなく、もっとも親しみにあふれ、好意にみちた、親密なる似姿(ルサンブランス)が得られるのである」

 

 

 

 この本は新聞社に勤めていたカメラ好きの(専業カメラマンではない)作家の、写真に対するエッセイ・評論で、とても面白かった。読みやすい平易で冷静な文章と共に、様々な人の写真観、美学について触れることができるから。

インゲ・モラス「やましさなしに写真を撮れるということが、わたしにはわからなかった」って言葉、好きだな。でも、写真は、報道写真は、求められてしまうんだ。

 でも、何よりも美しいか胸に来るかってのが一番だ。写真の曖昧な立ち位置は、俺を戸惑わせて魅惑する。

数十年ぶりに、『たこをあげるひとまねこざる』を読む。めっちゃ面白い。好奇心旺盛で、何でもまねっこをしてしまうジョージは、ウサギを家から出したり、ケーキをエサに釣りをしたり、タコに乗って飛ばされたり。めくるめく展開が飽きさせない。他のシリーズも読み直したくなった。

祝  真・女神転生5発売記念で、真・女神転生2再プレイする。メガテンや派生シリーズ全部好きだけど、初期メガテンディストピア感絶望感狂おしいほど好き。たしか悪魔絵師金子は、女性キャラでは真2のベスが一番好きって言ってた。自分「メシア」のために生み出された戦闘美少女。胸キュン。

ロジェ・グルニエ『夜の寓話』読む。戦争を経験した新聞記者である著者の、私小説のような短編集。或いは、フィクションを元に「記事」として再構築した感がある。脱走兵や焼身自殺等ショッキングな題材もあるが、あくまで筆致は淡々としている。記者の眼差しで記録された記事。少しの感傷とユーモア。

渋谷Bunkamuraギャラリーの壁に、世界こども図画コンテストの絵が展示されていた。こどもの絵って見ていて楽しいな。思ったものを、どばーってカンバス(白い紙)にぶつける感じがする。エネルギーと自由さ。きっと、描いてる子供も、楽しくって仕方が無いんだろうな

海野弘 監修『北欧の挿絵とおとぎ話の世界』読む。雪に閉ざされ、日照時間が短い白の世界。北欧神話キリスト教化によって異端と見なされ消えていった。しかし、おとぎ話は19世紀半ばから注目され、再生される。美しい絵や温かみのある絵が沢山収められた、幸福な一冊。

ルネ・ドマール著 建石修志 画『空虚人と苦薔薇の物語』読む。著者が死んでしまった為未完になった、至高の頂を目指す『類推の山』の話中話。不思議な双子とうつろびとの幻想譚。未完の為、決して辿り着けない『類推の山』の不可侵さと、奇妙で美しい調和を見せる。建石の画も題材にぴったりで素敵

巖谷國士 著 宇野亜喜良 絵『幻想植物園 花と木の話』読む。身近な植物や記憶の中のそれらを、暖かな眼差しで綴る。宇野の挿絵も可愛らしい。霞草は、英語ではベイビーズ・ブレスだって。かわいい。ベルニーニのアポロンとダフネは、小さなモノクロ写真でも伝わる迫力!本物が見たい。

ロジェ・ヴァディム監督『バーバレラ』見る。高校生の時に小西康陽のコラムで知って、見たいなと思いつつ、十数年! 期待通りのアホエロsfだった。ジェーン・フォンダの健康的なセクシーさが全て、と思いきや、背景や映像もサイケデリックだったり昔のsfの手作り未来感がある、奇妙な魅力の作品。

泉鏡花 著 中川学 絵『絵本 化鳥』読む。若い子にも泉鏡花の世界を、ということで、絵本に原文もある豪華な一冊。動植物の尊さ美しさを知る少年と、優しい母親の幻想的な話。日常を感受性の眼で拡大する少年。著者に重ねて見えてしまう。最後の文章は、優しく切ない。幻を信じるには愛が必要なのか

東雅夫 編『澁澤龍彦玉手匣』読む。テーマに沿って澁澤の短いエッセイを集めたアンソロジー。澁澤は仕事が多く、書き散らしたような物も見受けられるのだが、この本に収められているのは、ペダンチックディレッタントで己惚れ屋で愛らしいドラコニア、王子様の姿。編者の愛と敬意を感じる一冊。

 

 寝転がっておなかにカワウソぬいぐるみ置きながら本読むの幸せ。
本物触りたくて、カワウソカフェ検索したらあった。かわいい。でも、カワウソは不特定多数に撫でられてストレスにならないのか?と思うと行けない……(動物カフェを否定したいわけではない)あー動物撫でたい……

 泉鏡花マンディアルグボルヘスとか最近わりと読んでいるかもしれない。幻想文学、というジャンルがあるとして、それらの素晴らしい作品はどれもしっかりとした骨子がある。また、何よりも愛やフェティッシュや執着が必要なんだなって分かる。

 一人で鬱々として、元気を出してなんとか本を読む、なんて生活だと、元々朧げな愛をすぐに忘れてしまう。本の中でも人形でも人間でも、愛をオブセッションを忘れないようにしなくっちゃ。

 好きな物を好きだっていってないと、忘れてしまうからどうでもよくなってしまうから。幸福な時間の為には、誰かを好きでいなければって、何度も思う忘れる思い出す。

君が迷妄を払い迷宮に誘う

今年に入ってから何か月も、状況は悪いまま、ってことばかり書いていて自分でもうんざりしてしまう。でも、改善されないどころか、もっと悪いことになっている。仕事は決まらないし、たまに入るやつだって、この状況かで激減している。

 おまけに多額の保険料の支払いやドライヤーは壊れるし、冷蔵庫から水が出て、一応応急処置はしたはずなのだが、普段しなかったはずの異音が頻繁にするようになる。

 金ばかりが出て行く日々。気分が良くなるわけがないのだ。かなりまいっている。

 でも、落ち込んでばかりいるとさらに状況が悪くなるだけだ。ぬるい地獄に底なんてない、どんどん落ちて行くだけ、ならばその最中に読書等。

アクセル・ハッケ『クマの名前は日曜日』読む。日曜日の朝に僕のベッドにやってきた、クマ。名前は日曜日。僕らはいつも一緒の親友。なのに、クマは何もしゃべらない。
ある日、僕はクマになる夢を見て……
ユーモラスで可愛らしい物語。絵もとってもかわいい。

安野モヨコ 選・画『晩菊』読む。太宰、谷崎、芥川、森茉莉他、文豪が描いた、女性が主役の八つの短編を集めた一冊。小説もそうだが、安野モヨコの挿絵がとても良い。こういう漫画家がテーマに沿って古典作品を選んで絵を添える、みたいなのはとても良いと思う。他の人のも是非見たい。

小説や音楽ならアンソロジーって結構あるけど、漫画家が漫画を集めた一冊って中々ないかも。それを思うと江口寿史責任編集(だった)コミックキューって凄く豪華で素敵な雑誌だったなー。漫画家が好きな漫画を集めた本が読みたい。

ホウ・シャオシェン監督『黒衣の刺客』見る。唐時代の中国、女道士に預けられた少女は暗殺者になっていた。狙うはかつての許婚にして、暴君。台詞が少ないのに、固有名詞の多さと説明不足で、どういう場面か非常に分かりづらい。でも、映像や構図、美術がとても良く時間の流れが緩やかで優雅。

『ウォーハウス夢幻絵画館』読む。スキャンダルや貧困等とは縁のない生活を送ったらしく、資料も少ないそうだ。ラファエル前派に近しい画風の彼の作品しか知らなかった、でもそっちの方が好みだ。彼好みの、似た容姿の美女。力強さと憂いを帯びた女性達が、神話や詩文を再現する様を堪能できる

 この人は描く女性の顔がかなり似ていて、同じモデルで全ての画を描いたと言われても信じてしまうほど。好みのミューズを舞台に上げるタイプの画家。好きなことが、フェティッシュがあるというのはいいことだと思う。

泉鏡花原作 宇野亜喜良 山本タカト画『天守物語』読む。画集と言ってもいいくらいに、画が多い。泉鏡花の優雅で怖ろしい怪奇に、山本タカトの淫靡で蠱惑的な挿絵が相性良すぎる。しばしば手が止まってしまう、幸福な一冊。

アクセル・ハッケ『僕が神様と過ごした日々』読む。ある日神様に会って不思議な体験をする。よくある話ではあるが、ユーモラスで面白い。神様は言う「人間は神様と向き合うふりをしながら、結局のところ、自分自身と話している(略)自分たちのイメージする神だけが大事なんだ」って台詞は俺も同感

『怪異幻魚譚 釣魚の迷宮』読む。谷崎、澁澤、岡本かの子他。日本は水に恵まれているからか、魚にも縁が深いのか。収録作品もそうだが、幻想的な作品は海魚ではなく川魚が主題なのばかりらしい。太宰治の『魚服記』は再読しても哀しくさらりとした美しさがある。

生田耕作発言集成 卑怯者の天国』再読。彼が好きな俺からみても、偏見や暴言が見られるけれども、この人の言葉や生き様が好きだ。芸術至上主義の偏屈男。文学や翻訳を学び愛しているからこその、厳しい言葉は胸に来る。冗談めかして、岩波書店が一番嫌い、ポルノ文学を出してないからってのが好き

ロジェ・グルニエ『黒いピエロ』読む。己の人生に失望する男が眺めるメリーゴーラウンド、幼き日を回想。何かを成さなかった男の視線だが、冷静で老成している。金持ちの友人、恋心を抱く女性、悪友、皆戦争や生活で静かに崩れてゆく。賢明で何もない主人公だけが失意のまま息をする。乾いた円環に浸る。

 これといって劇的なことが起こるわけではないけれど、人間の人生というのは、誰でもそれなりにドラマチックだ。そういうこまごまとしたことから、ショッキングな出来事まで、丁寧に、冷静に語る姿、それでいて感傷的になる主人公の姿は痛ましさと爽やかさがある。派手ではないが良い作品だと思った。

ミヒャエル・ハネケ監督『ハッピーエンド』見る。イザベル・ユペール、ジジイ、少女の演技が凄く上手い。愛と欲望と献身があるはずなのに、表面的な解決しかできない、辛い展開は映像の美しさと共に胸を刺す。人間のエゴと愛の怪物という一面を、こんなにも鮮やかに描き続ける監督に敬意を

 ハネケの映画はいつも見る者を揺さぶる。監督は意地が悪い、でも問いかけ続ける。その真摯さと、映像のうまさでついつい見てしまう。

 この映画の登場人物は誰一人として幸福にならない、いや、望む幸せにはたどり着けないと言ったほうが適切だろうか。ネタバレになるが、ラスト老人が助けられてしまうことすら、自殺を邪魔される「アンハッピーエンド」に見えてしまう。人々のエゴと愛がぶつかり合い、取り繕う。それはきっと、映画の中の複雑なブルジョワジーだけではなく、俺らも同じなんだきっと。それでも、監督は映画を撮る。生きている限り人生は続く。

 もうそろそろ駄目かもしれないとか、どうしようどうしようもない、なんて毎日のように考えてしまうけれど、誰かの生きた証が、小説が映画が芸術が、迷妄を払い迷宮に誘う。どちらにしろ迷子。迷子の人生。

錯覚を編み、蝕み夢を

さすがにここまで長引くとは思わなかったというか、思わないようにしようとしていたというか。働き口は減っているし見つからないし。まあ、選ばなければ、誰でもどこかで働けるだろうが、大抵の人はそういうわけにはいかない。でも、そろそろ覚悟を決めなきゃなってことか。

 ふとした時、心がささくれ立っていることに気付いてしまう。自分の身体や思考がスポンジのように感じられる。でも、水を吸ったその時は、いきいきとしているような錯覚を覚えるのだ。錯覚で編んだ紐の上、綱渡り芸人で生きていけたら。

家にいるべきだし、第一金が無い。でも、家にこもっているとおかしくなる。流石にこの時期は極力行かないようにしていたのだが、厭になり新宿へ。仕方なく乗り換えで利用はしていたが、新宿駅で降りたのは2,3ヵ月ぶりか? こんなに新宿に行ってないのは初めてかもしれない。

 でも特に用があるわけでもない。薄汚くも華やかな雑踏を歩くと心地良い。紀伊国屋書店の壁に森山大道のプリントがあって、元気を貰った。本とお菓子とゲームを買う。色んな店先にビニールカーテンが出来ていて、人通りや店の人の入りもまばらだった。店内ガラガラで、通りを見る店主が目に入る。二回も。街が少しずつ弱っていく、かのような感覚。そんなのは感傷だって、思う方がいい。これからの生活は不安しかないが、明日のことは明日にできたら。

アイスキュロス『縛られたプロメーテウス』再読。天界から火を盗んみ人に与えた罪で、終わりなき責め苦を受ける。永遠の苦しみとか火刑、という題材は恐ろしく、惹かれてしまう。『裁かるるジャンヌ』や自らの焼身自殺をした某国の僧侶。彼らのことが時折頭の中で映像になり、投射され、俺は陶然とする

赤瀬川源平が選ぶ広重ベスト百景』読む。シンプルかつ大胆な構図の作品は、どれもこれも素晴らしい。赤瀬川の感想・解説からは感動が伝わり読んでいて楽しい。技法や構図から、つげ義春水木しげるの絵を連想するといった話題まで、なる程と思う説得力がある。

ヒッチコック『鳥』久しぶりに見る。パニックの要素としての鳥って絶妙だなと思う。猛禽類でなければ、どうにかなりそうな感じと、集団で襲われたらどうにもならない存在。攻撃してこない鳥の群れは、いつ襲ってくるのか分からない恐怖心を生む。良く出来てるなー

辻惟雄他『花の変奏』読む。文学や絵画や行芸等の中に現れた花と日本文化についての一冊。仏教から花の意匠は生まれ、四季が花の文化を育む。九相観(死んだ人が土に帰る様)、六道絵の中で腐乱して啄まれ白骨になる様子に四季の移り変わりと花が描かれているのはおぞましくも美しい。

古今集では落花の首が多く収められているという。散ることへの嘆き感嘆安らぎ。日本人と花、諸行無常、全ては移り行くという仏教思想を感じる。それでも草花は芽吹き、魅惑する。文中に花筏(桜の花びらが集まり水面を流れる図)という俺の好きな言葉が出たが、桜は散るからここまで愛されるのだろうか

永井荷風『麻布襍記 附・自選荷風百句』読む。初めて荷風の小説を読んだのは高校生の頃で、なんとなく好きかもしれない、というぼんやりとしたものだった。おっさんになり、荷風の孤独侘しさ寂しさ優しさ、といった物が多少は身に染みてきた。孤独という病を抱えたまま生きるのは、辛い慰めなのか

赤瀬川原平が読み解く全作品 フェルメールの眼』読む。フェルメールをカメラが出来る前の写真家、と定義し、その魅力に迫る。19世紀にカメラが登場するまで、絵画はリアリズムを目指していた。フェルメールの絵も本物みたいなのだが、少し違う。ところどころ筆のタッチがずいぶん粗いのだ。

それは視覚のレンズ効果。ピント機能により、合っているとこはありありと、合っていない所はぼやけて見える。また、絵画的な人のポーズではなく、スナップショットのように人の動きを切り取る。白い歯を見せる女性の絵画なんて、昔はほぼ無かった。写真のない時代に、写真的な写実と神秘を備えている

全編空撮のドキュメンタリー映画、ホウシャオシェン制作総指揮『天空からの招待』見る。台湾の美しい自然、発展、その代償。島国で農耕と漁業が盛んで山が多く、経済発展を遂げた台湾という国は日本に似ていて、映画を見ながら日本の自然と歴史に思いを馳せる。空撮で雄大な自然を捉えた映像は圧巻

山田五郎『へんな西洋絵画』読む。現代人が見たらへんな絵画を集めた一冊。明らかに遠近法がおかしい絵や想像上の動物、超絶技巧を駆使して描かれた細密画やデフォルメの激しい身体。時代や国や作者のことを考える。落選が続いて、絶望する男なる題をつけたナルシストイケメンのクールベの自画像がツボ

 大人、というか悪鬼のような顔をした「かわいくない子供」やデッサンが一部だけおかしい身体というのは、見ていて面白い。ぎょっとするものだったり、作者の美意識を感じられる物だったり。自由に描いているんだなって伝わる

檀一雄『わが百味真髄』読む。幼い頃両親が別離し、料理をすることになった著者は報道班員となり、各国の料理にも触れる。どんな食材も貪欲に求め、調理する。自分の為、人をもてなす為。何度か太宰治の名前が出てきて、さっぱりとした仲の良さを感じる。酒飲みは優しく強引で寂しがりだ。

図書館で古い『マラルメ詩集』を借りたら、装幀がピエール・カルダン。シンプルで洒落ている。神秘をまとう優雅な倦怠或いは音の連なりのごとき飛翔。

「諸々の対象の観想、対象がかもし出す夢想から立ち昇る心象、これが詩というものです(略)この神秘を完全に駆使してこそ象徴が形作られるのです」

 マラルメ関連の本を読むと、高確率で「難解」と書かれている。それはそうとして、彼の詩についての文章は、とても詩情に溢れていて良かった。説明できないことを表現するには、詩やユーモアのセンスが求められる。批評や評論がつまらないとしたら、その分に詩が足りないからだろう。俺はマラルメの詩や、もっと言うと古典的な詩を理解しているとは思えないのだが、彼の文章を優雅だと思えるのは幸福だ。何度でも迷い、感動できる。

 とはいえ、色々と当てのない中年がいつまでも迷子というのは、心身が腐っていくのだ。みっともなく、辛いことだ。蝕みの中で見る夢よりも、健康的な状態で、明晰な瞳で物事を見ていきたいのだが、そんなことができていたかなんて子供の頃から疑わしい。

 変わらない変われないんだ大体。それでも、本は大抵俺に優しい。図書館でならタダで、俺のメモリや処理能力以上の物が閲覧できるから。こんな状況だけれど、迷子を楽しむ心を忘れずに。