けだものよ、一時の安らぎを、鎮痛剤を幻覚剤を。

かき終えた小説を見直し、応募する。俺は色々と雑なので、読み返すたびに細かい間違いに気付く。というか、大なり小なり差はあってもプロアマ問わずそうらしいんだけども。

 小説を書き終えてほんの少しだけほっとしても、それが俺に何かの余裕をもたらしてはくれないのだ。でも、俺は書く位しか楽しみがないのだ。だから書き続けなければ。

 とは思っていても、思うように書ける日の方がはるかに少なく、毎日のように書かなければとかどうかこうか等と思いながら、いらいらそわそわ

 疲れたまま、銀座で映画『ワイルドライフ』を見る。森で暮らしていた家族だが、母親が生活に嫌気が差し、子供を連れて実家に戻る。その後親権は母親へ。母親は1週間の約束で、父親に二人の息子を預けることになるが、そこから親子の逃避行が始まる。登場人物を画面中央に配し寄りのカメラで写す、という構図が続き、

見ていてとても疲れるし、辛い。幸福なひとときよりもずっと、トラブルが多いのだ。親子で罵り合い、逃避行では様々な人とも問題が起きる。ラストシーンでは泣いてしまった。人物の表情をずっとうつし続けていたから。争いばかりなのに、争いたくないのだ。でも、どうしようもないのだ。それが伝わる。

前半で、子供を奪われたエゴイスティックな父親が、妻の実家の前で大声で子供を呼ぶシーンがある。父について行くことになった男の子が放浪生活の中で十年たち、窮屈な生活から親に反抗する。

 彼はガールフレンドになった街のお嬢さんに、放浪生活での重ねた嘘から、不審に思われてふられてしまう。その時に、反抗していた父の様に、恋人の家に忍び込み、同じように大声で名前を呼ぶのだ。

 何度も、彼らは家族で罵り合い、名前を呼び合う。とても辛い。映画の手法としては、正直一発アイデア勝負的な見づらさ(ほとんどずっと寄りの画面ばかりなのだ)があるので、映画として「美しい」とか「高得点」、とは思わないのだが、それでも俺はこの映画がとても心に残ったのだ。好きなんだ。閉塞感不安感を感じたのだ。そして、交差するぶつかり合う愛情を。

見ていて、今の自分の様々な嫌なこと心配ごとを思い出してしまった。俺の生活も一時の幸福を鎮静剤にしている、逃避行のようなものだ。ずっと、逃げ続ける人生。

見た後すぐ、同じエルメスで『ベゾアール(結石)』シャルロット・デュマ展見る。結石は、動物の身体に形成される凝固物。まんまるで白いそれを、人はお守りにしたり、神秘を見いだす。北海道から沖縄の与那国島まで、人と馬との共生の姿を捉える。馬の表情を感じるかのような、写真がとても良かった。

 写真集が欲しくなるくらい、馬が可愛らしかったのだ(今回会場で販売はしていないようだった)。たまたまだが、俺は朝完成させた小説で、主人公の少年が知り合いになった外国の少年を「馬みたい」と褒めるシーンを書いていたのだ(馬みたいと言われた少年は当然なんだこいつ、みたいな反応をするのだが)

 主人公の少年にとっては、馬は優しく気高い存在で、体温、平熱が人間より高い、獣の温度を持っていた。だから、外国の友人をそんな風に褒めたのだ。

 幻想の中の馬。それも素敵だが、この展示を見て俺も馬が触りたくなった。この展示では、馬の「表情があるかのような」親密な写真が並んでいて、素敵だった。

 俺は犬猫大好きだが、犬猫などに「哀しい顔」をしている、という見方は嫌いだ。人間が勝手な自己投影をしているように思えるのだ。動物は人間の感情からは自由だ(或いは人間とは違う価値観で活きているのだ)。それを矮小化しないでくれ、と思うのだ。

 マーク・ロスコの抽象画に感情移入しているひとが自慰的に見えてしまう、ということが想起され、それは大学時代から俺が思っていたことで、山下裕二が著作で似たようなことを言っていてびっくりしてちょっと驚いた。でも、誰か、と同じようなことを考えるなんて感じるなんて、ちょっと長く生きていればよくある話だ。

 でも、俺のこの身勝手な感情を共有してくれるような友は、俺には現れないだろう。

 マーク・ロスコの抽象画は嫌いなのに、ポロックやダン・フレイヴィンやサイ・トゥオンブリのそれはとても好きなのだ。

 こんなことばかり考えていて、こんな話を気軽にできる人なんているわけないので、俺は黙るようになっていて、こういう場所でどうでもいい独り言でさえ、口を噤もうとしている。

 でも、喋らなければ、生きている意味がない。誰の人生だ?

 俺のだ。だから、何も手ごたえが無くても、俺は書き続けなければ、喋り続けなければ、死んでいるのと同じだ。

 だけどさ、こんな生活をずっと続けていると、おかしくなるんだ。早く放浪生活綱渡り芸人終わりにしたくなる。

 けだものよ、一時の安らぎを、鎮痛剤を幻覚剤を。

 自分が幸福な生活をおくる、というのにまるで現実味がない。だけどさ、それから目を背けることはしない方がいい。誰かの作品を見て、触れて、動物の植物の鉱物の、人の運動を生命を感じて、感応できるように。俺は、それが好きなんだ。

 雑記

11月に新宿TSUTAYA歌舞伎町店が閉まるって。そんなに広さはないのに、結構マニアックな、古い映画のラインナップが揃っていたのだ。このご時世仕方ないのかもしれないが、残念。ありがとうございました。

過小評価されてると思う私的に最高な邦楽
ふぇのたす/胸キュン’14
桐島かれん/ディスコ桐島
空気公団/「ここだよ」
清水愛/発芽条件M
田島貴男長岡亮介/sessions
桃井はるこ/momo-i quality
plagues/california sorrow king
ceiling touch/into U kiss
de de mouse/dream you up

過小評価、の基準がよく分からないので単に自分の好きなアルバムになってしまった感が……既に評価されているとしても、個人的にもっともっと!なアルバムを選んでみた。

大村しげ『しまつとぜいたくの間』読む。大正生まれの著者が、京ことばで京都の暮らしや食べ物のことを綴る。親から受け継いだ古いしきたりを元に、送る日々の生活は読んでいて心地良い。それは著者の親や自然への深い敬意を感じるから。手間をかけて質素に見えても良い食べ物をとる。耳が痛い。

『メットガラ ドレスをまとった美術館』見る。メトロポリタン美術館で年に一度開催されるファッションイベントを追ったドキュメンタリー。作り手のラガー・フェルドがファッションはアートじゃないと言ってるのに、周りのキュレーターやらがしきりにファッションはアートだって主張するのがうわーって思っていた。でも、映画自体は豪華な顔ぶれに衣装、中国をテーマにするからウォン・カーウァイに依頼等見どころ多数だし、ごちゃごちゃ考えずに見ると、楽しい。

シェリーのブラックリーフトゥリーの食器がとても欲しい。価格は二万ちょいなので買えないことはないのだが……他に買いたいものあり過ぎる。ふと、何でこのデザインが好きなんだろうと思ったら、チェルシーの黒地にカラフルな色使いも好きだと気づいた。上品なレトロモダンな雰囲気が素敵だ。

チャールズ・シミック詩集『世界は終わらない』読む。シニカルでユーモラスな老人の戯言のような、賢しげで夢想好きな少年のような語り口。神話も著名な作品も戦争も汚い景色も、ふっと顔を出す。作者の夢や悪夢や白昼夢のコラージュが、うっすらと短編小説のような輪郭を与えるようで、面白い

大村しげ『京暮し』読む。著者の京都での日々の暮らしを綴った、暮しの手帖の連載をまとめた一冊。京ことばの語り口とオノマトペの多い文章は食べ物がとても美味しそう。

聖護院かぶらは、たたくとポカポカという音がして、包丁をいれるとピシッと割れるくらい肉がしまっている。」

ダーティペアのオープニング。
名前しか知らずにたまたま見たけど、めっちゃ動くしセンス良くてかっこいいな! この頃の昔のアニメの雰囲気めっちゃ好き。黒地にカラフルなモダンイラストのアニメ版というか、くすんだパステルカラーと背景やモブ塗りつぶす感じの好き

コーネル・キャパ写真集『われらの時代』読む。有名な兄のロバート・キャパの弟。兄の他の写真家へのアドバイス「相手に好意を持て、そのことを相手に分からせよ」という精神を、弟の写真を見ると感じる。様々な国や立場の人々の生き様、息づかいを感じられる写真集。

藤異秀明『武狂争覇』読む。めっちゃ面白い。超ハード(ボイルド)少年漫画。アメコミのような迫力のある構図と、SDキャラのようなキュートさを兼ね備えた血みどろバトル出血大サービス! 一気に読めちゃうスピード感は、昔デビチル漫画よんだことを思い出した

 漫画版のデビチルのハードな展開はとても好きだったから、それがリニューアルして帰ってきたみたいでわくわくした。久しぶりに少年漫画(?)読んでわくわくした。本当は読みたい本沢山あるけどさ、巻数が出まくってるとね、気軽に手が出せないのだ。

 人生は続いてしまう。幻想の馬を輝かせるために、馬にけだものに会いに行きたいし、いかなくっちゃな。

だって、感受性全開

結構疲れている。疲れているということを認識して、回復しなければ、と思う位には元気になってきたのかもしれない。

 小説を書かなければと毎日思っているのに、できていない。しかも、小説を書こうって思っている時は、他人の小説が読めないのだ。他人の創作物を読むというのは、その位力がいる作業なのかもしれない。

 それでも、何も目標がないよりかはましだ。目標、手に入る、手が届くものといえば、最近植物を育ててみたいと思っていて、ズボラな俺でも育てられそうなのを探すとミントが良さそうだと思った。俺はチョコミントは好きではないが、ミントの香りは好きだ。

 でも、鉢を植え替える? 土を買う? というのがどうもわからない。店で聞いて買えよ、って話だが。

 最近結構やばい位お菓子を食べている。ストレスや疲れているとお菓子食べまくってしまうのだが、結構まずい。体調的にも金銭的にも。急に止めると反動が来るから、徐々に減らしていけたら。ガンガン食べてガンガン動いて夜は寝る、なんてのが理想だけど、実際はガンガン食べてもガンガン動いたり寝たりはしていない。

雑記。

映画『ティモシー・リアリー博士の生涯』見る。LSDで内なる意識に目覚め、自由を得ることを主張した博士のドキュメンタリー。大学の頃本を読んだ。内容は忘れた。ス⚪リチュアルではないから、博士の主張は荒唐無稽ではない。正しさや快楽のムーブメントが生まれては消えるのを見ると、歴史を思う

三好一『モダン絵封筒の世界』読む。メールはないし、電話も気軽にかけるものではない時代、文通は人々にとって一般的な手段だった。ロマンチックな絵葉書や封筒は、送る方も貰う方も楽しいものではなかっただろうか。だれかに文章を送る機会には、素敵な柄を贈りたいと思える一冊。

ドキュメンタリー映画マティスピカソ 二人の芸術家の対話』見る。二人の交流や作品を、近しい人達の証言と共に辿る、正統派ドキュメンタリー。二人の熱心なファンではないのだが、生涯作品を作り続けた芸術家の生き様は見応えがある。好きなことを続ける人は困難だが、とてもかっこいいのだ。

藤異秀明20年記念原画展が大阪でやるって。関西の人が羨ましいデビチルの漫画大好き。
おおかみさんのコピー、

永遠の小学生の皆様!

って素敵だ。キュートも狂気もある漫画、血みどろもサービス!

 デビチルの無印のゲームや漫画好き。アトラス、メガテンらしいダークな展開と子供向けのキュートなの、どちらもあったから。原画展行きたいけど、さすがに関西は無理だなあ。

 でも、ふと思ったのは、好きな人の作品を「生」で見ると、時折、本当に満たされた気持ちになるってことだ。美術館に行った時に、たまにこの幸福な現象に出会うことがある。

 たまに、もう駄目だって思う。でも、それを先延ばしにしてくれるのは誰かの、誰かの作品との出会いしかないのだ多分。

『東京モダン建築さんぽ』読む。モダン建築の見どころを、見たこともない形、素材そのものを生かす、パターンの繰り返し、人の動きを考えられた空間性(凝った手すり)といったキーワードで説明。建築に明るくない自分でも分かりやすく、建物の魅力に気づく。たまに目にしていた景色の新たな顔を知るのだ

 正直、建築の良さについて、俺はよく分かっていない点が多い。好き嫌いはあるが、具体的に言葉で語れない。でもこの本を読んで、好きになる見方が広がった気がした。特に空間性、人がゆったりと感じられる身体性ということを考えて建築を見てこなかったから、これからはその点も感じられたらと思った。街のいつもの空間が少し変わるんだ。素敵なことだ。

ツイッターの動画で、燃えるような赤毛の狐を見た。とてもかわいい。欲しい。似たような体格の、犬猫狐、全て歩き方が違うしみんなかわいい。毛皮を着た動物はどれもこれも好きだ。今日フィナンシェを食べたら美味しかったから、毎日狐にフィナンシェを作ってもらいたい

いしいしんじ『きんじょ』読む。三人家族の日常エッセイ。これがとても面白い。大人の作者も、小学校にあがる息子も好奇心旺盛、毎日のように、はじめて、に出会う。様々な登場人物も魅力的で、これは作者の瞳を通した風景や人物に呼応しているようだ。きんじょ、でも大人でも子供でもワクワクできる。

『世界のかわいい小鳥』読む。普段肉眼では、はっきりと見られない小鳥の姿が見られる。美しいカラフルな姿を見ると、生きるには目立たない方が良いような気がするが、見る方は有難い。たまたまだが、四枚の写真似たような構図の白と青。ぱっ目についたので自分の好みが分かるなー。

 いしいしんじの小説は、少し合わないかもしれない。でも、彼のエッセイは好きでたまに読む。中でもこの本はとても良かった。ああ、彼は、彼の家族や「きんじょ」の人達は世界に自分たちが開かれていて繋がっているんだなって感じられた。素敵なことだ。だって、感受性全開だ。

 だから、俺は彼の小説を読む気になれないのかもしれない。だって俺の好きな小説や俺が書いている小説は、エンタメ性物語性がある(と思っているし、すぐれた作品は大抵そうだ)けれども、狭い世界の出来事への逃避や憧れやオブセッションから生まれている物が多い気がする。世界と友達になれていない人間の小説。

 楽しそうな人達を見て、ああ、俺とは違うのだと感じることがある。卑屈や皮肉ではなく、生き方の問題だ。人生の色んなことよりも、神の存在や塵芥タトゥー宝石まがい物、好きなんだ大切なんだだから、生活はうまくはく行かないんだ。

 でも、楽しそうにしなかったら、つまんない。俺はいろんな人たちの様には生きられなかったけれども、忙しさや不安で楽しみが霞まないように。なんどでも思う。

 感受性が遊べるように。それを思っていたら、案外うまくいくんだって祈って思って。

希死念慮が揺籃なんて 戯言はやめて

数週間前に比べたら、大分調子が上向きになってきた。俺の上向きってのが、多分元気な人の普通かやや気分が優れないって感じだと思うから、順風ってわけではないので頑張ろう、

 って思ってたら、まさかの仕事先でコロ助ナリィ疑惑の人が出て、テンションガン下がる。俺は症状でてないけど、この先そこで働く(そりゃそうだ)のもげんなりするし、自宅待機になっても保証がないだろう。

 考えれば考える程悪いことしか浮かばない。でも、どうにか前に進まなきゃな。少しだけだけど、小説をかけていることだけが明るいことで、小さな幸福でわりとどうにかなることもあるって、俺は知ってるんだ。

 雑記

天気が良いので数ヶ月ぶりに上野と秋葉原を歩く。それなりに人が多い。欲しかったカワウソのガチャガチャが手に入ってとても嬉しい。黒いオルフェのDVDと桃のチョコレートと本とゲームを買った。読みたい見たいもやりたいものが多くて嬉しくて困る。

 人が多い場所が好きだ。雑踏が都会が好きだ。友人やお金がなくても、ざわざわがやがやごみごみきらきらした景色が好きだ。少し前までは、当たり前に色んな場所に行けた。それが今は難しくなっている。東京の感染者(陽性者)がずっと似たような数字を推移しているのなんでだろ。

あ、電車の座席に座らなくなったなー。

『かわいい こわい おもしろい 長沢芦雪』読む。江戸時代に高い人気を誇った、円山応挙を師匠にした芦雪。師匠譲りの高い画力と、若冲蕭白に近い大胆さを持つ芦雪の魅力に迫る。辻惟雄が前者に対応して人工の奇想と評したのは興味深い。ユーモアとすさまじい画力にわくわくする。見所ばかりの一冊

 芦雪の虎の画ほんと好き。水墨画の毛の表現、迫力とふわふわ感が本当にすさまじい。以前本物を見られてよかった。本を見て、本物を思い出すことができるから。好きな画家の動物の画はたいてい大好き。というか、俺が動物、毛皮を着たけだものたちがとても好きなだけかも。

大村しげ『京のおばんざい』読む。季節と行事を追って作る京都の家庭料理。京ことば、話し言葉で語られる料理はとても美味しそう。千枚漬けの最初の「かぶらの皮をごつうむいて」だけで情景が目に浮かぶ。あとがきで著者が、戦前戦後で料理は変わり、日常を若い世代に残したいと語っており、胸にくる。

 この本はとてもよかった。いわゆる京都紹介本、みたいなのは山ほど出ていて、俺も好きでちょいちょい読んでいるのだが、その中でもかなり良い本だと思った。それは、筆者が京都で生活をしていて、それを大事にしているのが伝わってくるから。なんだ、そんなの他の本でもそうじゃん、ってなるかもしれないが、京言葉で語り掛ける、という文章がとてもいい。自分の生活としきたりを大切にしているってのが伝わるんだ。日常を大切にしている人の文章は、楽しいんだ。

映画『ザ・プラネット』見る。アルゼンチンの音響派ミュージシャン、フェルナンド・カブサッキが実在しない映画の為に作曲した作品を元に、19名のアルゼンチンのアーティストがアニメーションを制作。抽象画のような表現からコミカルなカトゥーンまで。音楽がとても良い!大好きな初期トータスみたい!

 これは、音楽がとてもよかった! マジで1,2アルバムの頃のトータスっぽい曲があった(俺なりの最上級の誉め言葉だ)音響派大好き。というか、ジョン・マッケンタイア最高。長く続けているから、俺は一番初期の荒くってエモーショナルで暖かくてちょいミニマルな作りが大好きだが、この人の音楽はそれに通じるものを感じた。cd欲しいぞ

チェコのアニメ監督、カレル・ゼマン『鳥の島の財宝』見る。ある日、美しく平和な島に黄金がもたらされ、人々のいさかいのもとになるが…… 人形や切り絵のアニメーションは、どこか懐かしさと不気味さとかわいさを感じる。派手で美麗なアニメもいいが、ちょっと怖くてワクワクする、味のあるアニメ

ウィリアム・クライン監督『モード・イン・フランス』また見る。フィクションとノンフィクション風の映像が刺激的だ。ひねくれた愛国心、ファッション界への愛情。モードは大衆のもの、とは言え特別で虚構で素晴らしいもの。豪華な出演陣ときままなモデルを見るだけでも楽しい。

朝にウィリアム・クラインの映画見て、午後も銀座で彼の映画を見る『モダン・カップル』未来のフランスで、新しい生活様式のモニターに選ばれた二人は、生活の全てを監視測定放映され……未来の風刺コメディのはずが、映画から数十年後の現在は似て非なる恐ろしさが……ともあれ、外で映画見られて幸福

ウィリアム・クラインの『モダン・カップル』は、複数の出演者が寄りの構図があって、彼が大都市の人々を撮った写真集を想起した。ファッション界を撮った映画では、フォトジェニックなショットもあったが、猥雑でパワフルな感じは控え目だった。クラインの写真集また見たい。エネルギーチャージしたい

 久しぶりに銀座のエルメスで映画を見た。コロナの影響か、銀座は人がとても少なかった。資生堂ギャラリーへ行ったら、予約をしないと入れないって言われてガッカリ。花椿だけでも欲しかったな。

 銀座の鳩居堂も久しぶり。デパートの狭いフロアではなく、お店にはいると和紙の匂いがするのがとても好きなんだ。ただ、消毒&マスクのせいかそこまで感じなかった。って、入り口近くがお香のコーナーになってたからその匂いがした。

 でも、棚に並んだ和紙の筒、一枚800~1200円位の、着物の柄のような上等で優雅な模様が並んでいるのを見ると、とても幸せだ。気軽にあれこれ買いたいけれど、そんな身分ではないので見るだけで我慢する。綺麗な物は世の中に山ほどあって、きりがないから。でも、今度行ったらいい加減一枚くらい買おうかな。その金で美術系の古本がかえる、なんて考えてしまう駄目な俺。

 『美しい和のガラス』読む。昭和等の昔のレトロな、日本で作られた日用雑貨の硝子を紹介。技巧をこらした硝子も好きだけど、古い日本製ガラスも素敵。当時誰もが使っていた醤油差しやソーダコップが、工芸品のよう。無駄をはぶき洗練されたデザインもいいけど、この路線の手頃な値段の硝子が欲しいな

植田正治作品集』見る。シュルレアリスム、ピクトリアリズムを感じさせるような作風。計算された美しい構図。しかしこれは絵画ではなく、写真だ。人の、被写体の持つ魅力を引き出している。少しダイアン・アーバスを思わせるような気もした。抜群に構図とセンスが良くて、写真の持つ偶然性も感じる

 彼の写真は知っていた、見ていたはずなのに、写真集でまとめて見てにわかファンになってしまった。図書館で借りたこの本、定価16000か18000だってよ! 買えるか! でも欲しい! 大きいし紙質いいし、その価値がある一冊。

 新しい小説を書いていて、自分の感受性、好きとか嫌いとか匂いとか欲望とか味とか不快感とか浮遊感違和感、自分、いや、登場人物が生きているって思えるあれやこれやに感応できるようでなくっちゃなって思う。その為には、自分がそれなりに前向きでけんこうでいなければ。

 現実を見たら希死念慮が揺籃だけど、そんなの馬鹿な話。美しいものを見て、美しいと言える状態でなくっちゃな。高い本が気軽に買えるように、高い値段が並んだ場所に行くことを臆さないように。俺はしょっちゅう気分が駄目になる。そのことをいつも責めていたけれど、できるだけ感受性を殺さないように。駄目な日もあるけれど、何かに触れて、小説書いていかなくっちゃな。

今も変わるから

 朝や夜、少し肌寒く感じる時があって、ようやく秋の始まりを実感する。デパートの菓子売り場で、和三盆の干菓子の形がお月見になっていた。まだマスクが手放せない生活で、東京の感染者はなんとも言えない推移をたどっているけれど、何事も変わっているのだろう。

 渋谷や新宿へは仕事帰りやら用がないけどなんとなく向かうのだが、ここ数日で明らかに人が増えた。あの日の前の混雑っぷりには戻っていないけれど。これが良いことだと感じられたらいいなと思う。

 神経が過敏になっていて、とても辛かったけれど、前よりかは緩和しているような気がする。それはきっと、新しい小説を書いているから。書かない時はずっと書いていないから、自分の書き方、文章の呼吸というか流れというのがしっくりこない気がするけれど、ある時はっと思い出す。自分の好きなリズム。物をつくるって、なんて健康に良いことだろうと思う。

 体力気力は低下していて、どうしても良いことが思いつかないし、起こらないけれど、小説を書きたいなら書けるならまだ平気なんだって、そう思う。

 雑記

『文豪と暮らし』読む。昔のゴールデンバットのデザインめっちゃかわいい。泉鏡花はおばけを信じていてたのに、犬やバイ菌を非常に恐れ、何でも加熱してパンの自分の指が触れた部分すら捨てた。室生犀星は貧乏が長く、ツグミを愛でるのではなく、食べた後、身体がほんのりと桜色になるのだ。等々

 泉鏡花が目に見えないばいきんを非常に怖がったのは、このコロナを意識せざるを得ない現状でとても身に染みた。俺も何かに触るだけで非常に気分が悪くなっていてヤバかった。外出ができない! 座席が空いているのに、電車で一人だけ立っていることもしばしば。

 見えないものが見える感じられる信じられるってもろ刃の刃かよ。(俺は幽霊妖怪信じていないし「見える」とか言う人が無理だけど、泉鏡花は好きだ)

Bunkamuraの展示カタログ『永遠のソール・ライター』読む。街を、街の顔色が変わる瞬間を捉えた写真。そして、妹やパートナーの女性といった、親しい人を撮り続けた写真。人生の大半をニューヨークで暮らしているのに、自分をよそ者と言う彼。だからこそ、街の些細な変化にときめくのだろうか。

 自分がひかれる街に住み街をとり続けているのに自分をよそ者だという彼の発言に森山大道を連想した。でも、ソール・ライターと森山はかなり離れているような気がする。ソール・ライターはきっと、よりよく生きよう楽しもうとした生活者としての一面があって、だからこそ家族やパートナーを美しく撮れた、とり続けられたのだろう。

 昔は森山大道みたいな、もっというと中平卓馬みたなヒリヒリする人らの作品がすきだった。挑戦的で挑発的で、見る方もただではすまないような作品。でも、今は愛おしい人をとらえたものだって素直にいいなって思える。おっさんになって少しはよかったところかもしれない。

『かわいいナビ派』読む。ゴーガンや日本画の美学に影響を受け、自分たちを新しい美の預言者(ナビ)と称したナビ派。平面で装飾的、感覚的な絵画。読み解く絵画、理想化された身体とは逆の、身近な人や景色を愛した画家達の絵はゆっくり見るのが合っている。

『この写真がすごい2』大竹昭子・編読む。70人のインパクトがある一枚の写真と、編者の短い文章が並ぶ。写真家の名前や出展は後ろに纏められており、誰の作品なのかって先入観抜きで見られるのが素晴らしい。正直、好きではない写真が多い。でも、色んな人の写真が一気に見られるって刺激的で楽しい。

チャールズ・シミックコーネルの箱』読む。絵も彫刻も作れない芸術作品コーネルの作品と偏愛モチーフについて、著者が写真と散文を添えた一冊。箱の中につめられた小世界。がらくたも古典作品も同価値にコラージュ。子供が好きな物を集めたような、幸福な時間が閉じ込められているかのよう。

 コーネルの箱ナビ派の作品も、二十代の頃はもっと刺激的な作品を求めて目を向けなかった気がする。でも、些細な日常に、穏やかな時間に感応できるっていうのも素敵なことだ。

 俺の生活や精神状態はいっつもグラグラで、幸福な状態、という物に関する理解、共感、感応の数値が低いように思えていた。まあ、単純な話、希死念慮がどうだなんて言ってる人間が、幸福な人々の素敵な生きざまを見ても居心地がよろしくないっていう下らないことなんだけど。

 ただ、俺は俺の生活を良くしていかなきゃなって。何度でも忘れてどうでもよくなるけれど、好きな物を見て触れて、何かを書いていけたら。その時は忘れているのだろう忘れていいのだろう。忘却は恩寵、と言った川端康成を想起する。また読みたいな。でも、読んでいない本が山ほどあって、げんなりして有難いのかも。

本は俺の慰め蝕み。

身体の不調に悩まされていた。仕事を初めてから、ほぼ毎日寝ても2時か三時には目が覚めて、疲れがとれない。そんな状態だから体調が回復するというのは難しい。

 ずっと、小説を書かなければと思っていて、それと同じように様々な本を読まなければとも思っている。でも、うまくはいっていない。

 何々をしなければ、というのは、精神的にはとてもよくないらしい。常に自分が何かをしていなければと思っていると、安息なんてない。でも、それで何かが好転することはなくても、小説を書いていない自分なんて、生きていても仕方がない。小説こそが自分の人生、なんて大袈裟なことではなくて、単に楽しみがそれくらいしかないのだ。

 だから、何か一つくらいうまくいってもいいんじゃないかなあって思うんだけれど、そんな願望で小説がすらすら書けることなんてない。インスピレーションを受けるとしたらきっと、それなりに健康で何かに感動出来ている時だ。

 でも、日々不調。それで、ようやく、自分の不調の一つが歯をくいしばっていることにもあることに気付いた。ずっと気づいていなかった。肉体労働をする関係上、どうしても力が入っているというか、無駄な力も入っているし、緊張が続いてずっと身体が悲鳴を上げ続けているのだ。

 ぼーっとする、ぼんやりする。それがどうしてもできないのは、この先が怖いから。自分の状況がどんどん悪くなる中で、せっかくの自由な時間すら無為に過ごす恐怖。いつまで頑張れるのか、頭が働くのか、諦めないですむのか、ということをよく考えてしまう。

回答なんて出ないし、誤魔化し誤魔化し生きてきた。これからもきっと。でも、たまに錯覚するんだ幻想を見るんだ。その方がいい。たまゆら、人生がそれなりに素敵なんだって思う。

 雑記

『美しいアンティーク鉱物画の本』読む。百年前位に描かれた鉱物の絵。植物や動物とちがい、鉱物は硬質で命を持たないから、昔の彩色技術よりも、パソコン等での方が適しているかもしれない。なのに、手描きの鉱物はよい意味で温もりを感じる、不思議な魅力が宿っているのだ。 

マグリット辞典』読む。AtoZのキーワードを元に、マグリットやシュルリアリスト達に迫る。図版が豊富で見ていて楽しい。俺はシュルリアリストの「発言」をあまり信用していないのだが、マグリットが自分のも含めた商業仕事を嫌っていたのは興味深い。彼の作品はとても複製に向いていてポップだから

橋爪節也『大正昭和レトロチラシ 商業デザインにみる大大阪』読む。大正昭和の大阪の繁華街で配布されたチラシを紹介。デパート、喫茶店、キャバレーから選挙、電鉄、遊園地まで幅広い。今のよりも、情報を語りかけるようなチラシが多い気がする。当時の美意識や生活を感じられる楽しい一冊。

だらだらと、美術や旅や食べ物とかの本を読み散らかしていた。お金がない俺は、本を読んで行った見た食べた気になる。実際の体験の方が豊かなのは分かるが、こればっかりは仕方がない。

 本は俺の慰め蝕み。

恋の時間愛の時間何にも追われない時間

 新しい小説を書こうとして、一文字も書けずにうろうろしている。一度決まれば後はわりと早いと思うのだが(でも、人がどんな風に小説を書いているかなんて知らないけど)、そのスタートに立つまでがとても長い。億劫だし面倒だし集中力が無いし。

 でも、俺は作り物の中では息ができるのだ。架空の空想の作り物の偽物の幻想のありもしない、いや、ありえるはずのいつかの何かのことばかり。

 多分、文章を書いていないと考えていないと文章を書く力は衰える。そのことは、スポーツ選手や料理人みたいなものに近いのだと思う。同じことの似たようなことの反復が、その人の輝きを作るのだ。

 とはいえ、ずっと現実逃避しているわけにはいかない。いかないというか、生活が成り立たない。最近は毎日のように辞めたいと思いながらも仕事を続けていた。俺は根気も集中力もないので、普通の仕事でもとても疲れてやる気がなくなる。

 後、どれくらい文章を書けるのか、日銭を稼げるのか、おかしくならずにすむのかと、たまに心に浮かんでは消える。きっと、緩やかな自殺の様にして俺はおしまいになるのだろう。

 でも、その前に少しでも現実逃避ができたら、夢を見ることが、錯覚を編むことができたら。哀しいやつまらない、よりかは楽しいことが好きだ。俺は厭世家やペシミストではないけれど、気が付けばメランコリーが親友。見えない親友の手を取りながら、誰かの錯覚を瞳に映したいと思うのだ。

 

 

Bunkamuraザ・ミュージアム 永遠のソル・ライター展。見る。この時期は人がとても少なくて良かった。ニューヨークの日常を撮り続けていた彼の作品は、ファッション写真のようにフォトジェニックだったり(というか)ファッション誌でカメラマンしていたのだが、人々の息づかいが伝わるような瞬間のショットだったり。特に、妹やパートナーの女性を撮った作品が良かった。

妹は仲が良かったけれど、ずっと病院生活になってしまったらしい。そんな彼女は同じ顔の角度の写真が多くて、表情も固く、世界に不信感を抱いているかのようだ。しかし、兄の撮影には応じていたのか。反対にパートナーの写真は生き生きとしていて、映画のワンシーンのようなものも多くて魅力的だ。

 正直、チラシを見た感じだとそこまで期待はしていなかったのだが、展示は思いの外ぐっと来た。カラー写真よりも、妹やパートナーの女性を取り続けたモノクロの写真がとても良かったのだ。

 それらの写真は、親密さがとても伝わる上に、彼のセンスの良さ、ファッション雑誌や映画のワンシーンのようなフォトジェニックなショットの魅力があって、幸福な時間を感じられる物だった。

図録欲しかったけど、高い上に俺が求めるものではなかった。判型小さめでカラー写真がたくさん載っている感じ。多分俺とは彼の写真の魅力的に感じた部分が違う人が構成したのかなあと思った。

 ソル・ライターは、きっと芸術家タイプというわけではないと思う。でも、芸術よりも愛おしい人との時間や街のちょっとしたできごとを大切にしていて、それを印画紙の上に定着できているのだ。見ていて心がすっと楽になったのだ。

 恋の時間愛の時間何にも追われない時間。俺が忘れたものたち。

 飯島都陽子『魔女の12ヶ月』読む。月ごとの、伝承やハーブの物語と、レシピや手仕事を紹介。魔女という名称だけだと、何だか怖いイメージがあるが、この本では実生活にも役立つ知恵も教えてくれる。本物の魔女がいたとして、彼女たちも薬効のあるハーブティーで一息いれていたのかも。

穂村弘『ぼくの宝物絵本』読む。歌人の著者が会社員だった頃、忙しくて自分の時間が取れなかった。そんな時に出会った絵本は、彼を様々な世界に連れて行ってくれた。絵本の紹介でもあり、彼にとっての絵本の魅力について語っている。それは、怖さ。めでたしもいいけれど、死の予感。誰かの生活を感じる

たなと『あちらこちらぼくら(の、あれからとこれから)』温かみのある終わりも好きだけど、続きが読めるのは嬉しい。ゆっくりと仲良くなった二人の、ゆっくりと進展する共同生活。細かい心理描写はキャラの存在と魅力に説得力を与える。たなとの漫画はめっちや読むやすいのもすごい。繰り返し読むぞ。

『知っておくべき四つの価値 宝石の常識』読む。宝石や鉱物の本って、割と似たような内容になりがちだが(それでも楽しいけど)、この本の色の価値基準表というのはとても分かりやすくて良かった。普段宝石を見ないし見られないから、同じ宝石にもこんなに違いがあるのかって気づくことが出来る 

 俺は決して手に入らない宝石も、数百円で買えてしまう宝石(原石、クズ石)も好きだけれど、等級の差、似たような宝石でもプロから見たら差があるというのを写真で見せてもらえるのは刺激的だった。

 最近喫茶店やお菓子のレシピやら鉱物やら、とにかく小説を読まずにさらりと読めるものばかり読んでいる。小説を書こうとしていると、誰かの小説に向き合えるような体力や集中力がない。とかいって、単に仕事でへとへとになっているだけなのだけれど。

 しばしば、自分が駄目で、もっともっと駄目になっていくのだと考える。たまに、誰かの何かの輝きや展望に目を奪われる。俺の凝り固まった思考や行動を改めてくれる。

 そういうことにしておいて、と何度でも思う。

まぼろしに目を見開いて

 新しい仕事で、帰ったらへとへとになって、頭を使う本なんて読めない日々。前に進むというよりも、ひたすら我慢してしのごうとする日々。そんなのがいいなんて思えないし、嫌でたまらなくって、逃げだしたくなる、逃げてばかりの俺の人生。

 楽しいのは、きっと本の映画のカンバスの中の世界だけ。

 なんてことを感じてしまう。間違ってはいないかもしれないけれど、生活をないがしろにしては、何も進められない。ただ、疲労に負けて過ぎ去る日々。

 でも、先日半年ぶり位に美術館に行った。それだけで、少しだけ自分の気持ちに変化を感じた。

 混んでない。嬉しい。三菱一号館美術館『画家が見たこども展』に行く。ボナール、モーリス・ドニナビ派の画家達の作品が多い。単純化した表現で、こどもの魅力を捉える。ジョルジュ・ラコンプ 木彫りのシルヴィの胸像 がとても良かった。赤木に少女の生命力を感じる

 展示で見られる作品は、子供というテーマで集められたからか、身近な存在への温かい眼差しを感じるものが多かった。誰かの作品を目にすると、気持ちが軽くなる。誰かの力が、俺にも流れ出すような心持になるのだ。

 画集で十分なんて感じるものもあるけれど、やっぱり現物を見るのって大切なことだ。情報量が違う、ということ以上に、誰かの熱情の結晶、作品を見るって大切な機会だ。

 ずっと、コロナやら金欠やらで外(のイベント)に出られなかった。ずっと辛さだけがたまっていって、駄目になるのかなあ、誤魔化さなければなあ、ってそれだけの生活。でも、美術館とかに行ったり、誰かに会わなくっちゃ。そうやって、まあ、悪くないんだって思わなければ生きていてもしかたがない。

 雑記。最近は軽く読める本ばかり読んでいた。感想を書く必要も感じない感じのばかり。でも、それでも本は本、読書は読書だ。本がない生活なんて、怖くって考えたくない。

まぼろしの奇想建築』読む。構想されながらも幻と消えた建築の数々を紹介。建物や都市を作るのは途方もない金や時間がかかるから、個人の力ではどうしようもないこともあるだろう。実際には作られなかった風景だが、それは実在の建築のイメージや、漫画映画の中で生きている。永遠に未来の風景。

ディック・ブルーナ ミッフィーを生んだ絵本作家』読む。アーティストを志しながら、デザイナーとして働き、才能を開花させたブルーナマティスドミニコ会修道院のデザインに強い影響を受けたという。紙の切り抜きというシンプルな手法。ブルーナの絵本も、人に伝わるセンスと暖かさがある。

高峰秀子 松山善三『旅は道づれ雪月花』読む。一線で働き続けた二人が老年に入り、のんびりと豊かな旅行をする。美術館で絵を分からないという人に、高峰がピカソの引用をする。
「すべての人が、絵画を理解したがっています。それではなぜ、小鳥の歌を理解しようとしないのでしょうか」

YouTubeのオススメに出てきたので、公式の少女革命ウテナの1話見た。すごく良かった。切り絵のような作画は全然古く無くて、異世界感が素敵。十年以上前に漫画読んでサントラもiPodに入ってるのにアニメ見てなかった。絶対運命黙示録って1話から流れるのか!って、なんか変な感動をしてしまった。

『世界の鉱物・岩石・化石・貝大図鑑』読む。写真が多く、見開きごとに一つのテーマ、鉱物を紹介していてとても分かりやすい。サファイアの小石、ジェードの埋葬服、アメシストのバスタブ、琥珀の象……見ているだけで物語の世界のイメージがわく。

たなと『スニーキーレッド 3』読む。とても好きな作品なので、また続きが読めるのが嬉しい。三崎さんのおもいやりドエム盤石。1巻から読んでると、ハルの変化に驚き&ほっこり。ラストのハルの心の声可愛すぎる。登場人物の幸福な日常が続いていくんだなって思える、ほんわかした一冊。

森山大道 写真集『tokyo』読む。東京駅銀座新宿渋谷上野秋葉原……有名過ぎる東京の観光スポットめいた場所を、モノクロのインパクトのある構図で捉える。最初は今更、こんなベタなのを見てもなあ、なんて感じていたが、続けて読む進めていると、改めてこの人は凄いと感じた。21で上京して、

60年東京に住んだという森山。しかし、未だに東京が分からずに撮り続けているという。変わらない東京、ではなく、森山の中の憧れ、幻想のフィルターがかかった東京。町は少しずつ変わっても、森山大道の東京への高揚は変わらないのか。老年の彼が、こんなにも変わらない写真を撮れている熱意に敬意。

スパンクハッピー 夏の天才
やくしまるえつこ summer of nowhere
go!go!vanillas サマータイムブルー
パリスマッチ アルメリアホテル

夏の曲は好きなのが多い。でも、今年の夏は例年よりもさらに嫌な夏だ。もう少しで、夏が終わりそうだけど、いつかこんな夏もあったなんて思い出すのかな。

アイドルマスターの全話と映画を公式が公開してたから、数年ぶりに全部みた。見終わって、懐かしい曲やら765声優の動画とか見てた。普段アニメをあまり見ないのだが、アイマスは本当好きで楽しめた。曲がいいのもそうだが、キャラクターの成長がぐっとくる。何より、制作者や声優の愛が伝わってくる。

きれいな昆虫、海月、金魚を集めた三冊の本を読んでいた。最近の写真集は、とてもセンスが良く、見ていてたのしい。でも、昆虫のは途中で無理だと思ってしまった。画面いっぱいの昆虫は、見ているとざわざわする。海月も、脳味噌やエイリアンみたいなのは苦手。金魚は平気だが、ずっと目玉を見ている

と不安な気持ちになる。俺が過剰反応しているだけ、というのはあるだろうが、動植物を見たときに魅力と不安・不快が入り混じる時があって、自分の感覚だけど不思議だ。ぱっと見ではいいなって思っても、だんだん不安な気持ちになる。鉱物を見てもならないのにな。

 最近、新しい小説の骨子を夢想しながら、なんとか形にできたらと思っている。その為に、動植物や鉱物の本を読んでいる。綺麗なあれこれ。お金が、生活力がない俺は、そういうのを気軽に手に入れることができないけれど、本のおかげでとても助かっている。でも、本当は「欲しい」なら、手に入れた方がいいんだけどね、分かってるんだけどね。

 そうは思っても、俺には俺の生き方しかない。すぐに疲れてキレて嫌になる、うんざりする身体と精神。でも、その代わり、夢想することには向いているのかもしれないし、そう思わないとやってられない。

 書き上げたから何か変わるという訳でもないのに、小説を書いていないと不安で仕方がない。きっと、生産的な行為が全然できていなくて、生活も綱渡りだからだろう。

 制作の欠片を見つける為、誰かの幻想に現実にある物体の豊かさに身を任せる。それは怖くて疲れることだけど、それなくしては何も生みだすことはできない。目の前の非情でげんなりする現実よりも、まぼろしに目を見開いて。