え?あれサギなんじゃないの?

驟雨の後の小雨、貧相な胸板で、黒のタンクトップに風は涼しい。SadeのIs it a crimeを聞くとビックリする位はまっていた。夏なんて、夏だって、簡単に終わってしまう。

 小学生の頃はアニメをかなり見ていた。少女向けの物でも、何の疑問も抱かずに見ていたと思う。或る日兄と一緒に「幽白」(懐かしい、つーか富樫仕事しろ)を見ていると、画がいつもとは違うことに気づく「ねーくらまのかおへんじゃない?」「え?そう?」

 「ラッキョウの皮」のように、翌日オタクの友人にその疑問を告げ、作画監督という言葉を覚えた!!アニオタレベルが5上がった! 

 とはならず、俺も直ぐにそのことを忘れた。というよりも、作画監督と言う存在を、あの時から十数年後、この漫画を読んで初めて知ったのだ。この漫画ではその後で、「作画監督のチェックなんて素人に毛の生えた程度のオタクのたしなみで脚本・演出のチェックこそが重要なのだ」というガチオタの主張につながる。

 漫画や小説を、アニメや映画やドラマ化する時に、その作品のファンは大きく分けて、見る派と見ない派に別れる。俺は見ない(ようにする)派。一方見る派の人の多くは「原作に忠実であって欲しい」という願いを持っている。これは俺も良く分かる心情だ。普通話題の○○を△△化!なんて時には○○が目当てに食指がそそられるわけで、△△を担当する監督らに興味があって見るわけではない(ネームバリューのある、それだけで集客力のある監督の場合は逆転現象が起こるけれど)。

 しかし、それを担当する側はどうなのだろう。必ずしもその○○という題材に思い入れがあるとは限らない。降って湧いてきた、自分の実力を試せるチャンスで、原作に忠実にすることに、その監督のメリットはあるのだろうか?組織に属する者の一人として、求められた仕事をこなす、のは社会人として大事(当然?)だとは思うけれど、フリーターの俺は、監督側に肩入れしてしまいたい心情がある。それと、だったら一人でやればいいんじゃね?と思う気持ちも。

 俺が小説を書いている理由の、大きなものの一つに、一人で出来るから、というのがある(その次は金がかからないから)。何かを作る時に、パートナーに「あーなんだよ!」って思いながらも口に出せない、出さない俺は、集団で何か作り出せる人達をスゴイと思う。でもそのスゴイには「あースゴイっすね」というニュアンスも少し入ってますけど。

 アニオタの人が自分のサイトやブログで「原作」がどうのこうの、という話をしているのを見ると、監督の色とか解釈みたいなものは、原作のあるアニメの世界では殆ど求められていないのかな、と、門外漢ながら少し感じた。実際の所は分からないけれど、まあ、あまり好き勝手にはできないだろう。俺も「魔人学園」の外伝かなにかだと思って「転生学園」やった時は「何だよ!」って思ったけどね、っていうかあれはサギじゃないの、ってそれは話違うけどね。

 皆勝手にやればいーじゃーん、っていう俺の「感想」は現場にいない人間のものだけれど、やっぱり皆自分の我を押し出して欲しいな、と思う。電波なのだったら、普段アニメを見ない層、例えば俺みたいなのも(多分トーキョウに二十人はいると思うよ)見ると思うよ。