えらくない人だからそれが分からんのですよ

 すきすきすきっすふぃぎゅ@です。電波曲最高です。電波最高。電波になりたいです。電波。電波っていったらSFですよね、でも俺SF苦手なんす、歴史物も苦手。コーエイのゲーム何度も途中で投げ出してんの。髭オッサンが沢山出るゲーム。こんな根性無しじゃ『オランダ妻は電気うなぎの夢を見るか?』だってプレイできない!てかしねーよそんなゲーム、ってことでSF苦手の俺は『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読んでみることにしました。

 で、半分位で挫折しました。

 SFっていうのは登場人物は色々なことが出来てしまう。しかしそれのどこまで可能かがいまいち分からない。それでどの位の文明で文化程度で、なんて描写をせざるをえないのだが、すると文章が説明的になって興が冷める(SF好きの人はそういった設定を読むのが好きなのかもしれないけど)。

 俺はロボットの出てくるアニメや漫画をあまり見ずに育った。ふと、何で彼らはあんなにもロボットに乗りたがるのだろう?という考えが浮かぶ。カッコイイ機体、しかも能力も高い。それへの自己同一化、全能感、なんて納まりのいい言葉が浮かび、それはまあ、大きく外れてはいないかもしれないが、こうやって思いを巡らせることは、自分の欠損を見つめることに繋がるのだ。俺はロボットを信じられないのだ。ロボットはモノじゃないか、と感じる。同じ道具をずっと使っていれば愛着が湧くこともあるだろうが、やはりそれはモノ、マテリアルで、それ自体は記憶との結びつきが極めて弱い。俺は用が無くなれば、簡単にそれを廃棄出来るはずだ。作品内に登場する「特別な」ロボットやモノ、は現実には無い。

 思いつきなのだが、ロボットへの愛情とは(承認というよりも)所属への欲求に喚起されるものではないだろうか?ロボットは大抵組織によって管理され、敵ロボットと戦うことになる。これって歴史物と骨子は似ているように思える。どちらも戦争が起きる。主人公がそれを解決したり立ち回ったりする。ゲームっ子の俺も、そういうの好きなはずなんだけれど。
 
 身近な人が死なない世界での戦争や所属に対する欲求の薄い若者でも、ロボットに乗りたがるのだろうか?多分、乗りたい人は結構な数にのぼるはずだ。ただ、俺は違う、別の「ロボット」、「ロジック」が必要なんだ。コクピットの中に入り、雄々しい姿に同一化する、ようにして、俺も「ロジック」に身を投げ出す、いや、投げ出したいと思っている。ただ「ロジック」は俺の愛機ではないので、良くて振り回されるのが落ちだ。こんな俺でも何かの「コクピット」に乗ったつもりになれたりはするのだろうか。SF、というか、バラード位読んでみてもいいかもしれない。多分哲学とかと一緒で、相性が良くないならば一定数の訓練が必要なのだ。ゲーム脳から電波脳へなれるだろうか?