さいしゅーけーのその先もみんなみんなみんな嘘だ、って謳ってくれよ

探せど探せど決まらず見つからずじっとパソコンのモニターを見る、なんてことは身体に悪いからしない方がいい、リボーンの漫画を読んでリボーンのゲームをプレイして、そうだよ、仕事はマフィアになればいいじゃん、と思いついたのだけれど俺はイタリア語ができないし銃も使えないし、てかマフィアって日本で言うとヤクザってこと? 俺、ガリガリだから和彫り絶対に合わない気がするんだよなー(タトゥー雑誌に載っていた和彫りのソッチ系の人達はがっしりしているかふくよかな体型の人ばかりだったし)。

 新しく書こうとしている小説の中に、チョイ役でヤクザを出そう、かなあ、と思い、ぼんやりとしたイメージはあるのだけれどあまり詳しくないのだからヤクザ関係の本を何冊も流し読みをした。必要以上に賛美したり「悪」としてとらえていない本をなるべく選んだつもりだった。俺は彼らの「仕事」が知りたかったのだ。

 日本のヤクザはマフィアやギャングとは違う、と外国の記者が驚いていた、という記述が目にとまった。暴力団対策法が施行される前ではあったけれど、組の事務所を堂々と構えているなんて外国のマフィアやギャングではありえないことなのだという。また、ヤクザ、というと任侠とか男気とか、外国のそういった職業よりもやけに美化される傾向が強く、また、それらは一面では、正しい、らしかった。俺はヤクザ映画とかをほぼ全く見ないのだが、ああいう美化されている世界もある、らしいのだ。
 
 暴力団の資金源、とかニュースで流れる卑劣と言うべき仕事に手を出した同業者を軽蔑していヤクザもいる、ということにも驚いた。「カタギには迷惑はかけねえ」の世界だ。というか、実際にそういう親分もいるそうだ。で、その親分は何をして儲けているのか、俺は分からないけれど。

 かなり前に読んでうろ覚えなのだが、あべじょーじさんが中学生の頃「男を売る仕事をしねえか」と誘われてそっちの道に進んだ、という話を聞いて、こりゃあ中学生の頃こんなことを言われたら転んじゃうかもなあ、と思った(あ、でも俺中学の頃がっきゅーいいんしてたっけ)。また、じょーじさんは実際働くとなると全然そんなことなかった、とも語っていた(こんな簡単にまとめられることではないことは分かっているけど)。

 ヤバい何かがあるような気がしていた。きっとみんなそうだ。みんな? そう、何かがなきゃ駄目なんだと思い込んでいる「みんな」だ。その解答の一つが宗教でも会社でも学校でもいい、何らかの組織、階層型の集団に属することだ。「レベルアップ」を、数字で肩書きで実感できる場所に属することだ。何だって手ごたえがあると嬉しい。手ごたえがないとしたら、手ごたえをつかめないとしたら、人は世界の意味を構成構築できずに、おかしくなって、「組織」に入りたくなってしまう!

 読んだ本の中には、映画にあこがれてそっちの世界に入ってくる若者がそれなりにいるとのことだった。そうだ、いつの世にもどんな社会情勢だとしても革命を求める人はいる。そうだ、革命があればいい、でも、そんなものがあるか、「正しいのか」と俺は思っている。革命は正しさでは測れない。俺は革命から遠い。しかし、それがあればいいとも、思う。だから、革命への志向に関するナルシシズムを自覚している革命家か、恐ろしくぎらぎらした狂信者ならば、見てみたいと思う。

 でもそう言った物の多くの代価物(のようなもの)の一つ、イケメンホストとミニスカギャルが飛び跳ねるJ-RPGのような剣と魔法の世界、ではなく銃と仁義の世界が身近に感じられるとしたら、その道に進もうとする人に何て声をかけるべきなのだろうか? そう、例えばそれが知人だとしたら? これは(新興)宗教団体への加入や勧誘にも通じる問題だと思う。彼らの危険なファンタジー。俺は他人に迷惑をかけなければどんな趣味でも思考でもいいんじゃん、と思っている。つまり、他人に危害を加えるような行いを、いいとは思えない。つまり、革命や仕事(!)には向いていないのだ。

 どこかで、俺は「彼ら」が間違っているのだと思いつつも、小さな憧れを抱いている。それは彼らが持つ大きな信頼についてだ。俺は文章を書くこと、思考をすることとは、信頼から切り離されるべき作業なのだと感じている。信頼は何もしなくても俺に忍び寄ってくるから。断絶しているその薄い膜を、意識しなければならないし、それをはぎ取ったとしても、さらに違う次元の存在の膜が新たにあり、未到達であることを、どこかで確信しているのだ。

 ずっと俺は、自分は平気だとか大丈夫、とかそういうことを思っていたのだけれど、26になってやっと、大丈夫じゃないかもしれないけれどどうにかなるかもしれない、という当たり前の事を、言葉だけではなく、自覚出来てきたように思える。

 職業には貴賎はないが傾向はある、ということを十代の頃から感じていた俺は、意志があればどうにかなるのだ、と、恥ずかしくはないのだと、最近そんなことを考えている。俺には剣も魔法も拳銃も仁義も革命もないけれど、でも恥ずかしくはないのだと、そう思えるような生活を送るように、そんなことを考えると、蒸し切った部屋に微かな風を感じる。