イミテーションボーン、花

ジャック・ドゥミとかアキ・カウリスマキとかの映画を見ることが出来る位の気分にはなっていたし、その他、名前も忘れたような映画も見ることが出来てそれはそれでよかったし、今更また書く事もないだろう、と思っていたのだけれど、また、ダグラス・サークの『悲しみは空の彼方に』を見ると、書かずにはいられない気分になった。

 この作品はサークの最高傑作、とかなんとか、人から聞いたり活字でネットで目にしたりしていたが、本当にそう言っても過言ではない、本当に本当に、良くできた「メロドラマ」だった。


1947年ー美貌の未亡人ローラ(ララナ・ターナー)は1人娘のスージーとコニー・アイランドの謝肉祭にやって来た。そこで黒人女アニー(ファンタ・ムーア)と知りあった。アニーは白人の夫に捨てられ、8歳になる娘サラ・ジェーンを連れて職を探していた。2人は同じ身の上に同情しあい、ローラの家で一緒に暮すことになった。ローラはブロードウェイの舞台女優の口を探していた。

 というあらすじだけでもう、後は映画を見るのが一番なのだが、女優志望の女性が(男に稼いでもらうのではなく)女手一つでのし上がっていかなければならないことやら黒人白人の差別問題やら栄光と虚無感やら母娘のそれぞれの(白人同士の母娘と、黒人の母と見かけだけは白人の娘)葛藤や関係性やら勿論ある美人女優との業界人や業界人ではない男とのラブロマンス等、様々な要素を巧みに上手く消化していて、文句のつけようがないメロドラマに仕上がっていて、欲を言えば(ほんの)もう少しだけ(他のサークの映画に比べると)画面にカメラワークに気を使ってくれたならば、と思う箇所がないではないが、俺はこの映画を見て7回も涙を流していた。

 普通、映画で泣くにしても一二回程度なので、自分でも少し驚きながら、「ああ、泣き癖がついているんだな、というか、本当に出来がいいなあ」と感心しながら鑑賞していた。

 本当によくできた「メロドラマ」だ。映画としての様々な要素を、メロドラマとして(別に社会派映画、と見ることだって可能な程豊潤で刺激的な題材も含んでいるが)完成させているのが素晴らしかった。

 細かい引用や感想は避けるが、良くできているのだ、それで十分だ。そして、できたら多くの人に見て欲しい映画だと感じた。原題であるImitation of Lifeというのも、中々いいのだが、やはり、メロドラマ的に、邦題が(多少野暮だが)望ましいように思えたいい映画だった。

 いい映画で涙を流すことのできる俺、健康そのものの俺、が最近すげーなーと思った漫画家の内の一人、ルネッサンス吉田という女性漫画家が上梓している二冊の単行本、『茜新地花屋散華』と『甘えんじゃねえよ』について書こうと思う。

 ネットで彼女の著作のレビューを見ると、エログロ難解鬱、とかそういった評が多数を占め、実際それらも鶏姦輪姦売春頓服やらが溢れている内容なのだから的外れではないのだが、マンディアルグやサドや夢野久作らとかを「ふつー」に読める、むしろ、そういった要素なんてどうでもいいというか、だって、死体とかがあったとして、初めてとか急に見たらわーびっくり、だけど、じきに慣れるでしょどうでもよくなるでしょ? 皆惰性のおかげで生活をしたり仕事に従事出来たりするのに、そういった評ばかりあるのはちょっと寂しい。でも、そういった言葉をわざわざ書いた人達は、彼女の作品に魅力を感じていたからこそ書いたらしく、その点は少し嬉しかった。

 彼女の画はシーレ風、というか、主にガリガリの男や女らが登場し、漫画のコマ一杯に心情を吐露したりする(あまり大きくないコマにぎゅうぎゅうに押し込まれた活字)シーンや塗りつぶされたり消え去りそうな処理もそこかしこにあり、確かに「商業誌の文法」で読むのならば先ほどの評も的外れではないのだが、別にそんな読み方なんてする必要は全くない(というか感じない)のだから、帯にまで衒学的と表記された読まれることを拒否しているかのような活字の羅列やら、漱石ゴーリキー安吾らの引用やらも含め、素直に「書きたいものを書いているんだなあ」

 と、まで素直に思えなかったのが(二次創作の同人活動をしているそうだが)単行本としては処女作の『茜新地』で、「花」を売る店の店主になった男、に惚れた男、(の幼馴染で)に惚れた男、ら三人の高校生の話が収録されていたのだが、結構読んでいて楽しかったし刺激的ではあったのだけれど、多少不満点と言うか、疑問点も残った。

 これらの本はボーイズラブを展開している会社から出版されている(と思う)というか、まあ、この本も大体が男同士の性交シーンが多く出てくるのだが、やっぱり「ボーイズラブ」のレーベルから出版されているからには「ボーイズ」の「ラブ」がなければならないのだろうか?

 俺は二作目の『甘えてんじゃねえ』という短編集の方が読んでいて面白かった。作者が好きなゆらゆら帝国の気分がそこにはあった。俺もたまにてか、先日の日記でも書いた「駄目だ 俺はもう駄目だ オーイエー 俺はもう駄目だ」な、めちゃくちゃ勢いのある気持ちいいロック、っぽい感じがあったから。どんな状況でもユーモアがある。ユーモアがなくても、恐ろしさ(もっと困難だが)だってある(時もある)。うすら寒さだって、ある。ボーイズラブ以外の話もある。要するに、無理に「ラブ」を入れないでもいいような作品があったから。

 別に俺は「ボーイズ」も「ラブ」も、サミュエル・フラーが「暴力なんて!」と発言したように、どうでもいい。どうでもいいんだ。だって、要は、作品なのだから、「出来がいいか」「そうでないか」(と自分が感じることが出来る)というのが一番肝要なのだ。 無理に「ラブ」が出てきたような感じがすると、やはり、つまらなさを覚えてしまう。無理にと感じているのが俺だけなのかもしれないがとにかく、そう感じてしまうのだから仕方がない。




 どんなにグロテスクなものだって、すぐに(じきに)慣れるし、どうでもよくなる。だって、みんな、一番グロテスクな「生活」を行っているじゃないか。生きているってことは、程度の差があるにせよ、どうにか折り合いをつけているじゃないか。

 ネット上や「アートワールド(への参入希望者)」では様々な人が狂人、っぽい振舞いやら「ガチ」アウトサイドな表出(これを表現と混同してはいけない、って宮台せんせーも言ってたよね超同感!!)を行っているが、やるのは本人の自由ではあるけれど、その多くは「作品」ではないのだ。あくまで自意識が表出が先行していて、「作品」に対する敬意が決定的に欠けているのだ、だからそのほとんどが、路傍のホームレスのように、少し目を引く、ようなそんなものではある、

 けれど、彼らの多くは連帯を求め、また、したいことをしているしなければならないのだから、他人がとやかく言うのはお門違いとも言える。でも、消費する側としては、やはり、(サークのように、と書くのは大袈裟にしても)自分が構築しようとしている「作品」に対する敬意と「美しく(でもグロテスクでも砂のようでも何でもいいがとにかく)」作り上げる為の明瞭な意志が意識を才気を求める、それが、必要だろう。だって、さ、やっぱ作品を作りたいんじゃないの? 自己愛一発芸の後、人目を惹くのに必死なんて、「サラリーマン」よりもきつい仕事じゃないか?

 彼女の作品は真情吐露やら疑心暗鬼自意識地獄やら、そういった、厳しく言えば、或る種ちょこっと文学齧った詩人気どり、みたいな文章がないでもないのだが、きちんとそういう青臭さや焦燥や吐き気との距離がとられているのは、そういったものをあくまで「漫画」の中で適切に「配置」されているのには好感が持てた。というか、だからこそ、「ふつー」に楽しく読めた。この人の本をもっと読みたいと思った。作者は二冊の本のあとがきで

「馬鹿が付け焼刃の知識を披露すると、馬鹿であることを鮮やかに証明することができる実例です」
「筆者の自己管理の甘さにより、描き切れなかったこともたくさんありますが、それらを含めてこれらが現在の自分の力量なのだと思います。この単行本を自戒のものとし、これからもより一層の精進をしていきたいと思う次第であります」
「個々の作品に対して思うことは多々あり過ぎますが、それらはこの場で述べるより今後漫画を描いて伝えていくのがそうあるべき適当だと思いますので(後略)」

 こういったことを述べていて、それも好感が持てた。きちんとそれらの断片は、意志は、漫画に反映されていると思った。やはり、何らかの、誠実さは必要だ。何らかの。別にこういう形でなくてもいいが、俺はストイックな人が好きなので、こういう文章を読めることを幸福に思う。

 ストイック、骨と皮への、シーレ、アラステア。ジャコメッティ、バーネット・ニューマン(ブランクーシを入れても構わない、かも)、への憧れ。でも、まあ、サークの「メロドラマ」を見て涙を流せる程健康的な俺だから、骨と皮にならなくても、(本当は骨と皮で全身にタトゥーできらきら偽物宝石Imitation of Life、がかっこいいなーとも思うけれど)大丈夫だし、それに、しかるべき敬意を払うには、それなりの健康さが必要なのだ。脳に体に栄養を!!! そう、健康になろう、でも、もう、今のままで十分健康過ぎて、これ以上健康になったらどうしようと思う。