いつだって彼らは

 

 
 
 また原宿へ、といっても目的は紙粘土達、ということでラフォーレの途中で、オサレ兄さんに二回も声をかけられて、モデル詐欺か、専門学校生のスナップ批評の材料(今もあるかは知らないが、そういう授業内容がある)かと思うのだが、「頭の中で爆音で音楽が鳴っているから聴こえねえよ」ゆらゆら帝国状態で、スルーしてしまって(本当は暇だから話くらい聞いても良かった)、本当に、IPODイヤホン生活のせいで,人からの反応にワンテンポ遅れてしまうことが多々あり、ちょっと申し訳ないけれど、止められるとは思えない。

 幾つか買い物をしているとまた財布の中に全漱石が「グッド・バイ」で、まあ、必要経費ってことだから、しゃーない、よね?

 思えば高校生の頃が一番金を持っていたような、そんな情けない状態で、ふらふら歩く原宿の街並みも、つぶれた店、相変わらず繁盛し続けている店やいろいろあって、あの頃みたいにこの街に金をつぎ込んだりしてはいないけれど、なんとなく、寂しいような興味深いような懐かしいような気がして。

 小さい頃からやたら集中力が無い方で、やたらと写真家が漫画家が映画監督がバンドマンがとかなんとか、なりたいものは沢山あったけれど、不思議とゲーム制作に携わる人になろうと思ったことはなかった。俺は今でも主人公の名前に自分の本名を入れるし、最近はそれが無理なゲーム(音声が入っているので主人公のところだけ変になってしまう)もあり、やはりちょっとがっかりするのだが、そのことを大学の時に口にすると、割と俺に好意的な人が「ははは、ヨナさん、かわいいっすねー笑」みたいな態度をとられて、驚いた。え? だったら何を入力するの? なんでプレイするの?

 俺がゲーム制作者になろうと考えないのは、多分ゲームの中の登場人物気分が抜けないせいだろう。

 俺はゲームをほぼ毎日プレイしている。「イケメンになって人殺しを続ける(ついでに世界とか救う羽目になる)」のが、もしかしたら自分にとっての一番の娯楽かもしれないが、不思議とキャラクターへの愛情みたいなものは薄く、プレイしたゲームはほぼ、売り払う。新しいゲームを買う為に、それに、「俺と一緒にいたあいつらが」エンディングを迎えたって、幸福なエンディングを迎えたって、俺はまた新しい「あいつら」を探さなきゃいけないんだ、もう、そっちはそっちで好きにやってくれ。

 でもこんな俺でもとても思い入れがあるキャラクターがあって、俺はリサとガスパールとかティガーとかチェブラーシカとか、いわゆるキャラクターは家においても大丈夫だが、アニメやゲームの「人間」は何だか家に置きたくはなかった。でも、それでも欲しいと思ったのは、思いっきりネタばれになってしまうが、まあ、数年前に発売されたものなので勘弁してほしい。

 物語の最後で消えてしまう、ファイナルファンタジーティーダクライシスコアのザックス、キングダムハーツのロクサス。彼らは自分が操作するキャラクターでありながら、最後には消え去ってしまう。ゲームをやらない人には伝わらりにくいかもしれないが、数十時間も自分の現し身、分身だったキャラが死を受け入れる姿は、とても胸にくるものがあった。

 一応ティーダは続編での救済策があり、個人的な思い入れはロクサスとザックスの方が強く、ロクサスが「僕の夏休み、終わっちゃった」という台詞もかなり好きなのだが、プレイしている時はザックスの方がやばかった。

 ナンバーワンソルジャー(一級ソルジャー)を、英雄を目指し、見事それを実現させるザックスは同胞に言う、
「夢を抱きしめろ そしてどんな時でもソルジャーの誇りは手放すな」

 これは怪物になってしまった親友で先輩の言葉を受けての発言でもあるのだが、正直これを聞いた時は、ザックスの明るくて熱血主人公キャラであっても、気恥ずかしかった。でも、ザックスはその言葉を守り、仲間(クラウド)を守る形で死を迎える。

 これはファイナルファンタジー7(の主人公であるクラウド)の外伝的作品で、7の中でも軽くではあるがザックスがクラウドをかばって死ぬのが描写されている。でも、実際にクライシスコアでプレイをすると、どう頑張っても無限に増殖し続ける的相手に、自分でザックスの操作や回復は出来るものの、ずっと、ただ、大量の的に攻撃をされ続けていて、この展開は知っているはずなのに、もう、この時点でやばかったのだが、最後にザックスが
「俺、英雄になれたかな」
 と告げるシーンで、もう、声をあげて涙を流してしまって、そして俺は、彼の死が、圧倒的に正しいのだと、確信してしまっているのだ。

 アニメの漫画のゲームのキャラクターは永遠に美しいままで、教雑物を奪われていて、しかし彼らは自由を奪われている。永遠に、英雄的でいなければならないなんて!
 
 ゆらゆら帝国の歌詞でも「クレイジーワールド 漫画の世界も 本当は 楽じゃない」って歌っているし。本当に、大変だ。恐ろしく大変だ。

 ファンタジーにはよくある、禁呪により死者を復活させるという儀式も、ほぼ確実に失敗する。一応リラダンの『未来のイヴ』がk拡大解釈すれば、珍しい成功例と言える、かもしれないが、皆、二度目の生を許さない。

 後、割と初期のゲーム等でよくあった、ロボット(怪物)が人間の心を取り戻した瞬間に、仲間の犠牲となり鉄クズになる、というモチーフも、お涙ちょうだいやりやがってと思いながらも、胸にきてしまう。彼らはきっと死ぬことで初めて、生を得るのだ。

 でも、その彼らの運命を変えられるのが同人誌という活動なのだと思った。俺もクライシスコアのは、初めて買ってしまった。夢の続きを求めて、そして、書いている人もきっと。どんな人生も悲惨なだけじゃないって、俺も創作者もザックス達も知っているから。

 でも、やっぱり死を与えられるような存在は、彼らでしかありえない。「イケメン」で「かっこいい」、彼らだけが、死ぬことを許されているんだって、そう思う。あとは、もう、俺にはよく分からない。人が死ぬのはきっと悲しい。

 別のゲームだが、CMにもなった、サガフロンティアのクーンの言葉が忘れられない。彼は獣属の素直でちょっとバカな少年で、死亡しそうな星を守る為に旅に出る羽目になるのだけれど、彼は(故郷である)「マーグメルがなくなるとき、
ぼくはやっぱり泣くのかな。」 という言葉を漏らす。幼い彼は自分の星が、自分が死ぬことを実感できていない、けれど、漠然とそれを受け入れつつも、立ち向かっている。


 だから俺は死んだりなんてしては駄目だと、死ぬ資格はないのだと気づかされる。「かっこいい」「イケメン」に、もしなることが出来たならばいいけれど、犬死だって、それなりにいいものかもしれないが、そうではなく、カッコいい人だけが、自死を選んでも彼らのように、輝くまぼろしを見ることが出来るだろう。