水面をシネマにして

強い日差しを浴びて水面がきらきらと光を反射しているのを見ていると、何だか不思議な心持になる。俺が海とは縁が薄い生活をしているからだろうか? 海を見ると心が穏やかになるのを感じるのに、俺は海よりも、人工物のことばかりで


 雨の中の雑務やらで、風邪がなかなか治らなくって、ほら、好きになるのも感動してしまうのも、知っているものばかりで。

 ヴァレリーの『ムッシュー・テスト』、セリーヌの『またの日の夢物語』、その序文



現実は恐ろしい!
場所も、名前も、人物も、状況も、この小説に出てくるのは、みんな想像の産物だ!
徹底的に想像の産物だ!いかなる現実ともなんらの係わりもない!
これはただの<夢物語>……しかも、またの日の!

  俺が彼らの著作を愛している、として、つまり水面の輝きには心底からは身にはならないような気がしてしまう。どれもこれも欲しいというのは欲張りなのは分かるのだが、出来るだけ、元気に強欲にいかなきゃあなあと思う。

 早く、様々な寒さも風邪も、治れ、いや、治さなきゃな、俺。

 山田宏一の500ページにも渡る美しい記録、『トリュフォーの手紙』を再読する、と同時に、ずっと気にはなっていたが無視していた、ドキュメンタリー映画『ふたりのヌーヴェルヴァーグ ゴダ−ルとトリュフォー』を見る。

 高校生の頃、俺の映画のスターは、この二人だった。この二人はの映画で見られるものならば片っ端から見た。好きなもの嫌いなものイマイチなもの、色々あったが、とにかく、好きとしか言いようがないものがあることの幸福!

 このドキュメンタリーは予想していたように、新しいことは何もないというか、わざわざこの映画を見るほどのファンならばあー全部知っている(そういえばあったよね)みたいな内容なのだが、でも、やっぱり、それなりに楽しめてしまうのだ。

 彼らのことだったら、むかついてもちょっとひいてしまっても、なんだって許せるんだっていう、幸福。

 俺は批評家、評論家の人に対して「でも、結局安全件から物を言っているじゃないか」と思ってしまうことがしばしばあるのだが、蓮實&山田コンビの映画愛は、本当にすごいなあと思う。好きなものに対してこんなに愛情を注げるのだとこの二人は俺に教えてくれた。バカが褒め言葉になる、数少ない幸福な瞬間。

 山田宏一トリュフォーと20年も手紙のやりとりをしていたらしい。ゴダールも、トリュフォーと、決別までは頻繁にやりとりをしていたのだろう。

 手紙、とはすっかり廃れてしまったもので、でも、俺もこういうのを読むと手紙が送りたくなる。
 
 ゴダールトリュフォーは対照的に語られがちではあるが、向いている方向が家庭での成長と社会改革という風に異なる以外は結構似た者同士なのではないかなと感じることがある。何より、二人とも本気で映画を作っているのだと、俺にも感じられるなんて、なんて幸福なことだろうか。

 そしてこのドキュメンタリーの後半は、二人の映画監督に愛された、アントワーヌ・ドワネル、ジャン=ピエール・レオーに焦点を当てていて、その彼が『大人は分かってくれない』のオーディション映像をラストに持ってきていたのはきれいな構成だなと思った。

 『大人は分かってくれない』のラストで、ドワネル、レオー、トリュフォーが海を前にしてどこにも逃げられないのだと悟るシーンはとても有名で、『女と男のいる歩道』でジャンヌダルク、娼婦ナナ、アンナ・カリーナが『裁かるるジャンヌ』を見て涙を流したような寒々しい美しさに身を裂かれる思いがする。

 海のような火刑のような寄る辺なさ美しさ。でも、あの映画を見て感動した16歳の時の俺だってもうすでに「大人は分かってくれない」なんて思っていなかった。それは、現実だったし、それなりに大人に感謝していた。つまり、それなりに礼儀正しく振舞うし、大人を信頼していなかった。

 しかし、いつまでも肌の寒さに甘えることはバカのすることだ、と俺にツイッターでの人間関係相談、という俺には理解できない相談をしてくる友人からの言葉を大切にしたいと思う。ゴダールトリュフォーの友情、とは全然違うが、でも、正直に話してこその友人だと思うし、だからこそ、大切にできるから。正直な、現実は大抵しょうもないしそっけいないし、気分によっては受け付けなかったりするけれど、でも、水面のきらめきにまだ見ぬシネマに目を背けることのないように。幸福の為に。

 コアラのマーチを食べながら。