雨だれと散策と

ばたばたとしているというか、幸福なことと、げきおこなこととがあり、何だか眠りが悪く、睡眠時間が四、五時間程度の日々。そのくらい寝られれば、と思う人も多くいるとは思うが、俺は七、八時間位眠らないと頭が働かないというか、抽象的な、生活の役に立たないあれやこれやについて考える気力がなくなるのだ。

 面倒なことをこなすということは面倒なテキストを片づける気がなくなってしまうということなのかもしれない。でも毎日バリバリ働く哲学者なんて想像できないのだけれど(バリバリ働いても哲学者でもないのだけれど)


 映画、なら見てはいるものの、何だかあまりはまれないというか、こういうのは見たはしからどうでもいい感想を書き散らすほうがいいのかなと思う。どうでもいいことを書き連ねるにもそれなりの手わざと惰性が必要で、本来のものぐさに鞭をうち、惰性と手を取り合って。
 
 とはいえそんな気分にもならず、適当に自分で書いた雑記を見返すと、他人事のようというか、まーめんどくせーなー、みたいな感想が浮かんで、少し、面白いなと思う。他人の雑記を読むの、結構好きだ。俺も書かなきゃなと思う。

 最近は割かし、休日になれば人と会う約束を取り付けて会うようにしている。小さいころ、俺はかなりさびしがり屋なのかと思っていたが、中学の終わりころか、自分はそうでもないことに気づく。自分がさびしがり屋だとして、他の人はもっと、そうらしかった。

 というか、俺は人と一緒にいるのもとても楽しいけれど、一人遊びも大好きで飽きなくて、とても楽しいのだった。

 だから軽く引きこもりみたいな状態にもなるし、なんだか無性に家にいたくない時もあり、人と会うのは楽しいのだが、会う以上当然それなりの出費があり、来月の支払いは、なんて考えてしまう俺はしょーもないものだが、はらはらと、色々とどうでもよくなる感じが、それなりにどうしようもないし、心地いい。

 高校生のころに読んだ永井荷風の『雨瀟瀟』を再読。というか、最近再読した本くらいしか感想が上がらなくて、いいんだか、悪いんだか。それに睡眠不足とうわっついた心持で、根をつめて読み進める(つもりで何年も放置しているリスト)のには立ち向かえない。

 ともあれ、クソ性格の悪い、クールで遊び好きなおぼっちゃま、というのは好感を抱かずにはいられない。


「點滴の樋をつたはつて濡縁の外の水瓶に流れ落ちる音が聞こえ出した。もう糠雨ではない。風と共に木の葉の雫のはらはらと軒先に拂ひ落とされる響も聞こえた」

 岩波の旧字体の活字で読むと、「郵便物は皆しつとり濡れていた」というのがとてもよく伝わってくる。雨自体はあまり好きではないのだが、建物の中で感じる甘音や涼やかさは心地よいものだ。

 冬の夜中に、盛りを終えてあるいは、盛りの前に、一人駅のホームで妙に冷静な心持ちになっている時に、少し似ているような気がする。

 


 きみのせいじゃないさ訳もなく
 気分はいつかブルー

 もう少しだけドライヴしよう
 流れ星を一晩中くぐりぬけて


 ピチカートファイヴオリジナルラヴの「夜をぶっとばせ」の動画をを探しているつもりがこっちの動画を見つけてしまった。

 
http://www.youtube.com/watch?v=1piAbxWeWZc&feature=player_detailpage&list=RDbLWB4k1uJ2o#t=90

 素晴らしい、としか言いようがない、のだけれど、youtubeに無数にアップされている素晴らしい動画の数々に思いをはせると、どうであったとしても、雑踏の中の孤独を意識するような、身体の芯が重いような気分になる。

 でも、いつまでもブルー、でいられるわけもなく、俺が出来ることはささやかな消費を喜びを。

 

 これも昔読んだ、武田百合子の幸福な食に関するエッセイの中の一文が、何だか(その本の色とは異なるのだが)とてもすうっと、頭に身体にしみる。



 枇杷を食べていたら、やってきた夫が向かい合わせに座り、俺にもくれ、とめずらしく言いました。肉が好きで、果物などを自分からたべたがらない人です。
「俺のはうすく切ってくれ」
 さしみのように切るのを待ちかねていて、夫はもどかしげに一切れを口の中へ押し込みました。
「ああ。うまいや」
 枇杷の汁がだらだらと指をつたって手首へと流れる。
枇杷ってこんなにうまいもんだったんだなあ。知らなかった」
 一切れずつつまんで口の中へ押し込むのに、鎌首をてたたような少し震える指を四本も使うのです。そして唇をしっかり閉じたまま、口中で枇杷をもごもごまわし、長いことかかって歯ぐきで噛みつくしてから嚥み下しています。


 ほのぼのとした空間の、ふとした生々しさと幸福。ふと、した瞬間というのが結構好きで、それは単に俺が飽き症であるということなのだと思うが、ふと、間違いを喜びを受ける為にはやはり、どうでもいいことを消費して、蕩尽出来ますようにと思うと、寒々しさもいつもよりもさらに心地よく感じられ、また、幸福も大事にしたいとも思えてくる、かのような。