クマトラと彷徨

気がつけば6月も終わりに近づいている。色々とぼさっとしている間に日々が流れていってしまったような感もある、怠惰ないつもの俺。

 ちょこちょこ映画を見てはいたのだが、あまりグッとこない。音楽もあまり借りていないし買っていない。

 とか言っても、それなりにこなす、それなりに過ごしてしまう日々。

 
エルメスのル・ステュディオで『アンダルシア』と『イージー★ライダー』を見る。

フランス人で、マグリブ系移民の息子であるヤシーヌは、自由を求めて旅に出る。束縛もなければ定まった仕事もないヤシーヌは、パリの昼と夜をさまよいながら、奇妙な巡り合いを通して、その瞬間瞬間の人生を生きる。幼なじみのジブリルとの再会や、自分の家族、異国の人々との対話を経て、彼は自身の出生や満たされぬ思い、フラストレーション、さらにはフランスと北アフリカという二つの文化のどちらにも完全に所属できない複雑な思いを痛感することになる

 という説明文の『アンダルシア』だが、思ったより感情移入もひりひりするような表現を見出すこともなかった。題材はいいし、映画だって収まりがいい、というかきちんと形になっているとは思うが、まあ、俺の好みではないといえばそれまでだけれど。

 それに比べて、高校の頃に見た、そう、15年ぶりくらいに再見した『イージー★ライダー』は思っていたよりもずっと胸に来た。題材としてはこちらのほうがずっとロマンチックで感傷的ではあるのだが、あのラストシーンの素晴らしさもそうだが、荒野をバイクで駆ろうが、女性を買おうが、ドラッグに耽溺しようが、どんづまりというか、出口なし、ということが前編に漂っている。出口なし、の中で、間抜けに楽しく日々をごまかしたり、そうでもなかったり。

 好みの問題ではあるが、『アンダルシア』はお坊ちゃんのモラトリアムという感じがしてしまっていて、それはそれで切実な問題ではあるのだが、『イージー★ライダー』の自由なバイカーのようでいて虚しさの漂う空気感とはまるで別物なのだと思うのだ。

 それを言うと、先日、いや、数週間前に見た『シェイム』がかなり胸にきた。

 簡単に言うとセックス依存症の兄の家に恋愛依存症の妹が転がり込んできて、みたいな話なのだが、兄は会社では割りといい位置にいるエリートらしく、ナンパ好きな上司をたしなめたりしながらも、実際は女漁りが止められない。

 会社のパソコンで見たわいせつサイトを問題に上司に怒られる位だ。でも、彼は取り繕うのも上手い。ナンパをするし金でも買う。スカイプでもする。

 でもそんな兄はメンヘラ気質の愛、恋愛、依存の妹をどうしても受け入れられない。
相容れない二人の諍いの中で「たった二人の兄妹なのに!」というような言葉を言う妹が痛ましい。

 確かにこの映画ではこの二人の両親は出てこず、死別が絶縁状態か、何らかの問題があることが示唆されるが、機械的な性交渉を重ねすぎる兄とロマンチックすぎる夢想に耽溺して、それに相手を参加させようとする妹とはどうしても相容れない。

 不毛だ、救われない、いくらしても止められない、のに、様々なことがあっても、彼の人生は続いてしまうのだ。

 結構好みの映画だったが、でもあえて不満点を上げるならば、カメラワークも構図も悪い意味で小奇麗すぎて、しかも後半の落差のためにベタな演出になりすぎていること。悲惨な状況を思いっきり悲惨にドラマチックにしなくてもなあ、と思うし、リストカット血だらけ演出とかも、性欲が行き過ぎて男同士の場に入った時のいかにもな怪しげなエフェクトとかも。

 ただ、俺の超好みの映画よりも、こういう映画のほうが、エネルギーはあるなあと思う。そう、依存症の、依存的な怖さ、自己嫌悪というのをこの映画はとてもよく表しているし、一部の人にとってはこの主人公たちの間抜けさが全く笑えないだろう。

 依存、固執、愛はなし。

 でも、かといって、何気なく色々な問題をすり抜けて、気にくわないことに目をつぶって行きていけるほど、自分に「甘く」はないのではないだろうか?


 依存症の処方箋とはなんだろうか? もしかしたら、何がなくても、何もなくても生きて行けてしまうという身も蓋もない、生きる意欲をも失う事実なのかもしれない。

 初台の東京オペラシティで行われている、高橋コレクションミラーニューロン展』に行く。だって、名和晃平の作品があるから!!!

正直現代美術の作家達の殆どに興味が無いというか、キャプションや美術史の中で自立できるような作品なんて雑誌やネットでちら見するのでも十分、という気がしてしまうし、実際この展示の半分以上はマジいらねーとか嫌悪感をもよおすほどだったのだが、でも、このコレクションは超大物ばかりが揃っているので、それなりに楽しめる。というか、めっちゃ好きなひとからめっちゃ嫌いな、いや、価値が全く分からない人まで集まった展示を見られるというのも、中々面白いことかもしれない。

 目当ての名和晃平の作品『pixcell lion』はその名の通り、球体を重ねあったライオンの立体作品になっている。ミクストメディアということで、というかガラス球を重ねづけしただけではないのは見れば分かるのだが、見る角度や距離によって、作品が変化しているように見えるのがとても素晴らしい。それでいて、当たり前だが、これは「ライオン」であるのだ。ミクストメディアの怪物(それはそれでいいのだが)ではなく「ライオン」として俺に迫ってくる。

 写真では捉えきれない、その場で見る価値がある作品だ。光の反射や屈折で姿を変えるのはもちろんのこと、大きな立体作品のマッスがとてもいい。自分の目に映して体験したくなる、という幸福。

 素直に欲しいと思えるさくひんなんてそうそうない。でも、彼の作品は欲しいと思う。まあ、俺の年収の何倍何十倍なんでしょうね…というものですけどね

 胸に刺さる、本当に好きな作品の幾つかに触れると、身体から何もかもが失ったような心持ちになることがある。そんなものばかりで生活するのは、生活が成り立たなくなるという意味で、多分、自然と惰性と恒常性が手をとり、様々なものを隠蔽するような日々を送っているのだろう生き延びるために。
シェイム、SHAMEを見ないようにして。

 その言葉が本質的に自身に迫るならば、その「SHAME,恥」は直視できないようなおぞましいものだ。おぞましい、とは、つまり本人にとって耐えられないということなのだ。これを直視していきられる人なんていないような気がするし、出来るよって人には、多分、罪悪感とか恥の概念が薄いか、自己愛、自己肯定の強いひとなのかなと思う。それぞれの人生が価値観があるから、誰がいいという問題ではない。でも、自分のダメな部分くらい知っていてもいいのではないかなと思う。

 今に始まったことではないが、俺もまた「やべえなあ」と思いつつ、それをもう少し建設的なことにも目を向ければなと思うし、あと最近くまのプーさんにはまっていて、プーさん欲しいね。リアルの。でもハチミツってめっちゃ高いのな。
オサレショップだとちっこい人壜で2000越えとかザラだし。プーさん家にいたら、破滅するね。

 ぷーさん。とか実用性のない服を着て、なんだか、背筋がぴんとなることがある。移り変わる、寄る辺ない依存性があるとしても、別のものを見られるんだってこは忘れないでいたいな