そう、たまにね

家の中に物が多すぎる。金がない、とは別に、置き場所に困って何かを買うのをためらってしまう。しかも俺は、本とかゲーム、一度処分したのもう一度買いなおしたりとか馬鹿なことをしてしまうし。

 人と会わない日が、眠ってばかりの日が続くと、自然と洋服への関心も薄れ、外に出る時はいつも同じ格好、という最低なモチベーションだった。でも、洋服屋に行くのは、見るだけでもやっぱり楽しい。

 一番欲しいなあと思ったのは、サンローランの、黒のライダースで半分くらいレオパード柄になっていて、お値段70万也。なんでこんなのばっか欲しがるのか胸がときめくのか。誰が似合うんだこれ、みたいな服ばかり好きだ。

 実際家の溢れ出ているクローゼットの中も、そういう「好きなのにほぼ着られない」哀しい洋服と、シンプルなモノトーンの服が多い。そして服屋に行くと、割とあるあるだと思うが「自分の好きなこの服、家にも似たようなものがある……」という現象。

 本当は好き勝手にそんなの構わずに買いたい気持ちもあるが、もう数ヶ月服を買っていない。でも、ごちゃごちゃした家の整理はしなければ、と思っている。

 最近ようやくまともな本を読まねばな、と思い、でも好きな古典作品は再読する気になれないから、SF系のを読んでみたのだが、やはり、合わない。当たり前だが、惑星の危機や病原体や調査やらはあっても、そこにオシャレとかポエジーとかそういうちゃらついた物はないのだ。

 というか、そう言うのを盛り込んだら、説明過多になるから省いて正解なのだけれども。

 知らない作家の幻想文学もダメで、いや、これは単に俺との相性が悪いだけで文章は昔ながらの、といった感じなのだが、途中で読む気をなくしてしまった。

 昔の一部の作家と、今の作家の方が、もしかしたら、ドライブ感というのは優れているというか、そういう方向性にシフトしているのかもしれない。それを(皮肉を込めて言うならば)読みやすくオレカッケー的に特化したのが一部の人気ライトノバルで、その長文の上に、不明瞭で読みにくくて、美しいのが、文芸と呼ばれるものかもしれない。

 (これは好みの問題で、どちらが上とかいいたいのではないので。念のため)

 それで、俺は体調がかなり悪化する少し前に書き上げた小説があって、それ以外にももう一作位書きたいな、というか、そうしていないと、文字を打っていないと、もう、死んでるのも生きているのも境目がぼんやりしてきている、死にたいのでも行きたいのでもないのだけれども。

 それを考えると、手慰みでアップしているファンタジー小説は、いい暇つぶしと、文字を書くリハビリ効果もあり、いいことだなあと思った。

 そうそう、小説内に 旧約聖書の偽典の一つである『エノク書』 と、ロガエスの書(ロガエスのしょ、Liber Loagaeth)は、16世紀末にエノク語で書かれた未解読の文書。
ジョン・ディー博士著。

 というのを登場させているのだが、偽典って言葉だけで好きだ。俺は。あと、露ガエスの書、と言うのも、人によってはただのつまらないアウトサイダーアートだという見解もあるそうで、興味深い。色んな経典の破天荒で意味不明でご都合主義で、それでも信じられる、信じようとする、ということ。

 その物語で後半、主人公は四代天使から「メシア」だと祝福を受ける。


主の聖霊は地上に満つ、アレルヤ 
彼は世界に安定をもたらし、あらゆる言葉を知りたもう、アレルヤ
神は身を起こし、その仇敵は四散せり 神を憎む者らはその眼前より逃げうせたり
御父、御子、政令に栄光あれ

憐み給え 聖者、王国を統べるものよ 最も位高き天使らが、絶え間なく
 御身が玉座のまえにつどいて 栄光を讃えてつつ歌をば捧ぐ 憐み給え


 なんて言われて、その気になるけれど、彼は自分がたまたま成功した人形の一つであることを知る。目の前で、自分と同じものが、ドンドン作られては適正が合わなければ消去させられる光景。

 人工のメシア。スクラップの中から産声を上げたメシア。民に神に天使に奉られ崇められ処分されるメシア。

 そういう姿に似ているから、俺は、自殺した、さっさと死んだスターが好きだ。(長生きしている素敵な人も勿論好きです)

 彼らは薬物に依存していたり愚かであったり迂闊であったり貧しかったり、いろんな要素が重なってそうなってしまったのだろうけれど、彼らのことを思うと、俺も屍みたいなふりを、生活をやめて、もう少し、かっこつけなければな、と思う。

 それで、かっこつけの小説ばかり書いて来てしまったから、ファンタジー小説の中で必然があったから、普段書くわけない、というか初めて書いた愛のシーンを書いたら、手慰みだとはいえ、自分で「あ、書きなれてないからか恥ずかしくなっているな、もっといつもみたく露骨にいやらしくしなきゃな」と思い直した。

 俺が愛の小説、と言って思い浮かんだのが、コーマック マッカーシー とジャン ジュネで、マッカーシーはあまりにも健康的すぎるからか、ジュネの方が、好きだ。あの、傲慢な愛情が。そして、彼の愛は、惜しみないから。まるで、花々のように。

 実生活で愛、と言われると、戸惑いが浮かぶ。他人事のように。
 瞬間や破片がぼやりと浮かんで、それが幻のような、俺が何かを忘れてしまったような忘れたがっているような気になる。
 
 愛が無くても人は生きていけるだろうが、傷口や戸惑いがなければ、きっと、俺は、生きていけない。だから、文字が、小説が書きたくなる。