泥に咲くのは睡蓮と死体

酷く気分が悪い。

こういった書き出しにも飽き飽きしてしまっているのだが、沼の中から抜け出せずにいる。浅い汚泥の中でもがいている気分だ。いつ、これから解放されるのだろう?

何かを飲んだり、目隠しをして誤魔化すのがほとほと嫌になってきた。

金がないのに(自分としては)散財をしてしまう。

でも、無駄遣いをできない人生なんて、狂ってる。

 

ふと、自分がタトゥーを何年も入れていないことを想起する。

大好きなんだ、針を刺されるのも刺されている最中になんだか飽きてきてしまって暇になるのも、出来上がったモノクロのアレゴリーも。

 

 ただ、何をするにもお金がかかるというのは本当に問題だ。

 働くのが好きか、他人からお金をだまし取るのが好きならよかった。

 あ、この二つは同じことか。

 

 フォーレのピアノ四重奏というのを聞いているのだが、なんか好きだ(クラシック知識がまるでないのだ)。というか、クラシックばかり聞いているのは、自分としてはやばい兆候かもしれない。俺にとってのクラシック音楽は(大好きなバッハは)風や雨などの自然の音に近く、完成されていて穏やかな物だからだ。(なので俺はうるさいテクノやロックが好きなくせに、仰々しいクラシックは苦手なのだ)

 

 どうせ死んでしまうのだから、やることを済ませてからがいい、なんて思ってはいるものの、薬やアルコールの力を借りて鬱々と、うつらうつらとしたまま眠りにつく日々。

 

 そんなホームレス予備軍の日々の中で、自分が好きなのはエレガンスだなあと改めて思う。エレガンス。それは滑稽で美しい美意識。それをするには寝ているだけではだめだ。無駄遣いをしてたまに悪口を言って上品でなければならない。愚かでなければならない。愚かであって、美しくなければならない。

 

 最近俺は鏡をあまり見ないようにしている。鏡は、見なければならない。そんなことは分かっているけれど、自分の様々なことを忘れたい、けどそんなのは無理なんだ。俺はこれまでの俺で作られていて、様々などうでもよい傷と美を捨てられずに後生大事にしているのだ。

 

 最近人間関係で酷く嫌な体験をして、それが未だ尾を引いている。それについて書いた雑記は、色々とフェイクを入れながら書いたのに、自己嫌悪で消してしまった。

 

 自分の人と会話する能力のなさに(うわべだけは、その場を取り繕うのは得意なのだが)げんなりする。何度も同じような失敗を繰り返しつづけるという低級地獄。

 

俺が動物や花が大好きなのは、人間関係が苦手だからかもしれないと思うと、またげんなり。人が嫌いなんじゃないんだ。ただ、コミュニケーションがこんなにも難しいなんて、いや、みんなが、こんなにも神様とかエレガンスとかゲームとかについて考えていないなんて!

 

 結局俺は小学生のまま身体だけは老いて、置き去りになっている。いや、自分でそこにとどまることを選んだのだ。

 

 クローゼットにある、昔、好きなブランドの服がなんとなくしっくりこない。三十過ぎれば誰もが経験することかもしれない。

 

 いつまで俺はこんなどうでもいい言葉を吐き続けることができるのだろう、という経過をここでしているのかもしれない。疲れた。