冬に逢いましょう

建物の老朽化で原美術館が閉まるそうだ。美術館はどこもそれぞれの良さがあるような気がするが、あの庭つきの、落ち着いているけれど開放的な空間はあそこだけの空間という感があり、何だか寂しくなる。老朽化が原因というのも、今までよく頑張ってくれた、と言いたい建物に。

 

 原美術館で記憶に強く残っているのはサイ・トゥオンブリーの展示で、数年前に見た展示の感想を日記に書いていたので、そのまま張り付けると、

 

最初はあの執拗な、落書きのようにも見えるフリーハンドの素描のような絵画が見たかった。子供の「らくがき」のように見えて、しかし、それはやはり、とても美しいのだ。センスがいいとか、構図が優れているとか、何を言っても不十分だ。とにかく、目の前の引っかき傷のような、ストロークのような、線の画が美しいということ。

 それに加えてペインティングの絵画もとても良かった。無題であったりあまり意味をなさない(であろう)題名の連作等が、とても艶かしく美しく活き活きとしていて、カラヴァッジオレンブラントのような生々しさ、あるいはマティスのような躍動感を感じた。

 抽象画を生き生きとさせるものとはなんだろうか?十年近くまえに目にした、カンディンスキーの言葉が忘れられない。彼が美しい、と思ってしまった自作の画は、逆さまになって陽光に照らされていた自身の画であるという、しょうもない、恐ろしくも微笑ましい発言。モーパッサンの『知られざる傑作』も想起する。

 そう、写真家のラリー・クラークが以前「年老いた俺を、あいつら(若いストリートのワルガキ)は年老いたオカマみたいに見やがるんだ!」と発言していた。その痛々しさ、ゲイではないのにも関わらず、幼き日のヒーロー<ワルガキ>共に魅了さえる不毛な情熱。

 

 あの時の自分はこんな風に感じていたのだ、と思い返すのは結構楽しくも興味深い。みんなもツイッターやインスタや動画配信ではなくもっとブログを書くといいと思う。みんな大切なことをすぐに忘れてしまうから。数年ぶりに、忘れたくないことに出会えることもあるから。

 

 原美術館の閉館を知って、想起したのは川村記念美術館で売却されてしまったバーネット・ニューマンのアンナの光のことだった。俺は大学の時に友人とそれを見た。本当に、すごいと思った。

 

 拾い読みをするように、雑に様々な物に触れていると、自分がその中の一握りの美しさしか解さないことに気づくようになる。そしてその一握りの物ですら、自分の触れた手からすり抜けていくことも。

 

 絵画は印刷されると色味が質感が変わる。当たり前のこと。でも、それでも印刷されたそれで満足できてしまう、いや、むしろ現物よりも本に収まったそれの方が良く見えることもある。

 

 好きなミュージシャンだって、ライブの生演奏を聴いて、修正されていない彼らを見て興が冷めることだってある。

 

 だから、生身の作品に、人に出会って感動できるのは、とても素晴らしいことなのだと思う。

 

 見て、あの空間に行って、もっとアンナの光が好きになった。家に欲しいと、何度もこの作品との時間が欲しいと思った。でも、俺は川村に気軽に行けるわけではない。それに、(売却先が)海外に行ってしまったなら、もうきっと会えない。寂しいし、それでいいと思っている。まるで昔の恋人、昔の片思い? それよりもきっとロマンチックだ、だって、作品は喋らない。貴方のナルシスとセンチメンタルに甘い。でも、セックスはしてくれないけれど。

 

 ずっと美術館に行っていないから、という気のない理由で、bunnkamuraの国立トレチャコフ美術館所蔵 ロマンティックロシアの展示に行く。

 

 先日たまたま同年代でコンセプチュアルアートを制作している人と少し話した。

 当たり障りのない話題、「最近何か見ましたか(良いのありましたか)」と尋ねてみたら、相手が少しはにかみ「いやー……あと、入場料高いですよねー」と返してきて、同感だった。

 

 その人もそうだったのだが、制作する人は、その人が有名無名、力のあるなし問わず、驚くほど他人の作品や美術史やら批評に無関心なことが結構ある。自分のことで精いっぱい、というか自分にしかできないことがあるから、そう思い込んでいるから何かを作れるのだと思う。

 

 他人の作るもので満足できないからこそ、何かを作る、とも言える。だって、世界には優れたものが素晴らしいものがあるのに、でも何かを作りたいって、無邪気なのか偏屈なのか。或いはその両方。

 

 でも、外からの刺激がないと何も作れなくなる。でも、刺激には鈍感になっていく。だから、出不精な俺は毎日のように「〇〇に行ってない、見てない、聞いてない、でもお金がないし……」というケチ臭い、しかし本人としては切実な思いに苛まれながら、身を切る思いで千円程度を払う。千円、二千円で身を切る思いがする三十代ってやべーな、と思う。馬鹿らしい。面白い。自嘲ではなく、他人事みたいな間抜けさにおかしさにふと、気が楽になることがある。

 

 要するに身を切ろう。美術館にはたまに行こう、という話。

 

 bunnkamuraザ・ミュージアムのいい所は渋谷にあること(俺の家から近い)。そして展示がいわゆる有名作品を取り扱わないこと(有名な人だって好きだ、でも、とても込むから嫌だ)。我ながらとても消極的な理由で失礼な気すらしてきたが、でも俺が一番行っている展示はここなのだ。気軽に行けるというのは良いことだ。

 

 ロシア芸術、といって頭に浮かぶのがドストエフスキーゴーゴリやらの粘着質もう質的な、寒さに耐える文学、アルコールの熱、ウォトカ。なのだが、この展示は題名がロマンティックロシア、ということで全然そうではない、むしろ印象派の作品に近いような、見やすい、万人に受け入れやすいものが並んでいた。

 

 十代の頃は印象派の作品についてなんでこんな質のいい、毒にも薬にもならないものを、等と心中で毒づいていたものの、二十代半ば位からか、割と素直にそれらを受け入れることができるようになってきたように思う。大好きではないが、好きだと思う。彼らは決して俺を傷つけたりかき乱したりしない、でも丁寧で居心地が良いのだ。

 

 今回行った展示も、風景画が多く並んでいて居心地が良い。風景画なんて退屈しそうな気がしないでもないのだが、当たり前だが、木や花や空を描いても、それぞれの画家の筆致が油絵具の厚さが息遣いが違う。彼らが見る自然に同じものはない、なんていう頭では理解している、さかしい中学生でも分かることが体現されている。

 

 分かっているのに、それをしばしば忘れてしまう。マチエール、マッス、デッサン。それだけでも感動的(なこともある)だということを忘れない、思い出すには、作品に誰かに出会わねばならないということ。

 

 気のせいか、たまたまテーマにそっているからか、その何点かの風景画がどこか物悲しい雰囲気も合わせ持っているように見えて良かった。キャプションによると、ロシアの風景画で冬の雪景色を描いたのはわりと少ないらしい。ロシアといえば寒さや雪を想起してしまうのだが、それに慣れ親しんだ生活者は繁茂した景色に焦がれるということなのだろうか。

 

 大好き、とまではいかないけれど好きなフリードリヒやアンドリュー・ワイエスの作品が頭に浮かぶ。暖かさ寂しさ物悲しさ。部屋の中で寄り添って欲しい絵画たち。

 

 この展示では応援キャラクターにロシアのチェブラーシカが選ばれていた。コマ撮り人形劇というのは何だか寂しい感じがする。野暮ったい、キラキラしていない、可愛いというよりもどこか不気味な感じすらある人形。チェブラーシカは家に人形がある位好きなのだが、その映画はかわいいけれど少し怖い感じもするのだ。作り物の持っているフェイクな感じとかわいらしさがどちらもある。

 

 日本のアニメーションはとても出来が良くてキラキラしていてそれも大きな魅力の一つだと思うが、チェブラーシカらが持っているちょっと不気味なかわいらしさというのが自分にとっては好みのものだ。

 

 また、外に出なくっちゃなあ、仕事探して仕事しなきゃなあと思う。家の中で本を読むだけでもいいけれど、働かなければと思いつつも、家にこもって朝から世界樹の迷宮Xと読書を交互にしていて、それに飽きてする雑記。

 

 雑記を書くのは頭の整理に良い。頭を整理する為にも、楽しい下らないおしゃべり。とりとめのない話のためにも、もう少し活動しなければ、等と思いながら外の寒さに早く春になってくれと思うが、春になったらなったで良い温度だから窓を開けての午睡、といった様子がありありと眼前に浮かぶのだ。