神学はハウスミュージックのように喉を絞め上げ

 喋るべき言葉がない、というよりも、自縛的になっていることを意識する。しかし口にしないと言葉は錆びる。沈黙こそが最善だと思っていたけれど、それだけでは生きられないことを意識する。

 しかしながら、俺にとっての最大の命題は神の不在であって、もうその時点で救いなどないことが確定しているのだ俺の中だけで。帰依できない帰属できない人間の離人感。

 恒常性を起因として思考が生み出されると言う、人間の在り方について疑問を覚える。フォイエルバッハの神学は人間学だ、という言葉が胸に刺さる。心理的逆転のように甘い棘のようにそれは抜けることがない。人間学なんてどうでもいいんだ。神学があるならばいいのにな。信仰があるならばいいのにな。

 だから俺は哲学的な生き方、思考ができない。その上社会人としての生き方もできない、というか壊滅的で身震いする。

 何ができるか、というよりも冷蔵庫の残り物を処理するかのようにして、自分の思考を編集する作業、散らかった雑文にどうにか秩序を与えようと小説を書く。それだけが俺が素直になろうとするレッスンであって、なんとか生きている、と思えるような気がして来る。

 のだけれども何とか生きている、ではなく生命を全うしなければ消費しなければという思いに時折駆られるのは、俺に語るべきものがないと思う時があるから。或いは単純に摩耗してしまった、かのような錯覚の中で迷子になるからか。

 愚かでも醜くても眼を見開いて、楽しく生きた方がいいのに俺は汚い薄布を何重にも巻いて自らの顔を隠している。見なければ何もないのと同じだと嘯いて。

 増村保造監督『好色一代男』を見る。市川雷蔵の奔放な演技は見ていてとても楽しい。明るい色狂いを軽やかに描く、とてもたのしい娯楽映画。若尾文子もとても綺麗だった。

 ふと、この映画を見てジュネの姿が頭をよぎるけれど、彼はそこからまた別の所にいた。って当たり前の話だけれど。色狂いは、崇拝はジュネにとっては別物であるからこそ彼の書く文章は痛々しくも淫靡だ。

 愛情の枯渇、ということをよく感じる。そもそも俺に愛情があったのか、と思うとうすら寒い気持ちになってくる。良識的良心的であったとしてもそれは愛から離れている。自分がいかに稚気ばかりを優先した生き方をしているのかと思うと頭が痛い。中年の面をした小学生のおぞましさを知るのは本人だけだ。

 過日、モードの映画や本や服に触れ、自分がその世界にはいないことを再確認すると共に、その美しさに魅了される。

 いや、その世界にいないというのは正しくない。お金を払って客のふりをすれば、参入しているふりをすることができるのだ。なんて楽しい世界なんだろうモードの世界は。
 
 ただ俺は湯水のごとくお金を使えるどころか数か月先のことを考えると思考が停止する有様で、貧すれば鈍する、ということに加えて口をつぐんでいると確実に俺の思考は貧しくなっていく。

 規則正しい生活や会話の連続で、人は生きる力を得ているのだろう。だとしたら俺は人形の真似をしている、ような心持がして千々に乱れ胸の上を掻き毟りたくなるというか掻き毟ると肌の薄皮が爪の間に挟まり青白い肌の上が熱を持つのだ。

 こんな生活をしたいわけではない、のだけれどこれが俺の生活。錠剤と共に眠りに落ちれば思考が衝動が溶ける、こともある。

 といったことを繋いで、紙縒りのような糸を編んでの綱渡り生活をするのに疲れる。ただ、俺は何もかも嘘をついたままくたばるのか、と思うと生意気な詩人の様に『ぼくはくたばりたくない』と涎のように口から漏れる。くたばるなら、もっとましになってからがいい。

 少しずつ自分の身体が錆びていることを感じる。自分の不勉強や情愛の無さを省みることもある。ただ、それは思考を放棄する理由にはならない。俺は未だ生きていて、愚かに実直にならねばと思う。

 ポップソングと共に。発声の練習或いはブルース、ハウスミュージックのような囁き。