指先には飴玉

銀座のエルメスで映画を見る。

『短編セレクション ― 気ままなオブジェたち』という、五つの映画のオムニバス。あまりオムニバスの映画を見る機会がないから、こういうのはとてもありがたいなと思う。好きでもない映画であっても、十分とかで終わってくれるし。

 ただ、こういう短編映画でしばしば感じてしまうのが、コンセプチュアルアートのように、説明文が実際の映画を見た時の驚き、感慨に満たないと言う問題だ。キャプションでどうにか自立する作品なんてちっとも俺は好きではない。

 例えばこの短編集の中にも、新品のトランプのジョーカーだけを抜き取って、全てジョーカーのトランプを作り上げて、それを丁寧に封をして売り場に戻す。なんてものがあって、この説明文以上の何かを受け取るのは難しいように思える。

 こういったモノに何だかんだと理由付けをするのは野暮ったいという気がする。俺が批評家と呼ばれる人達に警戒心を抱いているのは、畢竟、それがラブレターじみているという場合があるからだ。ラブレターを公開するのは、出来はどうであれ、恥ずかしい物だ。恥ずかしい、という自覚があるのならば、作品に依拠しているという自覚があるのならば別なのだが、自信満々な方々が多いように思うのは気のせいだろうか。

 俺はしょっちゅうお金がないから、お金のことを考える羽目になる。馬鹿馬鹿しいこと。その上生活力もないのだから、そのこともついて回る。馬鹿らしいこと。しかしうんざりする、本当にうんざりすることだ。

 貧乏はまあ、いいかもしれない。でも貧乏くさいのは、やはりみっともない。貧乏だと、貧乏くさくなる。代わる何かがあれば別だが、ないのならば仕方がない。

 数百円とか数千円の出費で思考が止まる。みっともない。でも、それが俺の生活なのだ。お金を惜しむと、欲望が消え失せてくる。自然と選択肢が狭まってくる。

 何かから逃げ出してこのような酷い生活をおくっているのに、それを貧しくしているのが自分自身だと思うとやりきれない。

 年に何度か、お茶、茶道の本を読む。茶道についてもっと深く知りたいなあと思うが、それには結構なお金が必要だ。いや、茶道に限らず、何かを学ぼうとするとそれ相応の出費がある。当然だ。

 最近クラウドファンディングがとても流行っている。いいことだと思う。俺が昔大好きだったゲーム関係の人も、会社ではなく資金を集めてゲームを作っているのをちらほら目にする。

 本当に自分には金を生み出す力がないなあと思うと感じる。俺がクラウドファンディングをしたとして、リターンがあるのか? そもそも客がいない。純文学とかいう死語、そういう読みにくい小説や詩をわざわざ公開してもどうなるというのだろう?
でも、俺が出来るのはそれくらいしかないのだ。

 お金にならない、でも好きな事があるというのは、多分幸福だ。げんなりする幸福。

 先日、知人の誕生日に絵本を買った。絵本を買うなんて何年ぶりだろうか? 美術が好きな人間のいやらしい思考で、絵本を買うなら画集や写真集を買った方がいいじゃん、なんて思いがよぎるのだが、あくまでプレゼントならば、大人向けの絵本というのも素敵なものだと思う。

店頭で目にした『あおのじかん 』という、フランスの画家、イラストレーターが描いた絵本。ページをめくって、久しぶりに絵本で感銘を受けた。世界の様々な動植物、昆虫、風景等が青色で描かれている。エッチングのような技法で描かれたそれらはとても美しく、見ていて飽きないものだった。楽しいなあと思える時間。様々な青色がページを彩っている。表紙よりもずっと、濃密な青の時間。ページをめくる快楽。

 それを誰かにあげて、喜んでもらえたらなと思える機会。それはきっと幸福なことだ。

 同じものを見て美しいとか美味しいとかかわいいとかかっこいいとか楽しいとか感じられるというのは、とても素敵なことだ。俺の場合、それがどうにもうまくいかなくって、おかしな独り言なんて言わないようにしようと閉じこもってしまうことがしばしば。

 しかし、腐るような睡眠よりも、美しいと言える方が、誰かに何かをあげられる機会の方が、素敵なことだろう。問題は、俺は友人とか知人がとても少なく長続きしないし、自由になるお金もないということだ。

 たまに、自分のしたことで相手がよろこんでいるらしい時には、何だか他人事のような気持になるというか、不思議な気持ちになる。嬉しいとか悲しいではなく、不思議。

 なんとでも説明できてしまうだろう。それは簡単に「治る(なおるものだとして)」ものでもないだろう。

 ただ、自分が自分の為に何かできるとしたらやはり、ずっと怠けていた小説を書くことに他ならない。文章を書く。それは俺の意識を整理し、つなぎ留める手段だ。文字が生まれて行く快楽。何かを生み出す、生産的な行為は、きっと誰かが生きるのには必要不可欠なのだろう。たとえそれが俺以外に必要とされなくても。