愚か者の詩集

 気分が悪くってだるくって、気持ちがふわふわしてきて、こんな時には家にいないほうがいい。今週は二度も悪夢を見た。夢魔、なんてロマンチックだけれど、現実に訪れる悪夢は、ただ俺の力を削るだけ。

 外で読書。

 中平卓馬の『なぜ、植物図鑑か』をまた読む。彼の言葉が俺は好きだ。前にも書いたが、俺は彼の言葉を読むとジャコメッティを想起してしまう。物を作り上げるということの不可能性に立ち向かうということ、ロマンチックで痛ましくて明晰な作業。


俺が好きなジャコメッティの言葉、

「例えば一つの顔を私に見えるとおりに彫刻し、描き、あるいはデッサンすることが私には到底不可能だということを私は知っています。にもかかわらず、これこそ私が試みている唯一のことなのです」


そして、再読した本の中でまた、俺の気持ちを軽くしてくれる、中平卓馬の言葉たち。

「写真を撮ること、それはものの思考、ものの視線を組織化することである。私は一枚の写真にイメージの、私が世界はかくあるだろうとかくあらねばならないとするイメージの象徴を求めるのではない。(中略)おそらく写真による表現とはこのようにして事物の思考と私の思考との共同作業によって初めて構成されるものであるに違いないのだ」


「ではなぜ植物なのか? なぜ動物図鑑ではなく、鉱物図鑑でもなく、植物図鑑なのか? 動物はあまりにも生臭い、鉱物は初めから彼岸の堅牢さを誇っている、その中間にある物、それが植物である。(中略)中間にいて、ふとしたはずみで、私の中へのめり込んでくるもの、それが植物だ。植物にはまだある種のあいまいさが残されている。この植物がもつあいまいさを捉え、ぎりぎりのところで植物と私との境界を明瞭に仕切ること。それが私が密やかに構想する植物図鑑である」


 また、『決闘写真論』からの引用、

「見当外れな<私>の跋扈、それは<世界>との緊張から逃げ出した内面への埋没をしか意味しはしない」

「自分自身に関心を抱き、自分自身を探求すること、それは事故を見出さないための心理学的普遍の諸問題をくどくど繰り返すための最も確かな手段である。世界に関心を抱き、何かしらを企てて、むしろ自我を忘れるほうが、すなわち何かの規範に見合った存在としての事故を探求するのを止めたほうが、事故を見出すチャンスを得ることだろう アンドレ・ゴルツ」

「(<世界>を<私>化しないということ、)ウィリアム・クラインは『ニューヨーク』でそれを暴力的にやってのけた。そこにはすでに固定された<遠近法>は存在せず、いくつもの<遠近法>が並置されることによって、<世界>は混沌たる坩堝に変貌している」


 物を見るということはなんて困難なのだろう? そして、ロマンチックは、ポエジは?

 サンローランは「人は生きるために美しい幻を必要とする」と言って、

ギュスターヴ・モローは「私は自分の目にみえないものしか信じない。自分の内的感情以外に、私にとって永遠確実と思われるものはない」

 と口にした(らしい)。


 彼らが離れているとは俺には思えない。素晴らしい芸術家は、ポエジーを崇拝し、或いは慎重に排斥するのだ。自分自身の表現の為に。


 目を見開いて。

 目を見開いて生きるために、彼らが行ってきた、困難な道程(と作品)

 俺がどんな状況であっても、ストイックな行為というものは神々しさに似た感慨を与えてくれるものだ。誰かが自分の人生を捧げている瞬間瞬間、誰かが賢くあろうと、或いは自分に正直であろうとしているときは、美しい。

 読もう読もう、と思いながら、推理とかペダンチックなのは苦手なんだよな、と思っていた中井英夫の短編集『名なしの森』を読む。こんなに軽い作品だったのか、と驚く。

 掲載誌を確認して、文芸誌以外にも発表していたのだと今更気づいた(中間小説、大衆誌ではあるが)。

 この短編集の中では、表題作が俺のお気に入りだ。俺はいつだって生意気な人間が好きだ。生意気と言うのは、愚かで賢くて残酷で傲慢で断罪されるべき存在だから。現実の生意気な人のことは知らない。ただ、小説の中の生意気な人は、承認なんて求めていない。自分が十分に賢くて美をたたえていることを知っているから。

 つまり、こういった作品は必然的に愚かなものになる。目も当てられない物にぶち当たるときもしばしば。俺は人間の承認なんてどうでもいいんだ、ただ、賢さが愚かさが危うさが傲慢さがそしてそれらのカタストロフィ(の「あっけない」回避)が見たいのだ。

 ポエジーを排斥して世界と向き合うこと。或いは、大いに愚かでいること。どちらも楽しい手仕事。

 先人の屍は芳しい。

 自分自身でいたいと、思わせてくれる。というか、そうでなくてはいけないのだ。俺の身体は「きっと」俺の物。動作不良が起きるまで、まだ自由に使用するべきだ。

 住宅街を歩いていると、ベランダにブーゲンビリアを植えている家が目に入った。美しい赤紫(花に見える部分は葉っぱだ)に目を奪われる。花を買うお金がないので、地面におちたそれを拾って帰った。

 花を見ると心が落ち着くのはなぜだろう。それなのに俺は数百円の花代も出し惜しむ。労働のことを考えると何もかもが構成できなくなる。

 ただ、未だ、俺は不良品でも不幸が起きるわけでもないのだ、と嘯いて、花のことを考える。そうだ、お金をためて、新しい花のタトゥーを入れたいな。

 俺の右胸には百合のタトゥーが入っている。単に、先に左胸に剣のタトゥーを入れたから、図像学として百合だな、なんて安直な考えだった。でも、百合も好きだし、花ならばなんだって美しい。胸に刻むのも、買うのも盗むのも。

 明日、花を買いに行こう。何も解決はしないけれど、現実逃避ができますように。悪い夢の代わりに、睡眠導入剤の代わりに、

https://www.youtube.com/watch?v=kvCsYY96EYs


yutaka hirasaka - lotus



 俺がおおがねもちなら、一か月ごとに、飽きるまで、国花を変えます。
睡蓮(蓮の花)が大好きなので、夜寝る時は睡蓮に囲まれて眠りたい。きっと、死んだように安らかに眠れるだろう。