アンドロイドは映るものを認識しているのか?
糞みたいな人間関係のストレスでずっと気分が悪い。そして、そんなことばかり考えてしまう自分にも自己嫌悪がわく。
俺は集中力がなくて、いろんな物が好きなのに、いろんなものを忘れてしまう。
そして金や体力やらがなく、思い出すことがこういうことと言うのは、情けないし単純につまらないなと思うのだ。
色んなことが手に入らないとして、色々なことを忘れて、年齢を重ねて死ぬ向かっているとして、自分のしたいことをするべきなのだろう。
でも、自分のしたいことがうまくできる状況にあるかは、自分で理想の物を作り出せるかはまた別問題なのだ。でも、それをしなければきっと、俺は本当の屑に成り下がるし、屑よりかはロマンチストの方がずっとましだと思う。
中平卓馬の言葉をまた想起しながら森山大道の著作を読み直す。中でも『絶対平面都市』という、対話形式で森山大道の写真の歴史と言葉を追っていく著作がとても読みごたえがあってよかった。以下、引用部を書いて行こう。()内は、本の中で引用されている著作だ。
忘れないように。いや、忘れても、読み返せるように。
「国道を疾駆していると、一瞬の出会いののちにはるか後方にとびすさっていくすべてのものに、とりかえしのつかない愛着をおぼえていいしれぬ苛立ちにとりつかれてしまうことがしばしばあった(『路上にて』)」
(略)―多かれ少なかれ、撮影と言うのはそうしたところがありますね。疾走する車とはスピードが違うにしても。
森山 取りこぼし感と言うのは、とくにぼくらみたいな路上スナップのカメラマンには、宿命的にあります。
これでもか、これでもか、と他人につきつけて見せる個人の心情的写真などではなくて、これでもか、これでもか、と世界からつきつけられ飛び込んでくる無数の事柄をギリギリでカメラに断片として受け止めて、それらを再組織することによって、真の世界像を認識することが写真を撮るということではないだろうか(『転換を迫られる写真』)
通り過ぎる一瞬の時間を認識できること。複製のメディアであること。存在そのものが色っぽいこと。事物を暴く能力を持っていること。世界を開示できること(2005.3.5)
写真は断片性のメディアで物語性のメディアではない(2005.3.5)
(大岡昇平の『花影』の散文の美しさを褒めて)ストーリーってときにつまらないんですよ。小説家に殴られるかもしれないけれど、人の考えたストーリーなんてたいしたことないみたいな感じが、ぼくにはどこかあるんです、了見が狭いから。
未だ気になる個所はあるのだが、面倒になってきたし、これだけでも俺なりに森山の思想を感じ取れる気がするのだ。彼の友人、中平卓馬とは違うアプローチで、しかしどこか彼らは親近性があるのだ。写真は写せない。しかし写真家は撮り続けるしかない。時には立ち止まってしまったり、居直ることもあるだろう。でも、美意識のままに欲望のままに撮り続けるということはなんと素晴らしいことだろうか。
俺はお金を作り出す能力やら人と長時間共にする能力に欠けていて、しばしば自分の人生に決着をつけなければと思っている。俺は不幸になりたいわけではない。しかし、俺は型落ちの機械のようなものだ。ぼろが出る。アップデートは金持ちができることだ。
大好きな川端康成が「忘却は恩寵」と言っていて、俺もそう思う。多くのことを俺は忘れてしまう。でも、時折思い出すそれが、下らないものではなく、好きなことについてならばいい。
でも、俺から遠く離れているとしても、他人の熱情はいつでも暖かい。
好きな人について考える時間を増やすこと。たとえその人が俺を愛さなくても交わらなくても。好きだって尊敬できるって素敵だって感情こそが、出来損ないのアンドロイドのような俺の身体に電流を走らせるのだ。