エレガントの夢魔

 酷く嫌な思いをして数時間ごとにそのことを反芻、しかし雨の日や肌寒い日が続いてきて、暑さにまいっていたので、何だか嬉しくもなってしまう。とはいえ、肌寒さの中で掛布団を抱きしめて横になっていると過眠が悪化する。

 嫌な夢を見た。二日連続で見たから次の日も見るのかなあと思ったら三日連続で見た。でも、夢の最後で覚えているのは、黒人の少女が戦後の日本のような荒れ地で、車の上で裸でジャズみたいな歌謡曲を歌うという映像。曲名は『米、米、アメリカ』という。だって、彼女がそう言っていたんだ。どんな曲なのか興味はあるが、こればっかりは知ることが出来ない。

 日々が惰眠に飲まれて溶けて行くのに、身体が動かない。まるで他人の身体。しかしそれの所有物は俺だから、たまには見るんだ映画。

 大学の時に見たっきりの、ベルイマンの『夏の遊び』を再び見る。とても美しい映画。自然の美しさと、回想シーンの恋人たちの瑞々しいやりとりがとても良い。教訓めいたメッセージよりも、自然と若者があればそれでいいのだ、と俺は感じる。

 ゴダールも好きだったらしいのだが、そういえば後年のゴダールはとても自然を美しく撮るようになったなあと感じるようになってきた。初期ゴダールには、自然の美しさというのはあまり感じない。

 中平卓馬も後期の写真を見るととても自然をのびのびと、美しく、いや豊かに撮るようになったなあと感じる。数年前にも俺はゴダール中平卓馬を関連付けて想起していたように思うが、他に賛同者がいないしそもそも友人がほとんどいない。別に関係はないけどね。

 北欧の自然の中で暮らす子供たちの生活を描いた『やかまし村の子供たち』を見る。

 正直あまり期待していなかったのだが、とてもよかった。子供たちの生活が淡々と描かれていて、それらは小さな事柄だけれど、子供たちにとってはわくわくの連続なのだ。

 見ていてふと『ロッタちゃんのはじめてのおつかい(赤い自転車)』を思い出した。あれも北欧の子供の物語だが、こちらはストーリーが一応あるし、ロッタちゃんのわがままな魅力がでているファミリードラマといった風だ。

『やかまし村』は、登場人物の子供も大人も自然も動物も、どれもこれも分け隔てなく眼差しが注がれているような感があった。勿論題名にもあるし、主役は子供たちなのだが、北欧の生活のなかにある、小さな喜びやハプニングの瞬間がつめこまれた良作だった。

 これも大学のころに見たベルトリッチの『ラスト・タンゴ・イン・パリ』を見る。二十歳のガキが最初にこの映画を見た時に、不満点もあるが、まあ、好きかもな、なんて感じていたのだが、三十過ぎの老けたクソガキが見ても、まあ、似たような感想を抱いた。

 大好きなマーロン・ブランドが出ているだけで、多少点が甘くなってしまう。しかも、中年になって顔に疲れも出ていて頭皮も寂しくなった彼だ!

 改めて見ると、女優のマリア・シュナイダーはかなり役にはまっているように思えた。あと、ジャン=ピエール・レオー が出ているのもいい。ゴダールトリュフォーが好きだからか、レオーが出ているとなんだかほっとする。彼の顔が優等生的な美形だからかもしれないし、演技をそつなくこなす優等生だからかもしれない。

 この映画を見ていると、マーロンブランドの美しさや醜悪さや哀愁やかわいらしさや、様々な表情を楽しめるのでファンには向いていると思う。

 ただ、構図やカメラワークのセンスの良さに加えて音楽も過剰で表現が大げさに感じられる場面もちらほら。実相寺昭雄の『哥(うた)』を想起させる。いや、どちらも結構好きなんですけどね。

 ただ、この映画に限ってはヴィスコンティと同じ、エレガンスによって作られている映画といえるのかもしれない。エレガンスとは滑稽で気高い美意識のこと。
この退屈な映画を見ながら(退屈、といってもフェリーニパゾリーニのようではなくて)頭の中でスパンクハッピーの『エレガントの怪物』の歌詞が頭に浮かんでいた。

 
 例えば男の子は自信なさげにはなす
 不潔な独特のファッションを纏う
 彼らが持っている現代の奇妙なエレガン
 あたしを盗撮している奴がいるって

 ヴィスコンティの映画の持つエレガンス、センスの良さは多くの人が認める所であるだろう。そしてそのエレガンス、趣味の良さの与える安心、ブルジョワジー的な感覚、退屈さに対するつまらなさ、について金井美恵子蓮實重彦ゴダールが言及していたように思う。

 つまり、ヴィスコンティの映画は良いものだけれど……

 話を『パリ』に戻そう。あの映画のラストは、かなりひどいと俺は思う。センスがない、と言ってもいい。それでも、俺はこの映画もヴィスコンティの映画もどちらも結構好きだ。愚かでロマンティックでかっこつけている(のが見透かされている時もあるが)、つまりエレガンスな映画。

 俺はヴィスコンティの映画における、美しい男性が鋭利な美、ナイフのような女性によって始末される様式美にポルノ映画のようなわくわく感とちょっとした気恥ずかしさを覚える。でもそれが好きだ。美しい男性/女性は不幸になるべきだし幸福になるべきだ。

 この映画は、マーロン・ブランドファンの為の、中年男性の為のメルヘンポルノといった感もあり、肩ひじ張らずにみられる点はよかった。

 俺は日本の一部で大人気な某作家の作品がセンスの無い謎解きメルヘンポルノだと感じて本当に嫌なのだが、この映画のメルヘンポルノは、ちゃんとおぞましく醜いから良い。でも、見る人に逃げ道を、謎やセンスの無さを用意してくれる方が、受け手としては安心できるのかもしれない。

 マーロン・ブランドのファンの俺はわくわくするのだけれど、昔は美しかった面影がある、うらぶれた中年男性の醜く滑稽で自分勝手な様子は、お粗末と言ってもさしつかえがないストーリーとあいまって、多くの人に不快感を与えるだろう。

 顔がよければ、エレガンスであれば、許される世界、許される瞬間は素敵なこと。いいや、そもそもそれさえ許されなかったら俺は何を許せばいいのだろう?

 気分が悪くなって、日々口にする錠剤と少量のアルコール。俺の、現代の奇妙なエレガン。ということにして、今日も悪夢の為にまた一休み。