けだものは君を見ない

 調子が悪いということを毎回のように書いていて、自分でもうんざりしてくる。しかしそれが事実なので仕方がない。たまに、ふと、自分が今生きていることが不思議で、ほわほわした、地に足つかない気持ちになる時がある。

 俺は死にたがりではない。ただ、なんか助かってしまったとか、いつの間にか生きていた、みたいに後から思うことが少しある。不思議だな。でもそれは、

 よくある話ね
 退屈な話 (夏木マリ/ミュージシャン)

 たまに、自分に金を稼ぐ才能(なんだそれ)が絶望的にないことに気づく。新宿の京王デパートの外観にカルティエの大きな広告看板がある。モノクロの豹の写真に赤でカルティエと描かれていて恰好が良い。一時期携帯電話の待ち受けにもしていた。俺、動物好きなんだ。

 そのカルティエの前で、赤銅色の肌をした浮浪者がオブジェのように固まっている。フォトジェニックな光景だと毎回思うが、撮影する気にはなれない。俺は豹の中に浮浪者の中に自分の姿を見る。しかし俺はきっと豹にも浮浪者にもなれない。ただ、自分の中の豹や浮浪者の部分が呼応するのだ。

 新宿は好きだ。二十代のころ少しだけ住んでいて、歩きながら大して好きでもないピストルズのアルバムを聞きながら歩いていたら、すごくはまった。あと、アジカンの青臭くて必死な感じのアルバムを図書館で借りて、大して好きでもない阿部和重の小説を暇つぶしに読んでいた。

 好きな物は、大抵食いつぶしてしまったような気がしていた。気がしていただけだけど。

 新宿の街のそこかしこから香る、悪臭。つつましげなデパートとラブホテル街。RPGのダンジョンみたいで好きだ。ここは俺の居場所なんかではない。というか居場所何てないのだけれども、小奇麗なのも小汚いのも受け入れる繁華街というのは、とてもいいものだと思う。


 たまに、ダイアン・アーバスの写真集を見返す。彼女のちょっと神経質で好奇心旺盛で真面目な感じが好きだ。彼女はなんで自殺してしまったのだろう。そんな分かるはずもないことを時折考える。そんなことは誰にも、きっと本人にすら分からないことなのかもしれない。

 希死念慮自死に結びつかないのは、きっとやり残したことがあるからかもしれないと最近思うようになってきた。最近ネット通販で馬鹿みたいに散財している。一回一回の金額はサラリーマンの飲み代みたいなものだが、塵も積もるとヤバイことになる。でも、久しぶりに無駄遣いをして、虚しくて楽しい。

 写真集の最初に、ダイアン・アーバスの発言がまとめられている。彼女はきっとエキセントリックな人ではなく、真面目な人なんだって感じる良い文章だ。俺は真面目な人が好きだ。それがなくてもいいのはきっと、顔がいいか動物みたいな人だろう。

以下、アーバスの発言。
 


 知っておかなければならない大切なことは、人間というものは何も知らないということです。人間はいつも手探りで自分の道を探しているということです。

 ずうっと前から感じていたのは、写真のなかにあらわれてくるものを意図的に入れ込むことはできないということです。いいかえれば写真に現れてきたものは自分が入れ込んだものではないのです。

 自分の思い通りに撮れた写真はあまりありません。いつもそれらはもっと良いものになるか、もっと悪いものになってしまいます。
 
 私にとって写真そのものよりも写真の主題のほうがいつも大切で、より複雑です。プリントに感情を込めてはいますが、神聖化したりすることはありません。私は写真が何が写されているということにかかっていると思っています。つまり何の写真かということです。写真そのものよりも写真の中に写っているもののほうがはるかに素晴らしいのです。

 物ごとの価値について何らかのことを自分は知っていると思っています。ちょっと微妙なことで言いにくいのですが、でも、本当に、自分が撮らねば誰も見えなかったものがあると信じています。



 これを読んでいてふと、ロートレックの一枚の絵画を想起する。オルセー美術館に所蔵されている(勿論行ったことがない)『ベッド』という油彩画で、ベッドで眠りにつく、二人の女性の同性愛者の娼婦の画だ。

 しかしこれは説明がなければ、二人ともショートヘアで、兄弟が眠りについているようにも見える。ここにあるのは、(ロートレックにしては珍しい、といえなくもないのだが)親密さなのだ。

 アーバスも多くのフリークスを親密さで、敬意を好意をもってカメラに写したはずだ。神聖ではなく、親密さ。だから彼女の写真はほのぼのとしていて、たまに見返したくなる。

 先日森山大道の本をまとめて借りていて『森山大道論』という評論、感想が書かれた本を読みながら、すっかり自分が批評から遠ざかっていることを再確認する。二十代の俺は、おそらく批評の言語で見てそれで何かを語っていた。今もそれは有効であり有益であるとは思うが、それよりももっと、ジャンクな言葉が、製作者のどうでもいい言葉(なんにせよ制作者の言葉はそれに関しては『プロ』ではないので、その人の作品に比べるとずっと退屈な物が多いのだ。当たり前だが)の方がずっとキュートだ。

 そんな風に思うようになってきていた。作品は、ポエジーは常に誰かの手から言葉からすり抜ける。それに対するラインズマン或いは恋文、というのは時に無粋で、しかしそれを誰かがしたいのならば仕方がない。なにより他人の恋文って、なんだかんだで人気なんだよね。羞恥を刺激されながら、文句を言いながらも読んでしまうそれ。

 その本の中で森山大道ブエノスアイレスを撮った写真とウォン・カーウァイの『ブエノスアイレス』をからめて、二人の親近性について語っている文章があった。曰く、カーウァイの主人公は「利己的な放蕩者である独身者による恋愛」であり、自分を優先して失恋を繰り返すのだ。そして、不安に突き動かされてシャッターを押し続ける大道。

 その全体を読むと、納得する部分もありつつも、少しロマンティックすぎないか、と感じたのだが、森山大道の言葉を引用している部分は好きだ。


ぼくの場合、なんか写真を撮ることも含めた日常の時間に四六時中おおいかぶさっているのは生とか死とかっていうよりも、漠としていながら確実に身辺に充ちている不安ですね。ぼくが写真を撮っている唯一のモメントは、じつはこのキリのない不安に根差しているように感じています。


 生とか死とかっていうよりも、漠としていながら確実に身辺に充ちている不安ですね。


 という部分は自分にも重なるし、何より彼が撮る景色にも表れているように思う。彼の写真はしばしばロマンティックに語られたりするけれど、それよりもどうしようもなさや寄る辺なさ、どこにいたって異邦人、という感がする(それがロマンティックだと言われたら、まあ、そうだけれども)。

 ただ、異邦人は異邦人なりに街にそれなりに歓迎され、ほっぽり出される。しかし彼はカメラを手放したりなんてしない。街に好かれていようが嫌われていようがそもそもそんなことなんて問題ではなく、不安と欲望が多くの作品を残していく。

 しばしば俺はエネルギーが切れてしまう。街も俺もポエジーも動物も神様も、どうでもよくなってしまう。ただ、俺が満足をして、区切りをつけて、ホームレス/社会人になるとしたなら、それには未だ早い。まだまだ無駄遣いをしなければ。

 ぎらぎらしたほの暗い、いや、のんきな欲望を抱いている誰かさんと誰かさん。俺は彼らにはなれないのだろうと思いつつも、その他者を見ると、自分にも何かの感性が、欲望があるような気がしてくるから不思議だ。

 惰眠に効く薬は筋トレや日光よりも、死に行く人や死んでしまった人や、獣の方がいいらしい俺の場合。