たださ、俺は何もわかってないんだ
元旦の渋谷は半分位店が閉まっていて、程よく人が歩いている。思ったほど肌寒くなくなく、着こんで歩いていたら少し汗ばむ位だった。
人けのない繁華街というのは、何かが終わってしまったような、何かが始まるような気配があって好きだ。
久しぶりにドアーズを聞く。
https://www.youtube.com/watch?v=-r679Hhs9Zs
The doors - Break On Through ( To The Other Side )
何だかむやみやたらに元気が出るというか、いい曲だなあと思う。
正直2018年は丸ごと忘れたい位トラブルが多かったし、それをちゃんと解決できているわけでもない。大抵調子が悪いし、まともな日でも数時間ごとに気分の波が出てきてこりゃあそろそろ駄目なのかなあ、と思いながらもしぶとく生きのびてきた。
そんな時こそきっと、馬鹿なこと、無駄遣い、そしてロックが空元気をくれるのだろう。
少しだけ、無駄遣い。やばいね、無駄遣いをするとどんどん金を使いたくなって困る。買い物は無駄遣いは楽しいなあ。倉庫かゴミの山のような狭い自宅にまた物が増える。
Ella Fitzgerald - Drop Me Off In Harlem (High Quality - Remastered)
https://www.youtube.com/watch?v=xUmodPqMERk
エラのこの曲はとても好きで、一人渋谷を歩くときに耳に入ると、まるで外国にいるかのような。汚い街で小汚いなりの俺も、生きていける、かのような。
買っておいた鶴と亀の干菓子を食べる。和三盆糖の干菓子は、すっとした甘さが舌の上で消える。イライラすると、つまりしょっちゅう俺はむやみやたらに甘物を貪ってしまうのだが、和三盆の干菓子は見た目がとても美しいし、量を食べようとする気にはならないから優れている。おれにまともな収入があったら毎日でも食べたいくらい。
たまっていた映画の消化。
ウォンカーウァイの『恋する惑星』を再見、しようとしたらなぜか字幕が入っていないのを借りてしまった! 字幕が入っていない、のではなく、多分俺のdvd読み込むぜマッシーンがバカで字幕選択が表示されないのだと思う。 少し見て、ああ、好きだなあと思うが、次第に字幕ありのをちゃんと見たくなってしまった。
また今度見ることにして、映画を中断。
【ストーリー】
日本橋元大工町のあたりで九人の芸妓をかかえる稲葉家の女あるじお孝は、意地ときっぷが身上の芸者。
令夫人と呼び名のある美人芸者、滝の家清葉をつね日頃から目の仇にしている。
そこへ行方のわからぬ姉を慕う一人の医学士があらわれ、花柳界を舞台にふたりの美女の対立はますます華麗に激しく、そして哀しく展開していく。
ってな感じなのに、何だかすごく肩透かしな感じだった。素晴らしいキャスト。勿論演技だってそうだ。そして市川崑だってとても才能のある人で、カメラワークとか画面とかが悪いわけではないのに。
もしかしたら物語に山場がないというか、芸者物ってすごく感情的か突き放してとらないとなんだかどっちつかずになってしまうのではないだろうかとぼんやりと考えた。美しくて、だらだらした映画好きなんだけどね、なんかこの映画はノレなかった。
アキ・カウリスマキ『街のあかり』
ヘルシンキの警備会社に勤めるコイスティネンは、同僚や上司に好かれず、黙々と仕事をこなす日々。彼には家族も友人もいなかった。そんな彼に美しい女性が声をかけてきた。ふたりはデートをし、コイスティネンは恋に落ちた。人生に光が射したと思った彼は、起業のため銀行の融資を受けようとするが、まったく相手にされなかった。それでも恋している彼は幸せだった。しかし、実は恋人は彼を騙していた。彼女は宝石泥棒の一味だったのだ…。
見続けて行くと、同監督のとても出来がいい、ゆえに身を切られるような痛みも残る『マッチ売りの少女』を想起してしまうのだが、それとはまた違った。
状況でいったら、この主人公の男もずいぶんみじめで不運続きで辛いのだが、彼には閉塞感がない、いや、それを打ち破ろうとする意志や周囲の人による小さな善意があるから。
カウリスマキの映画の登場人物はそっけなく、むき出して、人情味がある、ような気がする。というか、監督の目を通した人間像がそういう感じなのかもしれない。そこそこ悪い人でありそこそこいい人。それをうまく描いている。だからどうでもいい日常やら劇的なあれやこれやといったのが腑に落ちて、身に染みるのかも。
あ、音楽が注目される人だけど、俺は色彩感覚が優れていると見るたびに思う。画面作りもそうだけど配色のセンスいいよね。
休みのうちに本を読み散らす。今は小説を書かねば、と思いながらもやはりどうでもいい読書をしないと調子がでないというか、怠け者の俺の脳が働かない。
再読する、ジャコメッティの『私の現実』何度も引用してしまう、目を止めてしまう言葉。
「例えば一つの顔を私に見えるとおりに彫刻し、描き、あるいはデッサンすることが私には到底不可能だということを私は知っています。にもかかわらず、これこそ私が試みている唯一のことなのです」
そして、矢内原伊作のエッセイの中の彼の発言。
「描くことはやはり純粋な私のエゴイスム以外のものではない。私は自分の仕事を正当化するいかなる根拠をも持っていない。私が芸術の道にはいったのはエゴイズムの満足の為か、地道な職業に対する怠惰のためか、どちらかだ。どちらにしてもいいことではない、むしろ悪だ」
エゴイズムの充足というのは、とても重要な問題だ。貴方に俺に誰かに、美しいという物があるとしたならば。
エゴが、どうでもなくなるのが怖いようなどうでもいいような気になる。自分の社会性や社交性の無さやそれを持続させる力や根性の無さに、色々とどうでもよくなってしまう。
だけど、自分を、或いは自分の為すべきことを欲せなければなと何度も思う。好きなことがあるのに、それを手放し続けるのはとても愚かなことではあるが、綱渡り芸人もそろそろ終わりではないか、もういい加減終わりにしたい、という思いが幾度となく頭をよぎりながら、会うことのないもう会えない誰かの言葉に作品に、空元気をもらってきた。
誰かに敬意を払うと、好きだと口にするとたまゆら、満たされたような錯覚がして、アル中薬中のようにふらふらとした頭でそれを繋ぎ合わせて綱をつくる。そのうえで一人ふらふらと歩く。
解決などはしない。展望などはない。でも、錯覚してしまえるのならば。
Ella Fitzgerald / I Got It Bad (and That Ain't Good)
https://www.youtube.com/watch?v=MSSIZzjphUU
とても好きな曲。というか、エラが歌うこの曲がとてもすきなのかもしれない。
落ちている時はセンチメンタルな曲を聞かないようにしていたのだが、たまには、割といいのかもしれない。滑稽なほどに痛ましくも美しい、と思ってしまう時もある好きな人ならば曲ならば。
十代の頃、嫌なことがあったらいつもニルヴァーナとベルベットを聞いていた。
The Velvet Underground-Heroin
https://www.youtube.com/watch?v=qFLw26BjDZs
素晴らしいヒーリングミュージックであり、こんなんばかりに頼っていたツケで今は聞きたくない曲でも、聞いたらその魅惑に眉間の辺りがむずがゆく頬が緩み目を閉じる。
Heroin, be the death of me
Heroin, it's my wife and it's my life
ここの盛り上がる展開がほんと好き。くらくらする。
And I guess that I just don't know たださ、俺は何もわかってないんだ
俺は何もわかってない、って言って、それでも空元気でもおくすりでも恋でも欲情でも憎しみでも、何でもいいからインスタントな笑みを浮かべていられたら。
なんてこと高校の頃から考えていて、年齢が倍近くなっても似たような意識のままというのは恐ろしく、幼いまま老いて諦めていくのかなあとも思いながらも、その間抜けなやるせなさやどうでもよさも、まあ、多少笑えるわけで、こんな無駄話で小説書かなきゃなあ、なんて気にもなってくる。