恋したあなたは人でなし

冬の寒さに辟易しながら外出する際、大学時代に貰ったGDCのブルゾンを着る。捨てたかと思っていた。捨てたほうがいいほどボロボロで薄汚い。でも、とても暖かい。俺の体格にもあっているけれど、さすがに年代物過ぎて痛み過ぎてやばい。グランジとかロックではなくただ小汚いだけ。捨てようと思いながら捨てられない。今日来て帰ってきてすぐに捨てようと思った。でもできないでこんな文章を書いてるしまつ。

 六本木の交差点でタクシーを止めているマダムが洒落ていた。総白髪でセットされた頭はすっきりしていて、肩には丈の短いファーをかけていて、手にはヴィトンのモノグラム

 これを読んでいる君はヴィトンを持っている奴なんて全員ロボトミー手術を受けた賤民だよって言うけれど、俺は清潔感のある、生活に余裕がある感じの年配の人にはヴィトンが似合うと思ってるんだほんとに。かわいいと思うんだヴィトン。

 きれいに年を重ねるにはきっとお金が必要だ。でも、精神や暮らしがしっかりしている人はそれだけでも十分すぎる。テレビで農家とかで働く人や職人を見ると、いい顔の人が多い、ような気がする。というか、日々の生活を積み重ねている人はいい顔をしているように思える。でも、そんなことできる見込みがないのだけれども俺。

 サルトルの『水いらず』を再読していて、『一指導者の幼年時代』を読んでいる時にipodからブランキーライラックが流れてきて、なんだかとても合っていた。ワルガキをかくのがとても上手なサルトル。ワルガキってなんだろう。愚かで傲慢で輝かしくなにより、生き生きとしているってことかもしれない。

 青少年の発育に悪影響を与えそうなバンドがたまに(よく?)、歌うかわいらしい曲が好きだ。痛ましいような気分がいいようなにやにやしてしまうような。ところで青少年、ってなんのこと?

https://www.youtube.com/watch?v=0AGwMC_2Lj4

ライラック ブランキー・ジェット・シティ

 ライラックってどんな花 って聞く度に頭に浮かぶおぼろげな花の姿。どうでもいい疑問どうでもいい景色。ふとした瞬間の、青年の生活の一部を思う。

青少年の発育に悪影響を与えそうなバンドがたまに(よく?)、歌うかわいらしい曲が好きだ。痛ましいような気分がいいようなにやにやしてしまうような。ところで青少年、ってなんのこと?
 
巴里の女性マリー The ピーズ with クハラカズユキ

 

 荒れた声のボーカルと甘い歌詞の相性がとても良すぎて困る。ピロウズ詳しくないんだけど、ダメダメなピーズが(勿論褒めている)カヴァーしてこんな切なくなるなんて、こんないい曲カヴァーするなんてずるいな。

https://www.youtube.com/watch?v=Y2MGtwB-oFc

 

銀杏BOYZ - 援助交際(PV)

 あの娘を愛するためだけに僕は生まれてきたの
あの娘を幸せにするためだけに僕は生まれてきたの

 なんて歌えるとか、聞いてると辛いなあ素晴らしいなあ。

 

 コオリオニという、俺が大好きな漫画を描いた梶本レイカという漫画家がいる。彼女がツイッターを始めて、とても素敵なことをつぶやいていた。

引用すると、

「コオリオニ」とても好意的に受け入れて戴いているのですが
テーマは「世間のはみ出し者には死あるのみ」なんですよ
ラストのページはインドネシアではなく商店街のコラージュです

私は90年代のロードムービーが好きで
そのラストでは「はみ出し者の理想の死」が多く描かれていました
ところが2000年代から「ありのまま・共存しよう」といった
前向きなメッセージが映画に盛り込まれるようになり
とうとうはみ出し者からは「空想の中の理想の死」まで奪われるようになりました

評論家から軽んじられる事が多いのですが私にとっては名作です
テルマ&ルイーズ」「パーフェクト ワールド」 
それからホラー映画が私は大好きです
何故なら真の「平等」がホラー映画では自然に描かれているからです
「理不尽なハプニング」という点で

90年代「変わり者は息を殺して空気を読め」と強いられた時代を経て
未来が無い今更「ありのまま」と差し出されてもどうないせいちゅうのだ
という、そんな「創作物から理想のカッコイイ死まで奪われた」我々への
ロマンスポルノ、それが「コオリオニ」です。

破滅への理想を描くと「幼稚」とジャッジされる、成熟を要求される時代になりましたね。
「苦しい」「辛い」そんな事を顔に出すことも許されません

せめて空想、物語の中ではそんな鎖は断ち切って
「あーーあーーー辛いーーー死にたい死にたいーーカッコよくーー!」を
盛大に描きたかった
それが「コオリオニ」なんですよ(笑)

 

 

 

 ほんと、先生のこのつぶやきが好き。愚かでもそうでなくても反社会的でもそうでなくても法に抵触していてもそうでなくても、どうでもいいじゃない。好きなんだ、その人の自由が美意識が生きてきたロマンが。

ジャン・ジュネが語った、アルベルト・ジャコメッティについてのエッセイのなかの一節。

 

美には傷以外の起源はない。単独で、各人各様の、かくされた、あるいは眼に見える傷、どんな人間もそれを自分の裡に宿し、守っている。そして、世界を去って、一時的な、だが深い孤独に閉じこもりたいときには、ここに身を退くのである。だから、この芸術と、ひとびとが悲惨主義と名付けるものとは、はるかに隔たっている。

 美には傷以外の起源はない、なんて気障ったらしい言葉、だけれどもジュネが言うとそこにおそろしさがある、鮮血の輝きがある。彼もまた、傷を恐れずに、いや、求めて制作をしていた一人だから。 

 愛した人の、傷口の殉教者。人生よりも信仰を愛する人間の愚かで輝かしい人皮の聖書。彼が愛したもの、について語る、ということ。愛したことばかり語る彼の稚気と傲岸。まるで王様みたいな奴隷じゃあないか。

 自分がもっと愚かで傲慢でクズであっていいということ。自分の中の醜い感情を幼い夢を肯定すること。憎しみも虚しさもかっこつけも寄る辺なさも俺の大切な物の一つなんだって。大切にしなきゃ、って。

 

コオリオニ について読んで欲しいのであまり書かないが(前に感想書いたし)、ほんと好きな漫画。ドラマチックな仕掛け、構成も勿論素晴らしいが、 はみ出し者の理想の死  に対する作者の愛ある眼差しがとても胸に来る。この作品の登場人物は不幸な生い立ちであったりの中に巻き込まれているが、それでも彼らは自分たちで自分の人生を選択した。彼らの人生は彼らの物だ。非人道的な数々の振る舞いのツケは彼ら自身が払うことになる、でも、もがいた。諦めた。そして彼らが愚かで一生懸命生きていることが、すごい勇気を力をくれるのだ。

 他人の傷口なんていらない。俺の傷口なんて殺菌されるべき、みっともないものだ。でも、それをロマンの糖衣でくるんででっちあげることができたなら、騙すことができたなら、或いは自分の感情をきちんと、埋葬することができたなら。

 自分の中の美意識をヒーローを愛することは、とても大切なことだ。愛情表現にはいろんな形がある。それが愚かでもおぞましくても、それが誰かの愛から憎しみから生まれていたならば、俺は敬意を払うべきだと思う。それは、自分自身のそれについてだってそうだ。

 自分の中にある、アウトサイダーに餌を愛撫をとどめの一撃を。そして、愛さねばならないのだと思う。愛だって忘れてしまう。どうでもよくなってしまう、でも、愛していられるなら気持ちがいい。欺瞞で傲慢で意匠で飾られた、張りぼてアウトロー。幻灯装置の見る夢。でもそれが好きなら仕方がないんだ。仕方がないから、愛するしかないきっとその時は。