君は永遠から抜け出し宝石鳥は嗚咽

両指が荒れ、両足の裏はまめが潰れて、口内炎で口からは血が出る。身体はだるい。こんな時でも色んなトラブルやら理不尽なことに苛まれる。愚かなことに何度も何度も同じ憎しみに囚われる。脳が側溝の中だ。

 変にハイになっているのか、それでも何とかやってやんなきゃな、なんて思えるのは、今俺が細々とではあるが、小説を書き続けられているからかもしれない。書くこと、つまり自分の感情に向き合うこと。埋葬すること。献花すること。まるで良い生活。

 秩序を与える。詩を与える。言葉たちに。

 機械とポエム、ということについてよく考える。俺は自分の存在が思考の為の機械、或いは誰か(でもそれは神ではない)から与えられた肉体のような心持になることがある。この肉体をどうにかこき使って、為すべきことをやっつけるのだ。

 ただ、あまりにも自分の身体を粗雑に扱っているのんではないかと思うことがある。メンテナンスもチューンナップも適当に。膨らみ続ける汚辱と妄執への返済のことで頭がいっぱい。

 

 自分がアンドロイドだって、日本製の機械だって、夢見るシャンソン人形、ではないけれど夢見る工業製品だって思うのは中々ロマンチックなことだ。でも、その工業製品の身体を、代わりがない、かのような身体を愛するとなると途方に暮れてしまう。自分を憎んでなんかいない。でも、自分の身体を工業製品を愛するなんてシラフではできないと思うんだけれども。

 久しぶりに見返す、ゴダールの『彼女について私が知っている二、三の事柄

 この映画はある人には退屈かもしれないが、ドキュメンタリータッチで見やすくて好きだ。ゴダールの映画の中でもぼんやりと見られる箸休めには良い映画だと思う(は?)

 動く絵付きの独白、或いは短編小説。

「LSDがないなら(買えないなら)カラーテレビをどうぞ」

というセリフが気に入っている。何年か前に見た時もこのセリフが好きだなあと思っていた。ゴダールの映画の中には詩があり映像も美しい。他に何を求めればいいんだろう? ゴダールの映画に長い言葉を解説を注釈を入れるのは野暮であるような気がしてしまう、けれどもその一部は機械の書いたラブレターのような知性のひらめき(天才のひらめき/Stroke of Genius)、と同時に後ろ暗さのような物も感じる、というのは俺が体系に依拠していながらも(でも、言葉が好きな貴方もそうだきっと)それに必死で反抗しているから。

 批評なんて評論なんて体系なんて哲学なんて思想なんて、ポエジーアガペーの供儀のためではなく、よりよい生活の為に名前をつけるなんて言葉の織を世界を作るなんて、下品なものじゃあないか、等と的外れな思いが噴き上がり、しかし俺はそういう生活の為の言葉にぐらつく自分をゆだねても、いる。命綱のような言葉。麻縄のような言葉。外郭。夢見る脳を包む柔い、それは言葉。

 逃れられない言葉にも身体にも歴史にも。でも俺はそういうのを憎んでいるわけではないはずなのにとにかく反抗心がむらむらと沸き上がることがあり、まるで動作不良の機械。恒常性を憎む。愚かなこと。

 機械音、テクノミュージックというのは好きだ。素晴らしい、陰鬱な或いは軽薄なブルース。テクノは悲しい。或いはけしかけるんだ、やっちまえって気持ちよくなれって軽薄な声で扇動するんだ。

 耳を刺すようなゲームミュージックがとても好きなのだが、ファミコンチップチューンのそれとは少し違う、テクノ寄りのゲームミュージックだって素晴らしい。と思って頭に浮かんだのが、どちらもシミュレーションゲームのサントラだった。ばからしいさわがしいすばらしいピコピコ音は、大抵アクションとかパズルとかに偏っているように思う(というか、単に初期に出たソフトは大体アクションとかが多いからか)。

 

https://www.youtube.com/watch?v=iIG7_Ot05EQ&list=PLfxmbHrCmpNs5g7Mi7MQW3-SdYJOOq7FQ&index=11

A.D. 1995 Story Majin Tensei II Spiral Nemesis

魔神転生2のサントラ、ほんと好き。ゲームもとても好きだけど、クソ面倒な、時間がかかる内容なのでもうプレイはしないだろうけれど。この昔のテクノのひんやりした感じがたまらない。心がざわつくアンビエント。SFチックな近未来ストーリーとレトロフューチャー感のあるシンセとの相性が良すぎる。

https://www.youtube.com/watch?v=S0kMPhfq7-w&list=PL36XqHlyNGMzTd0eN_8ZLtpDxL7ySbmSe&index=5

FRONT MISSION ALTERNATIVE Soundtrack - 05 - Rock

 やりたくないゲーム。なのにこのゲームのサントラはマジですばらしい(あれ、前にもこんなことを言った気が……)。というかこの人はテクノの人なのでゲームミュージックとしてここで引き合いに出すのはどうかとも思うが、まあサントラだしいいか。メロディアスなミニマルテクノと機械の行進は相性最高!

 

 自分がゲーム好きだからか、ゲームのサントラには点が甘くなることがしばしば。でも、この二つのゲームのサントラはとても良い。まるで、自分が機械であるような気になる。機械であっても幸せであるかのような。

 そしてできたなら、その、自分の一番近しい、その、今君に内蔵されているオペレーティングシステム、それで操る機械の身体をいたわってあげよう。代わりがあるけれど多分。代わりがあっても、優しくしてあげよう。代わりはあるけれど。

 

 見る前からどうせ名作だからいつか見るだろう、と手をつけずにいた作品が山のようにあって、たまにかんねんして、というか気の迷いで手を伸ばす。

 成瀬巳喜男監督、高峰秀子森雅之 出演のメロドラマ『浮雲

太平洋戦争のさなか、ベトナムの占領地ではぶりをきかせていた男(森雅之)が事務員のゆき子(高峰秀子)と結ばれる。しかし戦後帰国した彼には妻があり、やがて女は外国人の愛人にまで堕ちていくが、それでもふたりは別れられないままズルズルと関係を続けていく……。

 要するにダメ男に惚れ続けるダメな女、というただそれだけの話しなのだが、もう、本当に高峰秀子の演技がうまい(森雅之もすごいと見終わった後でしみじみ気づくけれど)。この映画はほとんどが二人の会話シーンなのだが、二人の会話劇を存分に楽しむことができて、高峰秀子の演技が一々胸にくる。

 彼女がその場面ごとに出す、すれていたり拗ねていたり甘えていたり強がっていたり弱気になっていたり愛らしかったり怯えていたり、精一杯生きている愚かな女性の生きざまの輝きが、まぶしくて素晴らしくて、辛い。

 いいなあ人が辛いのは楽しそうなのは。生き生きしている。その為には、健康的であろうとする意志が必要だ(健康かどうかは問わない)。

 

 生きて、生活をして、様々なことを諦め手放し、見ないふりをする。機械の身体で様々な命令を下す。為すべきことは、十全にはならない。俺は自分の身近な機会を酷使することばかり考えてしまっている。でも、それだけではどうしても辛い時がある。薬品、サプリメントではなく、物語を慈しみを、注射するとしたら何ができるだろう?

 

浮雲成瀬巳喜男)」? それとも「浮草(小津安二郎)」?

 ああ、今度は『浮草』が見たくなったなあ。小津の映画はしばしば辛い。でも一人で見るしかない。誰かと小津のすばらしさについて語る、というのは何だかぞっとしないだろうか? つまり彼はとても優れた映画を撮っているということだ。 

 機械からオイルが漏れるように、俺の口からも出血。ぞっとする、げんなりする。ただ、阿呆のように浮雲浮草、などと幼稚な連想をしたり懐かしいテクノに甘えたりして、なんとかメンテナンスをするんだきっとね。