センターフォールドにはハチドリが見る夢
ずっと、小説を書かねば、という思いが回ってはいるのだが、書けたり書けなかったり。あと、ネットで本を注文したり図書館で借りたりして読んだり積んだままになったり。なにかを作り出すには静かな精神状態というか、落ち着いた態度でなければならないのだが、何らかの刺激がないと頭は働かないわけで、様々な本、読むのに時間がかからない本を読んでは、ああ、あれをまだ読んでいないとか、ああ、書く時間がとれない、等と考えるのはいつものことで、まっこと快調からほど遠い。
気分転換に数年ぶりに『ファイトクラブ』を見る。この映画の前半から中盤まではとても好きなのだ。後半とラストはほんとどうでもいい。だからか、この映画を嫌いな人の意見も大好きな人の意見もそれなりに分かる。
病院に行って名前を付けてもらうよりも、(比喩表現であっても)利益とか損得を勘定に入れずに殴り合うというのは感情の衝動の欲情の交換というのは中々いいことだ。つまりこれは良い映画。
渋谷の文化村で定期的に行っている、アートバザールに行く。教科書に載っている有名人の作品が所狭しと並べられていて、一つの作品が数万から数百万まで幅広いのだが、その窮屈さ、ピカソとダリとシャガールとウォーホルと赤瀬川源平と藤田嗣治と横尾忠則と……とにかく有名人の売れ残りを会場内に押し込んでいるのはなんとも貧乏くさく、また、豪華で、見る側としては何だか骨董市感覚で楽しい。材料費数千円以下が数万円になったり数百万円になったり。そういった生々しさをしょうもなさを目の当たりにできるというのは、これはこれで楽しい体験だと思うのだ。灰は灰に。塵は塵に。しかし見る人がそれを美しいと思うのならば、それでいいのだと思う。
会場でじいとハンス・ベルメールのグロテスクな、というか身体がねじ曲がって、出現している銅版画がいいなあと見ていると、ギャラリーの人に「ここにもベルメールがございますよ」と声をかけられ、「ああ、ありがとうございます」と返し、別の作品も見るのだが、中々好みだし一番安いのでセール価格で七万。他にピカソのウォーホルの百万の絵を目にしていたので「七万ってやっす!」と思う。セール会場の数字のマジック。
ベルメールの絵の近くに、小倉遊亀の花の静物画があり、それもなんとベルメールと全く同じ値段だった。企業のロビーに飾ってもおかしくない小倉の画と、個人宅に飾るにしても来客をどきりとさせる画が、同じ値段で近くに並んでいるというのがなんだかおかしく、しかしその場でそれを話すような人もおらず、ベルメール七万ならタダみたいなもんだから、等と一瞬の気の迷いもあったが、勿論買わずにその場を後にして、あんなの買っても飾ったらヤバイだろ、と思わないこともなかったのだが、ふと、自室の壁に貼られた画(のコピー)のことを思うと、ウォルフガング・ティルマンスやアーサー・ラッカムやマリオ・ジャコメッリやホルスト・ヤンセンやギュスターヴ・モローや名和晃平はいいにしても(そうか?)グリューネヴァルトやフランシス・ベーコンやアラステアや山本タカトや甲秀樹やらは……と、まあ深く考えても仕方がないし、事情がありこの家に人を呼んだ際には、相手は「ヤバイ」ということには触れてこないから、まあ、いいということにしよう。優しい世界例えば毛布人肌ひとり。
『美しいハチドリ図鑑』というのを借りたのだが、これがえらいよかった。ハチドリがたくさん載っているんだから悪いわけがない、いや、ハチドリが小さいからか、ページに余白が多いのが気になるのだが、それでもいい。ハチドリが沢山! 素晴らしい。
哺乳類は好きな生き物がとても多く、一番と考えると悩む。だが鳥類で一番好きなのは鷲や鷹や鸚鵡も捨てがたいのだが、ハチドリが一等わくわくする。欲しい。綺麗で小さくて花の蜜を吸うとか最高だ。食用花、というのが売っているが、味がないもしくは味に期待はできない。でも、花々だけを食べて暮らしている人がいるとしたら最高にキュートだ。つまり、ハチドリは本当に素敵だということ(昆虫も花から栄養とってる気がするけど、気にしないでおこう)
俺の家、花園で、空にはハチドリが舞って陸には虎が歩いているなら最高だ。そういう家が理想だ。で、そんなバカげたことをやった。ノイシュヴァンシュタイン城、ルートヴィヒ二世=ヘルムート・バーガー おっと、ネバーランド城主マイケル・ジャクソンはほんと夢を与えてくれる存在だ。気高く愚かであるということはなんと愛らしいことだろう。
他人はスタアの王様の盛衰を味わえる。他人にとっては、スタアの凡人の傷も輝きも娯楽になる。でも、それを目の当たりにして、自分も何かの当事者でなければと思うようになる。俺も誰かにとってのひまつぶし、カストリ、娯楽、自慰の共犯者。そして俺は俺の当事者。せいぜいかっこつけなければエゴを成立させなければ。
あと数時間であと何日で仕事に出なければと思うと気がめいって何もかもどうでもよくなることがしばしば。それでも幻覚で目隠し。根本的な治療なんてない。病は常にアップデートされる。
それでも、生きている、生きていた誰かの姿は痛ましく愛おしい。一瞬のたまゆらの或いは滓のようにこびりつくめまいをくれる。
再読する、 芸術家との対話 矢内原伊作 。アルベルト・ジャコメッティと彼はとても真面目だから好きだ。素直というのはとても素敵なことだ。素直で真面目で居続けるというのは困難だ。だからそういう人々のことを考えると、身を律するような心持になる。
「哲学とは愛知です。物事の根本的な真理を知ろうと努めることです。ところが今日では哲学は一つの狭い分野になっていて、
そこでは自分で哲学するよりも過去の哲学について議論することが重んぜられています。人は私にそういう狭い意味での哲学を
求めていますが、それは私にはまったく興味がありません。私にとって必要なのは、デカルトやパスカルについて知ることではなく、
デカルトやパスカルのように生き考えることなのです。哲学について学ぶことではなく、人生そのものを学ぶことなのです。この時、
哲学論文を書くことも芸術論を書くことも私にとっては全く同じことです。そしてそのいずれも、究極においては詩になるように
思われます。なぜなら深い心理は詩としてしかいいあらわせないからです。それはちょうど、あなたが粘土をこねて一つの
彫像をつくる、それと全く同じ仕事ではないでしょうか。哲学者も詩人も、粘土の代わりに言葉を用いて真理を刻むのです」
215p
「おお、君は美しい」と彼は嘆声を発する。「とらえるには美しすぎる、それは私の力を超えている」と。美しいのは私の顔ではない、
彼が見ているものである。モデルは誰でもよかった。すべてのものが彼には、「とらえるには美しすぎる」ものとして
見えていたのである。
ふと、ファイトクラブに自分が感動しないのは(殴り合うシーンとかにだけわくわくするのは)自分が社会や環境を変えようという欲望、または自分が認められたいという欲求が希薄だからかもしれないと思った。あくまで自分のエゴイズムの問題だ俺の場合。多くのアメリカの映画の社会性がある部分がどうも苦手だ。俺、放り出してくれる映画が好きなんだ。でも、放り出されてばかりで、なにもかもどうでもよくなることもしばしば。
何かを変えたいとか愛されたいとか認められたいとか、そういうのが希薄になると、とても精神的にグラグラぐだぐだぐわんぐわんだ。俺の身体はきっと生きたいと思っているのに、俺は様々な事柄から逃げて逃げ延びているのだ。
そして自分の手にはエゴイズムと幻覚、と思うと何だかしょうもない。しょうもないけれど、手持ちのカードで生きのび誤魔化すしかないのだから、幻覚の先は多い方が良い。
Puzzle Bobble Theme PC CD-Rom version
パズルボブルのテーマ曲。こういうチープな遊園地みたいなサウンドがとても好きだ。カラフルな泡を消すだけのゲーム。かわいいむなしい世界。俺の生活。
この雑記(本文)以上に適当につけている題名は何をしよう、と思い頭に浮かんだのがセンターフォールド。
堕ちた天使 J. ガイルズ・バンド
こういう曲元気になりますね。アメリカ万歳ファイトクラブ万歳!!! 健康に良いから多分、こういうのも聞いていこう。そうしよう。