参加して秩序を与える/他人に翻弄される

普段建設的なことが出来ていないから、何もせずに終わる一日の憂鬱と罪悪感がひどく、どうにかしたいのだが、俺が社会性を身に着けるとか適合できる、とかいった宝くじで10万円が当たるような夢物語よりも(随分安い夢だな)、例えば小説が少しかけたとかいうことで気晴らしになる。書くこと。埋葬すること。膿を出すこと。それらを人目に触れられる程度まで、或いは自分でとりあず納得する程度まできちんと精査して秩序を与えること。

 頭の中を整理する為の雑記。

 本が読みたいのに読めない。俺はまっこと、集中力がない。好きな映画でも本でも、これを消化するのに何時間もかかるのかよと毎回げんなりする。好きな人が書いた本は、付き合うのに面倒なことが多く、ついつい読みやすい本を、読書をしたくない時に読む本を選んでしまう。

 そういった本は図書館でまとめて借りる。インターネットで検索ができるから、頼めば所蔵してない本も取り寄せができるから、君の近所にもほら、Library of Alexandria。

 

 パソコンの知識にも数学や理工学の知識やら能力にも欠けているし、ろぼっとアニメもピンとこない(大好きなロボットアニメは『無限のリヴァイアス』だ。だって、主人公が作中に出てくる巨大な戦闘用ロボットに乗れないのだ! それなのにちゃんと主人公の役割を全うするのだ)のだけれど、アンドロイドとかメカとかにはわくわくしてしまうので、よくそういった新書(専門向きでない初心者向けの本)を借りる。

『東大教授が挑むAIに「善悪の判断」を教える方法』 鄭雄一

『アンドロイドは人間になれるか』 石黒浩

 どちらもさらりと読めるし、面白かった。俺とは違い、組織に属している人、或いは作り出す作り上げるということに価値を見出しそれを続けられる人、というのは地盤があるというか、何かを信じられる人なのだという感がしてしまうことがあるのだが(つまり俺は信じられないのだ多くのことが自分のことが。自己嫌悪とかニヒリストとかではなく離人感に近いような感覚ではあるが病気の話をしたいのではない)。講義、というのは良いものだ。俺は多くのことを知らない。そして忘れる。

 この新書の良かった所も、数日前に読んだから、文章で要約したり抜き出したりすると時間がかかってしまい、本来の用途、俺のリフレッシュ兼現実逃避からずれてしまうのだが、 少しくらいは書いておきたい、すぐに忘れてしまう自分の為に。

 先にあげた著作について。様々な哲学者の言葉を引きながら、人間を殺してはいけない、という命題に対してここでいう人間とは「仲間」であり、仲間とは「協力・分業して社会を形成する相手」であり、仲間には身近な存在である「リアルな仲間」と宗教家と信者の関係性や〇〇民族といった「ヴァーチャルな仲間」がいるとする。

 ロボットが仲間になるには道徳をおしえなければならない。道徳をモデル化する際に参考としてモーセ十戒を見てみると、そこには個別の掟(場所や仲間の範囲と共に内容が変わる)と共通の掟(社会形成の為に最低限必要なこと)があることがわかる。この二つを統合する基本原理とは「仲間らしくせよ」であり、それは個別の掟(仲間と同じように行動せよ、その場で変化するきまり)と共通の掟(仲間に危害を与えるな、変わらないきまり)でなりたつ。

 そして道徳を分類して教える、のだが途中で大学の共通教養の講義をうけているような気分で何だか楽しくも、面倒になってきた。違うんだ。この本はさらりとよめるし俺じゃない人がちゃんと要約するべき良い本だ、じゃあなくて俺がだらだら書きたかったのは、シリアル・エクスペリメンツ・レインというゲーム(アニメ化もされた)についてなんだ。

 

 このゲームはレアなPSのゲームで、秋葉原のショップとかで2,3万の値段がついて並んでいるだろう。レアゲーはほとんど持ってない(持っていても売った)俺は何年も前からプレイしたいと思いながら、その機会はないかなと思っていた。

 そして、先日ネタバレ前回解説動画と、別の人が投稿したゲームの動画を見た。ゲームの著作権が、といった話は困難なことになるので、俺は権利を持っている人が有料でアーカイブ化か再販するのがいいと思う、(でもこういうのって誰に権利があるのか難しくなっているのが多いと思うが)で終わりにしたいのだが、そのゲーム解説動画もゲーム動画もすごくよかった。そして小さな寂しさも覚えた。自力でプレイしていない、つまり俺はレインの感動には会えないのだということだ。

ゲームの説明。というかコピペ

存在は認識=意識の接続によって定義され、人はみな認識によって繋がれている。
記憶とはただの記録に過ぎない。

コミュニケーション端末が普及し、Real_World(現実)とWired(ワイヤード)が普通に扱われる世界。14才の中学生、岩倉玲音(レイン)の体験する不思議な出来事が、玲音の視点で展開していく。

このゲームでは「精神病に関するカウンセリングを受けている玲音」と「そのカウンセラーである米良柊子」たちの、日記と備忘録と治療記録を、文章と映像で追っていくという、サウンドノベルともまた違う構造になっているからだ。いわば、ゲームで見るオフライン版ニコニコ動画、というよりyoutube
そのため、プレイヤーは常に2人やその他の人物がつけた「記録」を読み、そこからlainにかかわる設定や心理を類推するよう強いられる。よって、単体ではその意味が分かりづらく、他と相互に補完することでその機能を果たす。

https://www.youtube.com/watch?v=4-PkAQcuZOw

Lain opening [Full]

これを見て惹かれた人なら、もっと長尺のを見たならば、多分もっと好きになるはずだ。

 

 ただ、動画がなければプレイする環境はなかったし、俺はレインを知らずに一生を終えたはずだ。例えばクーロンズ・ゲートという九龍城をうろうろする、自力ではプレイしたくないけれど魅力的なゲームがあった。俺はサントラは借りたが、プレイは動画で見た。九龍城の中をうろうろする、魅惑的でげんなりする内容で、自力だと途中で投げていただろう。でも、プレイしていないくせに、俺はそのゲームが好きなのだ。

 レインも、プレイしたかったのに、見てしまった。楽しかったし、良かったけれど、拍子抜けした。お金と時間と体力の関係上、やりたいゲームの一部しかプレイできないのは分かっているけれど、自分で楽しめたら、その時何を感じたのかな、と、動画を見て、ふとそう思った。

 きちんとプレイをしたわけではないので、物語にたいする雑な感想から、「プレイする」ということが抜けているのだ。

 何を言ってるの? と思われた人は、多分ゲームをしない人だ。ゲームをするというのは数時間、数十時間ボタンを押し、自らそれに参加するということだ。

 学校での合唱曲でも、身近な好きな人が歌った歌でも、好きなアニメの主題歌でもいい。そういった曲は、通常ならその人にとって、普通にどこかで流れていたら気にも留めない物であっても、きっと特別になる。

 自分で参加する、ボタンを押すというのはそれに近い、いやもっと大きな何かを感じる行為なのだと思う。

 サンサーラナーガ2というゲームがある。とても好きなゲームで、それをクリアした俺はすごい空しく寂しく晴れやかな気分になった。ゲームは輪廻転生がテーマの一つになっていて、ほのぼのとした絵柄ではあるが世界観は結構ハードだ。自分の好きな先輩の龍使いの女性の龍が世界を滅ぼす存在で、それを主人公は殺すように言われる。その女性は、龍を守るため逃げる。そして世界は崩壊していく。その中で主人公は上の命令を守り彼女を、その龍を殺す旅に出る。拒否権はない。だって、ゲーム(初期のスーファミ)だもの。

 ネタバレだが、ゲームをクリアすると、クリアしたゲームのデータが消える。これは、最初バグか何かかと思った。ゲームの怖い思い出。この怖さは虚しさは、動画サイトではなく、プレイした人にだけ味わえるものだと思う。多分ゲームをしない人にはゲームをクリアしたらデータが消えるというのを聞いて好意的な人でも「へーすごいね」といった感想しか生まれないと思う。それは仕方がないことだし、俺も多くのゲームのエンディングを他人がプレイした動画で体験した。そしてその中のいくつかに感動した。でも、レインは、もう「へーすごいね」になったのだ。俺はもう初めての経験が出来ないのだ。

 ゲームのバグ、という要素がとても好きだ。ゲームでシナリオ以外で不安になってしまう現象。聖剣伝説レジェンドオブマナでは地獄みたいな所に行くと、必ずゲームがフリーズしてしまった。その地獄みたいな場所が魅力的で、何度も試して何度も進行不可能になった。ディスクに傷があったのだ。数年後に新しいディスクを買った時は、普通にプレイ出来て、ほっとして、がっかりした。

 GBの初代サガでは、主人公が街を歩いているといきなり「いもむし」になった。このゲームでは仲間キャラにモンスターが存在するので、主人公が「いもむし」というのは通常プレイでも普通にあるのだが、エスパーマンの強い「俺」が、バグで「いもむし」になったのはまるでカフカだ!とわくわくした。(リセットしたら「俺」はもとに戻れてほっとした。「セーブ」しなければ、悪夢から覚めれたのだ)

 女神転生2では、ゲームの途中で主人公「俺」のHPの数値がバグって赤い、変な数字になった。このゲームは元々バグが多い。そしてパソコンで色々なことを表示、表現しているという設定なので、数値が変になったのがゲームの中の機材の故障みたいで、なんだか無駄にわくわくしたのだ(これは数分プレイしたらなぜか直った)

 ゲームをしていて、ゲームから放り出される。娯楽で迷子。バグでも、製作者の意図でも、そういう経験にひどく興奮する。これはきっと体験した人特有の感覚なのかもしれない。

 レインというゲームとノエルというゲームに共通するスタッフがいたそうだ。ノエルはレインと違って安く手に入るし、熱狂的なファンはごくわずかだと思う。俺はこれもプレイ動画で見た。でも、このゲームはそれでもいいと思った。

 ただ、プレステ当時の近未来設定、仮想空間を舞台にしたコミュニケーション、というのはとても魅力的だ。

 ウィキペディア先生によると

 

 

なお、本作の開発スタッフの一部は、同じく「アタッチメントソフトウェア」である「NOёL」シリーズの開発も手がけており、両作品の間には「現実世界と仮想世界の境界が曖昧になるようなプレイ感覚(ただし方向性は正反対)」「断片的な情報を元に全体図を想像する楽しみ」「観測システム『思い出君』の存在(本作ではネットエージェントプログラム、NOёLでは自動追尾式浮遊カメラ)」といった共通点を見ることができる。

 

 ということだ。未来のコミュニケーションも、漫画のゲームの中のコミュニケーションも、何だか不便で便利で魅力的なんだろうなあ。

 

 ノエルについての雑な説明。書いた俺の昔の雑記を引くと、

 

 PSのゲームでノエルというゲームがあった。スマホはもちろん、きっとスカイプで無料通話なんてのも一般的ではない時代の、少しだけ未来の話。旅行に出た主人公はビーチで出会った三人の女子高生と「テレビ電話」でやりとりをする。それだけのゲーム。ただ、そのゲームは本当に女の子と会話をすることしかない。その上ギャルゲーとかによくある好感度やらパラメータが見えないようになっている。とにかく女の子と喋ることに重点が置かれていて、それがこのゲームを困難で理不尽な物にしている。とにかく不親切なのだ。

 ただ、PS時代には技術が追いついていないというか、意欲的ではあるが、一部の人しか楽しめない代物に仕上がったというべきだろうか。

 十数年前にこのゲームをレビューしていた記事の内容が今も印象的で、胸に残っている。ライターは文句を言いながら、理不尽な仕打ちに、ゲームの中の女の子に振り回される。言っている言葉が嘘に聞こえたり「エンディング」が迎えられなかったり、つまり彼女があまりできのよくない「プログラム」であることに。彼がそのことで友人に愚痴をこぼすと、友人はこういう。

「仕方がないよ、だって〇〇はそういう女の子なんだから」

 その言葉を聞いて、ライターはまたプレイを再開する

 といった内容だったはずだ。そう、機械と心が通じ合うかのような奇妙な瞬間。好ましい錯覚。

 

 レインは女の子の記録を見ることしかできない。ノエルは女の子と、とても出来の悪いコミュニケーションをとる羽目になる。なんでこんなことをしているんだろう? という感覚。でもしてしまうんだ。

 書いたり、翻弄されたいんだ俺は。