他人のそらに

こんな夢を見た。 で始まる夏目漱石の『夢十夜』はとても美しい作品で好きだ。漱石は好きだけれど、気軽に楽しめる作品(短編)がこれしかないような気がする。他人の夢なんて興味ないしつまらないのだけれど、漱石のなら別だ。

 俺も、こんな夢を見た。

 

 地下鉄で、破滅の虜、みたいな瞳の人に誘われて、服を脱いで情交。俺は地下鉄でそういうことをするのはよくないんじゃないかな、と思いながらやることはしっかりやる。

 そして、通りすがりの人の家に泊まり、翌日知らない街をふらふら目的もなく歩いていると、自分が財布を無くしたことに、いや、盗まれたことに気が付くのだ。その額6万円。港区が買える値段だ。俺は絶望してから激怒する。そして、仲が良かった犯罪者に会いに行く。

 彼になんとかおれの金を盗んだ、あの悪人に会わせてくれと頼む。しかしその元友人は苦い顔をして言う「できなくはないんですけど、そういうことしたら、みんなが困っちゃうじゃないですか」と。俺はその言い分を理解できないのだが、もうお金は戻ってこないことに気づく。いじけて浅草を歩いていると、ヤクザ映画の撮影中で、おお、やはり映画は生で見なきゃいけないなあと思う。そして突然、俺の足元が代官山、シュプリームの店舗が近くにある大きな橋の上になり、ふわっ、とした橋の上の浮遊感、解放感を味わい夢は終わった。

 劇的につまらないし下らない。その日は遅刻してしまった。

 お昼にイチゴホイップパンを食べた。そして、食べたゴミを捨てに歩くと、知らない社員の女性に呼び止められた。イヤホンをしている俺が驚いて立ち止まり、片方イヤホンを外すと、彼女は「クリームがついてますよ」と微笑み教えてくれた。よく分からないまま左頬をぬぐうと、「右です」と言われたので右をぬぐった。

「失礼しました」と俺は口にして、後でティッシュで顔を拭いたら、べったりクリームが付着していた。なんで気が付かないんだ俺。

 仕事帰り、アイスを買って帰り、ベッドの上に置いて、寝る前に液体状になっているそれに気づいた。封をしたままだったから平気だろうと、冷凍庫に投げ入れて、寝た。

 ここは幼稚園児のじゆうちょうかな?

 翌日も仕事に行くんだ俺、マジ機械化身体。人身事故の影響で、電車が遅延、まばら。iPodから流れるのは研ナオコ

 

 

 

夏をあきらめて 研ナオコ

 

 この人のファンというわけではないのだが、このハスキーボイスと幸薄そうで情にもろそうな感じが好きだ(失礼だな)

 電車の中で回らない頭で斎藤環佐藤優の対談本を読む。俺が興味が無かったり激怒嘔吐しそうな題材についての対談。なのに、結構面白かった。それは、斎藤環が、この本ではかなり下品だったから。

 佐藤優を煽ったり、わりと品がないことを口にしたり、普段はそういうのを抑えている人だからか、興味深かったし、スリリング。佐藤優はあまり好きではなくて、それは彼のキリスト教徒、「選ばれている私」といった態度がなんか好きになれない、というかそれを言ったらキリストとキリスト教夢魔のメロドラマ、(ダグラス・サーク小津安二郎の映画のような、感動せざるを得ない、残酷なメロドラマとは真逆な)として麗しくおぞましく、しかしキリスト教徒は何だか俺には合わない。そう、彼らは選ばれているのだ、選ばれたいと救われたいと思っているのだ。

 でも、対談中に佐藤優が他の作家、カトリック教徒らしい人をこき下ろしていたのも面白かった。そう、神様は見る人によって違う。いや、そんなことはどうでもいいんだ、ただ、はげしい嫌悪にその人の立ち位置が美意識が現れるのは興味深い。

 自分の生存の為の嫌悪ではなく、意志を持った嫌悪というものは、その人が大好きな物を語るのと同様に興味深い。大嫌いだ大好きだと何度でも聞いていたいし言っていたい。ただ、下品な言葉に復讐されるのだみんな。だから、俺は山ほど嫌なことが嫌な人がいるけれど口にはしない。自分の醜い言葉に復讐されるから、って、言ってるけど、復讐されているけれど。

 悪口を言うな、いいえ、言いなさいと常に迫られて、どちらを選んでも苦い勝利だ甘い痛みだ。

 斎藤環は普段そういうことを言わないのに、あからさまな見下しやらがあって(でも、それは「優等生」として当然の反応なのだけれど)結構珍しいな、と思い、楽しかった。

 対談集とか、そういうのが好きでよく読む。理由は簡単に読めるから。でも、繰り返し読むのが好きな俺には、そういう軽い気持ちで読める本が内容がとても助かる。ほら、デパートで無駄遣いができるような男じゃないんだ、だからせめて誰かの熱心な独白を演説を無駄遣いさせてくれ。

 河出書房ムックの中平卓馬、また再読。ほんと俺、好きだなこの人、というか自分が本を借り過ぎていて、雑に読み過ぎていて、何でこれを読んでいるのか借りたのかも覚えていない。家にあったから、電車内で暇だから読んでるんだよね、でも、色々読んでいるけれど、わざわざこうやって書いているのは好きだから。どうでもいい本の感想よりも、同じ本の感想を何度も書く方が楽しいんだ。

 中平について、盟友の森山大道との対話よりも、距離と敬意を感じる、浅田彰、リーウーファン、赤瀬川源平の言葉の方がずっとスリリングだ。浅田がゴダールと中平の親近性類似性について語る時、彼とは違う、もっと単純な文脈、 彼らはロマンチックの極北にまで到達し、自然を美しく撮るようになった、というのが俺の感想で、それとは慎重な込み入った視線、ではあるものの、浅田の話しはいつも面白いから好きだ。評論家にはポエジーと誠実さと悪意と知性を。彼は全部ある。そして全部あっても物足りない、いや、ある人には足りなさを感じてしまう。

 でも、好きだ。何度読んでも楽しい。写真が撮られてしまったものだ、というその事実に拘泥してしまう。なのに美しい。自我なんて自分に居直ることなんてしなくてもあんなにも豊かなんだ。撮られてしまった、映ってしまったものが、生き生きしている(よりよく見せるという意匠や「作家」なしに)というのは、何だかいつも戸惑ってしまうのだ

 

 中平のゴダールの映画が、ロマンチックの極北に到達した瞬間がある、として、それから更に先に進むのだというのはとても嬉しい事実だ、しかし、赤瀬川源平が、記憶喪失後に中平と会話した際に、彼が「いやあ、自分でも何も面白い話のできない、お役人みたいな人間になってしまって……」

 と話すような会話を交わすようになってしまった落胆、そして彼の日記、というか記録を目にした時の赤瀬川の表現、

 快感といっしょに恐怖を感じた、生きている人間が身をもってする、恐ろしいユーモアである という言葉は何だか胸に来る。精一杯生きるのは、困難なことで、とても夾雑物が多いことだ。ただ、敬意を抱く人は抱けるような人はそういったいっさいを受け入れ跳ねつけ、まあ、とにかく生きるのだ。

 こんな雑文を吐き出している暇があれば家の掃除でもした方がいいのだけれど、まあ俺もゴミ出しをしていかなきゃならない。

 

マッピーキッズ STAGE 2 BGM

 この曲、ほんとにファミコンの曲かよって感じの素晴らしい曲。ファミコンかよ、とか言いながら、ファミコンの良いとこたっぷりだよねナムコサウンドというか初期ナムコ。色もキャラもハードケースも曲も、全部「ファミコン」という感じがするんだよナムコット。カラフルな子供の夢いっぱい表現してるの一番うまいのナムコ、とか言っても名前負けしないと思うよナムコットナムコ

] ActRaiser 人々の誕生 BGM

 この曲ほんとスーファミの曲かよって感じのスーファミの曲。古代祐三はすごいけど、アクトレイザーが好きすぎてこればかり聞いてしまう。アクトレイザーのサントラって神話感というか、ゲームにマッチしすぎていて震える。

 パソコンがいかれているのか、戻って文字を修正しようとすると、文字が代わりに消える仕様になってるの。なんで? なわけで、全く見返さないで終わる。いつもよりもさらに酷いことになっているかと思うと震える。

 

(松坂慶子) 愛の水中花

お詫びの動画です。この時に20代って、時空のゆがみを感じる。

まるで、誰かの夢のような、酷い文章。