主人公の親友はいつも病魔

自分の身体の不調を意識してしまう。あれもこれも、片づけなきゃならないのに、のんびり、何も考えないことが良いとは分かっていても、そんなことが出来るわけもなくぐだぐだと。

 自分の身体が自分の物になって欲しいのだけれど、それは難しいことだ困難な問題だ。だから俺、数時間に一度、世界とチューニング合わせていきてるんだ、って、まるで一昔前のラノベ主人公みたいでかっこいいですねどこがだよ。

 森山大道写真集『宇和島』 電車内で読む。新書サイズより少し大きな、気軽に読めるサイズのこの本は、正直、あまりよろしくないのでは、と思うのだが、巻末近くの大竹伸朗(ファンではない)の文章を読んでいると、急に、これはそんなに悪いものではないのではないのでは、と、最初の方からパラパラ見返してみると、何だか良さが分かってきた、ような気になる。

 その時、聞いてたサーストンムーア、何だかすごく「宇和島」に合ってたんだ。うらぶれた、でも、人々の生活の匂いがする空間にぴったり。

Thurston Moore - See-Through PlayMate

 森山大道の写真(集)は、きっともっと優れたのが沢山あるだろうけれど、これだって、中々、と思い直す。この一枚が好き、とかそういうのは無いのだけれど、というか、そういう読者の勝手な思い込みが没入ができる写真というのは特別な物だけれど、決して特別ではない写真達の集まり、ゆるい、田舎の連帯みたいなのを感じたんだ。小旅行気分になれたんだ。

 

 本を読むと、何もしていないのに、何かしたような気ができるからいい。日々が虚しい人は毎日本を読み過ぎればいいんだでも、本ばかり読んでいると自分の生活がどうでもよくなる。自分の生活をよくする読書と言うのは、あまり信じられない(勿論それは、無数にあるのだけれど)。

 

 仕方がないから、自分が書いた小説を読み直す。音楽に困ってグレゴリオ聖歌をリピート。穏やかな厳かな気分だ。無音も嫌だし雑音も嫌な時は本当に助かる。

 自分の書いた小説を読んでいると、何だか不思議な気分になる。自分の好きな題材や問題について書かれているはずのそれは、自分の好きな物について書いてあるのだからそれなりに楽しめるのだが、その反面、何でこんなことを書いているのだろうという気にもなってくる。詩学と徒労。不毛の地に花を吐いて唾を吐いて、まるで病人、まるで、特殊能力なし病巣バグ疾患標準搭載虚妄の申し子ラノベ主人公気分の、しかし、俺は俺の人生の最高責任者。

 サンテグジュペリの、1993文芸フィガロのインタビュー


「飛行機に乗ることと文芸作品を書くこととでは、あなたにとって、どちらがより重要なのですか?」という質問に対して、彼は答える。


「わたしにとって、飛ぶことと書くことはまったくひとつなのです。肝心なのは行動すること、そして自分のいる位置を自分の中で明らかにすることです。飛行機乗りと作家はわたしの意識の中で同じ比重をもって混然一体になっています」

 見栄っ張りで浪費家で自尊心が高くて、素晴らしい作家の彼の言葉は、飛行機に乗ること、で生み出される文章。それって素敵なことだと思うのだけれど、自分にそれができる気がしない。生活と創作にまたがって生きるんだ。それは、傍から見たら何だか頼もしく映る。でも、俺じゃない。俺の生活、一人で本を読んで一人で眠ってそして、たまに出会うんだ誰かと。その繰り返し。

 

 再読する、『神話なき世界の芸術家 バーネット・ニューマンの探究』 多木浩二 この本、引用したい、忘れたくない個所が多いんだ。

47 彼が言語による思考の役割に、科学とは異なる(つまり詩的な)機能を認めていた例としては、詩人としてはもちろん、美術批評家としてもボードレールを高く評価していたニューマンが、1968年1月にパリで開かれたボードレールのシンポジウムに招かれ、美術批評について語った『情熱的な批評』という講演をあげておくのがよかろう。

その時彼は「私が美術批評家に求めているのは科学的な論文または芸術作品をつくることではなく、彼がそれ<批評>を書く度に、自分自身を創造することである」と述べている。「自分自身を創造すること」つまり詩的な言語の働きである。

89 あえて形式主義的にいうと、モンドリアンの自己言及性はヴォリュームに基盤をおく建築空間の経験と整合する空間としての絵画の純粋化であったが、ニューマンのフィールド絵画はこの整合性を拒否していた。ここでいうヴォリュームとの整合性の意味は、モンドリアンの一時的な仲間であったデ・ステイルの芸術家たちの空間化された仕事を思い浮かべれば理解できるであろう。モンドリアンがニューマンを苛立たせたのは、次元の差異には意識的であっても、結局はこの異次元間になりたつ整合的関係を求めていた以上、抽象絵画といえども伝統的な建築空間に属する表層的な空間であることを免れないからであった。

 ニューマンのあたらしさは、絵画であり、かつ表層空間ではないことにある。あとになってもう一度、われわれはこのパラドックスに正面から取り組まねばならないだろう。簡単に予告しておくと、彼の研究の独自性と困難さは、従来の絵画のありかたでは人間の自然な知覚と想定されてきた慣習とは異質な、あたらしい知覚的経験の次元を発明しおうとしたことにある。

 109 ニューマンの言葉


「空間の自由、人間的スケールの感情、場所の神聖さは、うごいているものである―サイズではない(私はサイズを克服したい)、色でもない(私は色を創造したい)、領域でもない(私は空間を宣言したい)、絶対でもない(私はすべてのリスクを感じ、知りたいのだ)。眼が見えず言葉もないフェティッシュや装飾は、<自己>の恐怖を見つめることのできない人々に
しか印象を与えない。テリーブルでコンスタント(常に一定していること)な自己こそ、私にとっては絵画と彫刻の主題である」

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 第一回の展覧会で書いた文章


「これらの絵画は<抽象ではないし、<純粋な>理念を描いたものでもない。それぞれの絵画がそれ自体として感情の、固有な分離された実体」であった。彼はしばしば「感情」という言葉を使うが、それはスピノザに由来しているのかもしれない。彼は(すでに引用したように)「絵画は感情と同様に、生きた声である」と述べているのだから、感情とは絵画がそれ自身として獲得した「強度」をさしているのである。それはストライプに見えるZIPのあるなしにかかわらず、画面をより明確な絵画的な強度を持つフィールドとして組織することが目的であった。

 自分用の備忘録、メモ。

 売却されてしまったニューマンの作品は、もう日本にはない。でも、俺はそれを十年くらい前に見ることができた。見ることができて、本当に良かった。ただの塗られた赤が、白い線が、描かれているものだって知ることができた、いいや、それだけじゃなくて、その一件単純な要素によって構成されたように見えてしまう画に、直接会って感動できたことが、未だに自分の中で生きているんだ。

 豊かな絵画、という体験。それはとても贅沢な経験だ。好きな誰かと、少しでも同じ空間にいられたら。そして、製作者の考えにも感応出来たら、それは本当に素敵なことだと思う。作品さえよければ、作りてなんてキャプションなんてどうでもいい、けれど、それを深く理解し、見ること考えることに還元できていたとしたら、俺もラノベ主人公の飛行機乗りの気分だ。

「みんなは楽しく哀しく生活してるけれど、そのみんなのためにまた俺様世界救っちゃいましょうかね」ってな具合、だけれども俺、世界救うよりもくにお君の4枚組のCDが欲しいんだ。

くにおくんシリーズ個人的名曲メドレー(FC篇)

 改めて聞くと、こんないい曲ありすぎたんだね と思う。ロックマンに曲調が似ているのが多い気がして、すごい好みだ。特にドッジボールソ連の曲が好きだなー。くにおCD200曲以上で5000円位するんだよ。200曲聞くの、楽しくて面倒。それに何より、5000円って人殺ししなきゃ手に入らないじゃんか、来世に期待しよう。

 

 

 ドラえもんギガゾンビの逆襲 地底フィールド

 この曲、というか、ファミコンのドラちゃんいい曲多すぎなんだよね、これもCD化してほしい。

 あーやっぱファミコンの曲聞くと元気出てくる。俺、来世はファミコンになりたいなでも来世なんてないから今のうちに頭の中で電子音鳴らしておかなくっちゃ。