正気でも狂気でも真面目な君は好き

  家から駅に向かう道の途中、誰かの庭で一輪だけ、とても立派な白い椿を見つけた。図鑑に載っていてもおかしくない程の、豊かに花開いた椿で、通る度に目を奪われ、携帯の写真に残そうかな、と思いつつもすることはなかった。

 そんな或る日、花弁の一部が黄色く変色していることに気づいて、この花も駄目になってしまうのかなと、その前に写真に撮っておけばよかったかなと、小さな後悔が生まれる。

 そして過日の強い雨。ふと、あの椿のことを思う。頭の重い椿は駄目になっただろうと、外出時にその姿を探すと、その身体の半分以上は白さを失い、花弁の大部分は蝕まれ、それでも美しかった。写真に残そうかと思ったがしなかった。あの椿はいつ死ぬのだろうか。

 『宗教と生命 激動する世界と宗教 』を読む。シンポジウムでの対話の書籍化で、読んでいて面白かった。

 

AI、ゲノム編集の時代が来る。
知の巨人たちと最前線の研究者が、
人間の存在意義に斬り込む。

 

 とのことで、五名の有識者が語るのだが、池上彰佐藤優の対談が興味深く、以下、引用が多くなるけれど、書き写そうと思う。たまたまだが、丁度レインを見終わった自分にはちょうどいいテーマだった。俺はテクノロジーとか神様について詳しくないし、ほんとの所、そこまで信頼しているわけでもない、なのに、知りたくなるんだ。

ギルバート・ケイス・チェスタートン 英国作家で、聖公会からカトリックに改宗した、彼の言葉を想起する。


「人を正気たらしめてきたのは、何あろう神秘主義である」

 何だかぞっとしてしまう。でも、アーティストでも科学者でも宗教家でも、そういうのを大して必要としてない人にも、神秘が名付け得ぬものが助けになっちゃうって、ぞっとする、わくわくする。

 

 池上と佐藤の対談で、まず、シンギュラリティ<技術特異点>についての共通認識を確認するのだが、そこで数学者の新井紀子の本を引用している。とても分かりやすく、なるほどと感じた。

 

『AIvs教科書が読めない子供たち』新井紀子 より

 

「シンギュラリティのもともとの意味は非凡、奇妙、特異性などですが、AI用語では正確には
technological singularity という用語が使われ、『技術特異点』と訳されます。
それは、『真の意味でのAI』が、自律的に、つまり人間の力をまったく借りずに、
自分自身よりも能力の高い『真の意味でのAI』を作り出すことができるようになった地点のことを言います。
1未満の数字はいくら掛け算しても1より大きくなることはありません。
それどころか、無限に繰り返すと限りなくゼロに近づいていきます。けれども、
1・1でも1・01でも、1・001でも、
1を少しでも超える数は、掛け算を続けていくと無限に大きくなっていきます。
『真の意味でのAI』が自分よりも少しでも能力の高い『真の意味でのAI』を作り出せるようになれば、
それをものすごいスピードで繰り返し続けることで、無限の能力を持った『真の意味でのAI』が生まれるのではないか」

 

 

 この定義の上で二人は話を進め、佐藤は「チェスでコンピューターが人に勝つとか、病理診断における材料の画像を高い精度で識別できる能力をAIとは考えない」という。

 そして齋藤元章と井上智洋の共著を話題に出し、そこで齋藤は「シンギュラリティが絶対に来ない」といっている人に怒っている。本の中で名指しはされていないが、佐藤優が確認したところ、その相手が、新井紀子であるという。

 斎藤のシンギュラリティは来る、という意見に、新井は真っ向から反対をする。その様子はネットで読めて、この本にも引用されているのだが、簡単にまとめると、

 

計算が速くなったり多くなったりしているけど、今までできなかった全てのことが計算できるというのは見当違い

『ロボットは東大に入れるか』というプロジェクトをしているが、優秀過ぎるAIが、東大生が解けるのに解けない数学の問題がいくつもある。その理由は、分かっていない。

結局、コンピュータには意味がわからない、というのが決定的な弱点だといえるだろう。

言葉に関して、つまり言語に関してのシンボルグラウンディングは全く理論上も突破できる見込みがまだ立っていない。

シンギュラリティが来るかもしれない、というのは現状では『土星に生命がいるかもしれない』とあまり変わらない。できるできないの証明は難しい。一方で、土星土星人がいるかもしれない、ということを前提に国家の政策について検討するのはいかがなものか。

 

 

(ということを言っていて、本来なら俺が齋藤氏の意見や本をちゃんと読んでから話を進めねばならないが、あくまで『宗教と生命』を読んだ時点の感想を書いている。この文章は齋藤氏を貶めるという意図ではない。今後齋藤氏の本を読んで何か思う所があれば、追記しようと思う)

 

 池上と佐藤は新井の意見側だという見解を示している。俺もそうだ。ここで興味深かったのが、佐藤が、優秀な彼らが「そにも関わらず、シンギュラリティが到達すると主張している人たちの内在論理」が分からないと言っていることだ。俺も分からない。佐藤は言う。

 

「おおよそ合理的には論破されている言説がなぜまかり通っているのか、考えて欲しいのです。おそらくここに、AIと宗教の接点があります」

 

また、池上彰の冷静な視点。

 

池上 「シンギュラリティが来る」と言って政府からお金を集めたことで、
今、齋藤さんは小菅の拘置所にいます。シンギュラリティが来る、
だからそこにお金を注ぎ込むべきだという話に、私はなんとなく胡散臭いものを感じてしまいます。
そのような夢を語るとお金が集まる、
国からお金を引き出すためのキーワードとして「シンギュラリティ」が使われているのではないか、という構造に見えてしまうのです。
その点、新井さんは「シンギュラリティは来ない」などと発言したらお金は集まらないのにそれでもきちんと言っています。

 そして、池上は

政府が旗を振っている新しい物はここにあるよという研究者や研究施設には研究費がたっぷりはいるという構造になっていて、その構造に踊らされているのではないか、と危惧している。

 それに対し、佐藤は斎藤の初期の分厚い著作を読み、本物感が漂うと、詐欺師の書いている本だと思えないという。

 

 ちびっこ向け少年漫画に出てくる悪役なんて、いないなんてこと、ちびっこだって知っている。でも、善意で正義で誰かを陥れる阻害する権利を奪う、その恐ろしさって、体感するのはちびっこでは無理だし、他人のそれを矯正するなんて無理だ。だって、その人はそれがいいと思っているから自分がそれが誰かが正義だと、自分が被害者で正当な権利を主張している「だけ」なのだと信じているから。

 知らず知らずのうちに、優秀であるはずの善良であるはずの誰か、によって国が自分の生活が脅かされる、ならばその前に自衛手段を行動を、なんてまっとうな考え、俺には難しい。明日とか来月のことで困ってんだ。でも、誰かの熱心な話はいつでも面白い。

 

 そして、二人はAIが成長して人間を超えるという意味でのシンギュラリティは来ないという立場を取りながらも、AIによって人が「救われる」ことはあるのではないか、という問題について話し合う。

 AIに相談をしても人は救われるのだろうか、ということに対して 評判のいい牧師はまともに相談に乗っていない人。相談者は答えが決まっていて、それを黙って(余計なことは言わないで)共有してくれる人。それなら、AIでもできてしまうかも。そう、祈るだけならば寄り添うだけならば寄り添うふりをするならば、植物でもぬいぐるみでもプログラムでも、いい、時があるだろう。

 

佐藤「人間の限られた知性によって表象される神は人間の偶像で、神ではないからです。その意味で、われわれは神を証明できないのです」

池上「仏教的にいうと、えにし、あるいは縁起ですね」

佐藤「ええ、哲学者のレヴィナスの言葉で言うと「外部」になります」

 

 といった話題がのぼり、そして、

 

佐藤「悔い改めよ。神の国は近づいた」の代わりに、「悔い改めよ、シンギュラリティは近づいた」と言う。それで今までの律法はすべて廃され、今までの仕事はすべて廃される。そうして新しい時代がやってくるのだということで、基本的には洗礼者ヨハネやイエスと同じフレームで人を煽っています。

 と佐藤は語り、宗教の構造を分析すると、それによって新しいビジネスが生まれる、ということですね、と池上が冷静に発言の意図をくみ、佐藤はそれに同意をする。

 そして、話は佐藤のやはり教養をリベラルアーツを各々が持つことが大事だ、その為に幅広い読書を学びを持たねばという、とてもまっとうな意見でひとまず締められるのだ。

 また、安藤泰至の話も面白かった。

 

 

 

 生命操作をめぐってキリスト教でよく使われる「神を演じる」(playing God)という言葉があります。普通は「神を演じてはいけない」という意味合いで使われます。世界初の体外受精児が生まれた時、それに反対する人たちは「人間は神を演じてしまっている。恐ろしいことだ」といった言い方をしました。

 ところが、アメリカのプロテスタントの中には、この言葉を逆の意味で、すなわち「人間は神を演じるべきだ」という意味で使う人もいます。人間は遺伝子操作をしてもいいから、もっと優れた存在になり、神に近づくべきだと言っているのです。(中略)また、神学者のテッド・ピーターズは、人間は神によって創られた被造物であるとともに、神と一緒に創造している共同創造主なのだと言いました。(略)

 これはルター的なプロテスタントの、有限なものをどんどん高めていったら

無限に近づいていくという発想で、「人間は神の似姿(イマーゴ)に作られた」という聖書の言葉をこういう方向に解釈する人もいるのです。

 

 

 

 

 また、前の対談の内容に戻るが、佐藤はプロテスタントについてこう言っている。

 

 

「神の領域に手をつけてはいけない」というのはカトリックの論理です。なぜなら、創造は神の秩序だからです。だから堕胎も、遺伝子組み換えもいけないことになります。一方プロテスタントは創造の秩序を認めません。従わなくてはならないのは神の言葉だけですから、何をやってもいいのです。原爆や遺伝子兵器についても、聖書にこれらの兵器を作ってはいけないとは書いてありません。その意味で、プロテスタンティズムにおいては、条件は一般の日本社会と同じです。

 そのためプロテスタンティズムは、ストレートに神さまを持ち出すことを嫌がります。ぎりぎりまで人間の知恵で考え、最後の地点で階の元へ飛び越えるのだ、と言います。

 そして、佐藤はヒトラーがルターを尊敬していたのだ、という話題に触れ、キリスト教の持つ性悪説というプログラム、自分が良いことをしようと思っても、それは悪事を行っているかもしれないという意識が、極端なひどい考えを廃するのではないかと述べている。

 

 科学も宗教も、恐ろしさを不気味さを持っているけれど、それなしではそれに近しい何かなしでは、生活するのは困難だ。それに対する処方箋は、きっと当たり障りがない、耳障りが良いもので、それは強い力を狂熱を持っているものではないだろうが、まあ、そんなものなのだろう。

 神様が機械様がいない以上、自戒することでしか、自分を見つめられないのだ。とはいえ、これは社会になじめている、属している人に有用だ。俺は違う。先にも触れたが、自分の生活一つまともにできないのに、社会が、なんて考えるのは滑稽だ。でも、面白い。誰かが真面目に、社会を「よく」しおうとするなんて正義でぶっ潰そう迫害しようとするなんて。

 でもよりよい生活を完璧な神様を高次な存在を夢見てしまう。

 いっつも酔っていたいよ、俺は。

 結局、俺は面白いとか、そんな判断基準で生きて、生き延びている。社会になじめないのに、唯美主義とか宗教に帰依しているわけでもない。できることがあるならば、自分の豊かさの為に、真剣に暇つぶし。