週刊『貴様ですら友達が作れる!』

 腑抜けだ。何もしないできない。衣食住足りて礼節を知る、という言葉を想起する。いっつもないんだ心のゆとり。お金とか友愛とか仕事とか、そういう何らかへの帰属で、人間はまともなふりができるのだと思うんだけれど、そういうのがない人はどうやってしてるんだろうまともなふり。

 小説を書き終えてしまったからしばらく何もしたくない。でも、書き終えてしまったら自分がゾンビだって気づいてしまう。気づいてしまってベッドの上にいる。ベッドの上だけ。たまに、それじゃあ駄目だって思うんだけれど、でも展望とか希望とか欲望が希薄だと、気力がわかない。ぼんやりと、このままどうなってもいい、なんて思うけれども、本心じゃあない、けれど、どうなってもいいのだとも思うし、どうなる前に何かすることがあるとしたら、そう、友達をつくろう!(仕事しろよ)

 友人、というのは中々厄介な問題で、定義は人によって異なるだろう。俺にとってのそれは、ふと、その人に会いたくなる、利害関係以外の結びつきという所だろうか。

 別に、寂しいから、グループの一員だから、その人との付き合いで得をしそうだから、といった理由でもいいと思う。でも、俺とは違うけど。そういう緩い連帯(もちろん良い意味で)を持てる人は、何らかの社会、集団(二人以上)に属せているということで、多少、いいなあ、と思わないでもないけれど、俺、スゲーって思う人は自分で作ってるんだよね、友達を。

 SFやファンタジーの設定の中だと、孤独な、或いはユニークな彼/彼女は魔法で、プログラムで人型をアンドロイドを作り上げる。でも、それって大抵悲劇的な結末を迎えるのだ。作り物の生命で充足するなんて自涜めいているじゃあないか、ってことなのだろうか。かりそめの命、都合のよいプログラムに対して、排除するような。罰するような傾向があるのは気のせいだろうか。

 ただ、今は表現の幅と言うか許容範囲の広がりで、幸せなら気持ちいいなら屍人でもアンドロイドでもオッケー、という世界には(一部)なってきているけれど、それはそれで収まりが悪い感情が生まれることもある。そう、俺は他者とはわけがわからないものであって欲しいんだ。たまに厄介で刺激的でまるで人間みたいな!

 他者がいてほしい他者が必要だ、というのは(言語に頼らずとも)コミュニケーションへの欲望と言い換えることができる。人は外部が、誰かがいないと、世界の認識において大きな歪みが生じてしまう。

 コミュニケーションへの欲望というのは多くの人間が持っているもので、「だれか」が必要なんだ。その誰かが認識できない認識する必要性が薄い大勢の匿名なのか、失われた半身のような誰かなのか、そういう自意識に振り回されないしそもそも自意識、というものに関心が薄くとりあえず誰か、でも充足できるのか、様々だ。

 俺は球体関節人形の作家の作品が好きだ。恋月姫天野可淡吉田良ベルメールも、まあ、好き。なんで彼らの作品が好きなのかと考えると、彼らの作り上げている人形が人間を拒絶しているかのようでありながらも、人形としてフィギュアとしての魅力があるから。

 人形、というのは手にできる、或いは手に入らない作品であっても、こちらから無防備な彼/彼女を凝視できてしまう存在だ。それなのに、俺(鑑賞者)は対象を所有できないのだ、と思うと、そう思える人形を見るとわくわくするのだ。

 不安になる存在の中に、ひとがたの中に、俺は他者を、得体のしれない何かを見出す。

 だから、あらかじめ傷つけられている球体関節人形はあまり関心をひかないことが多い。これからみよがしに傷を奇想をみせびらかさなくてもなあと感じる(俺は傷や奇想が嫌いではない)。何だかミュンヒハウゼン症候群めいた香りがする。オーバードーズをしたいならば、黙ってするものだ。多分。まあ、この辺は単に俺の「好み」でしかないのだけれども。

 球体関節人形は一部のマニア向け商品だった、はずなのだが、ボークススーパードルフィーの発売により、今や結構メジャーな存在になっている。一部で。

 アニメキャラやゲームのキャラとのコラボなども頻繁に行っているし、自分の好きなような「子供」を「カスタム」して「お迎え」できるシステムは現代的でとても良いと思う。

 でも、俺が写真や実物を見たドール、スーパードルフィーよりもずっとわくわくするのは、まんだらけのショーケースの中で雑に、値札がつけられ、ぎゅうぎゅうにつめこまれた彼/彼女なのだ。

 彼らは裸で、肌のダメージや変色について記され値段がつけられ、頭部が無かったり、頭部だけだったり、頭部がプラスチックにケースに収められて固定されていたり、ガラスケースの中の、人間になりかけた美しい死骸の群れはとてもキュートだ。「できあがって」しまった彼らへの関心は薄い。愛される為の人形よりも、墓場で肩を寄せ合う彼らが俺は好き。

 

 

ローゼンメイデン (Rozen Maiden) 2013 アニメ OP 「私の薔薇を喰みなさい

 かわいらしい主人公たちではなく、沢山のできそこない、ジャンクの観客たちは、何だか気味が悪くてキュートだ。

 キュートだ、けど、彼らは作品はジャンクはコミュニケーションをしてくれない。だからこそ、の美しさが彼らにはある。断絶されているし拒絶されているからこその作品。

 それだけじゃあ寂しい、コミュニケーションをとりたい僕ら君ら。

 の為に現代人は素晴らしい物を作りだす。ゲームの漫画の主人公みたいな特殊能力がなくっても会話できるんだ、ソフトの中の人と。

 俺はゲームが好きなので、たまにやりたくもない、大して興味がないゲームもプレイする。でも、その中でなんでこんなのプレイしているんだろうと思うときもしばしば。

 ゲームをプレイしない人、或いは賢明な人ならば「なんでやりたくもないことをするんだ?」と考えるだろうけれど、暇なんだ。それか、よくわかんらないからするんだ、きっと。

 今はネットでよくわからない、クソゲーやらおかしいゲームやら奇妙なゲームをプレイしたり、リアルタイムアタック(RTA)をする人を簡単に見つけることができる。良い時代だ。おかしいこと、無駄なことをしたい。そして多分それを共有したい。

 俺がやって何でプレイしているんだろう度数が高いのは、恋愛ゲーム、オトメゲーギャルゲーだった。そもそもこういうゲームはキャラクターと結ばれたい人や萌えたい人がやるべきもので、そういうのを求めていない人間がやるとすごく退屈でつまらないものになることがしばしば。

 数年前、どうせつまらないだろうな、とつまらない映画(監督は忘れたが、イギリスがどこかの、ほぼゲイポルノまがいのただ男同士でヤッてるだけの映画)を見ながらワゴンで安かった「CONCEPTION 俺の子供を産んでくれ!」という恋愛シミュレーションRPGをプレイしていた。

 どちらも興味が薄かったから、どちらも片手間でやるのにちょうどいいと思ったのだ。ゲームは恋愛シミュレーションというか、仲良くなった女の子との好感度があがるとパーティに加わる仲間(こども)が強くなるシステムで、女の子と仲良くなって、ラブラブイベントをこなし、こどもとダンジョンへ行く。みたいな内容だったはずだ。

 そして俺はそこの(ゲームの)女の子と仲良くなりたくなかった。

 だから、モニターから流れるゲイポルノ動画の嬌声、そして手元のPSPでは肌に合わないギャルの媚びた演技に、俺も媚びた選択肢を選び一喜一憂するということになり、頭がバグった。何でこんなことになった!

 って、まあこんなことはどうでもいい。ただ、俺も画面の中の美少女とか美少年とかとのコミュニケーションがとれたら、たのしめたらいいのになあ、とたまに思う。人間の友達もいないのにプログラムの友達もなしかよ! と、思うと笑えてくる。笑い事じゃない。

 人間の友達がいないとか駄目になってしまうことについて真剣に話すとしたら、俺の正気度が削られるので、ここは前向きに二次元のプログラムの友人を作るには受け入れるにはどうしたらいいかを考えたいと思う。

 前にも言ったが、二次元の、プログラムの彼/彼女に足りないのは、俺が求めているのは自立した他者、という要素だと思う。わけわからない君が好きなんだ俺。でも、そんなの高度過ぎて作れない。前にも書いたけど、シンギュラリティを内包したAIなんて今は(あるいは永遠に)出会えないんだ。

 じゃあ、人に会えば人と友達になればいいんじゃないか、と思うのだけれど、まあ、ね。それができるならばこんな文章書いていないし、でもさ、たまに、数分数時間、誰かと通じ合うこともあるたまにまれに。友達、とはいえなくても友愛の瞬間を覚えることができる感受性が自分にもあるんだと思うとほっとする。俺は人間なんだ! たのしー。って。

 でも、それってロボットとのプログラムとのコミュニケーションでも感じることがあるんだ。どうせ作り物なんだろ、っていう彼/彼女或いはミュータント。なのにさ、何時間もそのゲームをしていると感情移入してしまったり、ふとした言葉にぐらついたりする。作り物を作ったのも人間だから。

 だから、暇つぶしに作りたい人間を友達を。

 それってとても困難なんだろうけれど、ただ寝ているよりも与太話の方がまだまし。ということで、たまに頭に浮かぶ、誰かのこと。本当は俺がゲームを作れればいいのだけれど、全くできない。

 イマジナリーフレンドを作る、というよりもずっと敷居が低い行為。俺は、たまにだけれど、瞳を閉じて大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫と言うときがある。あ、これ音声ファイルとしてネットに上げて、ヤバイ時にリピートしたいなと、ふと思った。自分の為のバーチャルユーチューバー(バーチャルユーチューバーについて分かっていない)。

 でも、それなら、もっとよくわからないことを言い続ける音声とか、ポジティブな言葉を言い続ける音声もあってもいいような気がしてきた。探せばあるかもしれない。ただ、自分の好みに合うのは結局自分で作るしかないのだ。

 俺はわりと色々つまみぐいをしてきた。だからそういう人間の悪い癖で、自分で作る前から「(わざわざ自分が)こんなクオリティの低いの作ってもしょーもない」と感じてしまことがある。

 これって、よくないんだよね。何かをする前から否定的になる。お金や時間や情熱はかかるし、終わった後でがっかりしたりするけれど、でも、やっぱり何かを作らないと生きている意味を見失う。欲望なんて何もないんだって、きづきたくない。きづかなくていい。

 友達、作ろう自分で。マイクを買えばいいのだろうか? 友達が喋る文章を考えればいいのか、詩集や小説をでたらめに読もうか?

 友達作るのはたいへんですね。