ブルースは知らないコンピューターさえも

一週間の間に家でファミコンの音楽を聞いている時間が十時間を超える人の9割の脳に友人が住んでいるという研究結果が発表されたソースは無い。

I'm so happy 'cause today

I've found my friends

They're in my head

 ってことを神様が言ってた。聖書に書いてあったんだ。手元にリチウムもクラックもない人、でも大丈夫。僕も君も、ファミコンの音楽を聞いて頭の中の友達を探そう。

いただきストリート 私の店によってって♪【FC】

 これのオープニングの曲(38秒)ほんと好き。情緒不安定になる。ゲーム開始していないのにずっとこのままでいたくなる。

 筒美京平が全部作曲した2のサントラは素晴らしすぎるんだけれど、1のオープニング曲の多幸感はやばい。シンセサイザーの聖歌、のシャワー浴びてる気分。ぜひリピート。

 

 沙羅曼蛇11 Crystal Forever (ゲームオーバー)

 こっちはゲームオーバーの曲。三十秒しかないのに、ずっと浸ってたくなる。ああ、俺、駄目になっちゃったんだ、って、めっちゃダウナーな気持ちになる。テクノとブルースは人を駄目にする。聞かない方がいい。ほんと聞かない方がいい。リピートするともっと良い。

 家で、することがないから本を読む。

大竹昭子 『彼らが写真を手にした切実さを <日本写真の五十年>』

 を読む。様々な写真家について語られたそれは興味深い個所が多かった。好きなんだ、誰かが誰かの好きな物について語っているの。

 そんな中で、やっぱり一番面白いのは中平卓馬。俺、どんだけ好きなんだよ、と自分でも思わないでもないのだけれど、だってさ、彼の写真も言葉も好きなんだから仕方がない。

66 それに撮られた写真は特別なテクニックを必要としない、シャッターを押せばだれでも撮れるスナップ写真であり、その意味で「作品」としての価値は高いとは言えない。


 しかし考えてみればこれこそが中平が繰り返し唱えてきた写真のありようである。『決闘写真論』の中で彼は、写真とは自己を表現する手段ではなく、世界を丸ごと受け入れる受動的な行為であるとし、写真家が自意識を
超えてアノニマスな存在になったとき、写真は写真たる力を発揮すると語った。つまり観客を求めずに撮影行為を持続し続けることに、写真の唯一の意味を認めたのである。

 288 複雑な技術を必要とする撮影ではないものの、写真装置そのものになりきっていることが見る者を打ちのめす。
写真集を一冊出すくらいはこの撮り方でできるかもしれないが、次の本も、そのつぎもこれでいくのは非常に困難である。


それはなぜか。「写真装置」になるうちに、「私」が「私」であることの意味が失われて、不安が忍び寄るからである。


 「撮影行為によって自らの自意識を超えて行くのが写真である」と中平は説いたが、それを実現するのに必要な自意識が、写真装置になりきることを邪魔するのだ。自意識と表現意識は同じ穴のむじなであるから、表現意識を持たないことを意識する、というのは容易なことではない。この二律背反を乗りこえたところに、私は中平の凄みを感じるのである。


 構図のとり方も鋭くなっており、技術的にも躍進が感じられる。『プロヴォーク』の最終号のタイトルは『まずたしからしさの世界をすてろ』だったが、「たしからしさ」を放棄した果てに、彼は新たな「たしかさ」を
つかみとった。いまの中平の写真は、一目見れば彼の写真だとわかる特質をそなえている。


表現意識を超えているゆえに、その写真は強いのである。

 

 中平の写真が好きなのだ俺。一番好きなんだ。だから、自分が写真を撮れるような気がしなかった。大学の時にウジェーヌ・アジェの写真を知って、ああ、何だか分からないが好きだなあと感じた。

 写真が撮られてしまった、その取り返しがつかない瞬間について思う。今、その瞬間。風景をとらえるとか時間を切り取るとか誰かを収めるとか、そういうこと、ではなくて、写真でしかできないことが起こっているのだという感覚。その中には前述の出来事も否応なく内包されてしまっている。撮られてしまっている。

 一枚の、その写真に感動することについて、色々語ることはできるのだけれど、でも語っていくうちにどこか自分が下手くそな恋文を描いているような自分の中のポエムに溺れているような、そんな感覚を覚える。これは写真に限らず、芸術全般についてそういうものなのかもしれない。

 それなのに、俺は俺を、自分を起点としてしか喋ることができない。誰かの作品について語る時、俺は必ず敗北するか居心地の悪い思いをする。そうでない時は、書き上げた語り続けた幸福に酔っぱらっているんだと思う。

 俺は批評家とか評論に向いていない。だったら作るしかない。

 でも、一番ヤバイと思う写真家二人、ウジェーヌ・アジェと中平卓馬が揃って撮られてしまった写真について残しているとしたら、俺は何を撮ればいいのだろう?

 ある意味、彼らの美意識から遠く離れて、しかし魅惑的な、親密な私小説的な写真を撮る人達がいる。口づけをセックスを微笑みを憎しみをけだるさを伝えてくれる彼らの作品。俺も、その一部が好きだ。口づけセックス微笑み憎しみけだるさ、わりと好き。

 知り合いとか知らない人に写真を撮られたことを、ふと、想起する。何だか居心地が悪かった記憶。でも、それは単に俺が相手を信頼していない、受け入れていないからだと思う。自分が親密な写真を撮る/撮られることを思うと、何だか実感がわかない。

 単に、俺がちゃんとしたカメラを持っていないから、だから写真を撮らない、それだけの問題かもしれない。

 でもさ、カメラ、結構高いんだよね。そもそも初心者向けのカメラについてもさっぱりわかんない。てかさ、自分でとりあえず買って勉強しなきゃな、ってたまに思う。学校行きたい。写真家の友達がいたらいいのになって思う。でも友達がいないなら自分がなればいいじゃんって逆転の発想、発想は逆転させなきゃ俺。自前のカードでどうにかしなきゃ。どんどん老いてく置いてく、俺。どうせ死んで終わりなんだから。死ぬまで駄目になるまで、時間を使わなくっちゃ。

 繁華街を歩く。その時、どういう構図で撮ろうかとか、どういう物が撮りたいのかとか考える。カメラがなくても、そういうことを考えながら歩くのは中々楽しい。

 もしあった時はカメラが勝手に撮影してくれるんだ。助かる。小説なんて書くのは身体に悪いからさ、俺、もっと健康的な何かが欲しいんだしたいんだ。

 四月、日中は汗ばむけど、街に灯がともるころには肌寒くなぅて、繁華街はどこでも賑わっている、かのような。みんな楽しいかのような。

Bright Lights, Big City」Takeshi Nakatsuka ft. Aoki Karen

 

 

 まるでこの曲を聞いている俺も幸福。かのような。

Ceiling Touch - into U

 ハウスミュージックの中のジャズをファンクをブルースを感じてしまったら、何だか辛くなる。ファミコンの聖歌みたく、ずっと聞いているのがつらいでも、聞いていたい。

 ハウスミュージックもクラブもライブハウスも、おれにしっくりくるわけではない。まるで親密な、私小説みたいな写真家みたい。俺のとは違うロマンチックがそこにはある。俺は一人雑踏でぼんやり。それが似合う。疲れなくてすむ。

 なんて思いながら、たまに誰かのことを親密だった誰かのことも思い出して、ああ、思い出のことばかり、過去に甘えていることに気づくと、ああ、駄目だって気づいてくる。

 夢から醒めるためにはきっと、何かを作らねばならない。何でもいい。何でもいいから夢から覚めなくっちゃ。さめなくっちゃさめなくっちゃ。さめてないと何もできない。