ジャンクと握手

 日々は虚しさと沸き上がる憎しみで出来ていて、心身ともに蝕まれているのか蝕んでいるのか判別はできず、こんなの好きではないのだ、と思いながらも惰性に甘える。小康状態とたまらなさ、を行き来するのは厭なことだ。

 好きな漫画家がリツイートしていたシオランの言葉(俺は見る用にツイッターをしている)。

「深刻な」人間になるのはたやすい。自分の欠点にまかせて沈潜してしまえばいいのだから。(『苦渋の三段論法』)

 

 耳が痛い言葉。別に、深刻になりたいわけでも不幸になりたいわけでもないのだが、力とか気力とか余裕とかが乏しく、でも、事実がどうであっても、元気なふりをしなくっちゃならない。元気なふりしてないと、ただ、腐るだけ。真実は事実は現実は生活はつでも冷酷。でも、怠け者の俺は、現実から身もふたもない残酷さがはがれてしまったら、何もしないだろう。現実にしょうもない事実に感謝。

 外に出る、ということは良いことだ。家にもいたくないし、外にいたら帰りたくなるのだけれど、電車に乗って、車内で本を読んだり、歩きながらぼんやりと音楽を聞くのはとても好きだ。それに、きっと健康に良い。健康にいいこと大好きなんだなんちゃって。

 大竹昭子『日和下駄とスニーカー―東京今昔凸凹散歩 』を読む。永井荷風の散策エッセイ『日和下駄』を手引きに、下駄の代わりにスニーカーとカメラで、東京都心の街を歩くといった内容で、読んでいて気持ちがよくなる。

 大竹が歩き、写真に撮った風景は、俺にも親しいものが多かったのだ。見知った、様々な駅名地名を目にするのは楽しい。さらに彼女の撮ったモノクロの写真が、あの時の記憶を蘇らせてくれるのだ。

 

 お茶の水駅を電車で通過する際に、いつも目に留まっていた風景があった。それを本の中では写真と共にこう紹介されている。

 

 ホームの下には神田川がゆったりと流れ、川面から向こうの岸の上までは険しい絶壁がそそり立っている。とくに新緑の季節は繁茂する木々に勇んで斜面をよじ登っていきそうな勢いがある。

 歌風はこの崖を「崖の最も絵画的なる実例とすべきものである」と評している。

 (でも、実際は江戸時代に川の流れを付け替える為に作った人工の谷だそうだ)

 俺がお茶の水駅を通る度に目にしていた風景。エッセイの中で荷風が好きだと書いて、それに触発されてこの本を書いた大竹も好きで、俺も好きな景色だった。その崖に繁茂する様子はもわもわんと雲のように力強く広がり、しかし広がり過ぎていてどこか人工的で、つい目で追ってしまうものだった。誰かも、あの景色を見て感銘を受けているというのは、何だかありがたい心持になる。

 荷風が『日和下駄』を書いた時、三十代半ばで、父の死、離婚、色街の女との再婚、そして離婚という様々な問題に向き合わねばならない時だった。同情してしまうような不幸、そして自身の身勝手。彼はそんな状況での散策をこう記す。

「その日その日を送るになりたけ世間へ顔を出さず金を使わず相手を要せず自分一人で勝手に呑気にくらす方法をと色々考案した結果の一ツが市中のぶらぶら歩きとなったのである」

 歩くことで何も解決することはない、しかし、歩いていないとやっていられないし、たまに、気が楽になる時もある。不幸に居直るより、不幸に飲まれてしまうより、ただ、目的も行先もなく、歩いて行けたら。

 歩いて、ふと、景色を感じることができたなら。

 金とか友愛とかに乏しい俺の慰み、徒歩、読書、音楽。

 渡辺浩弐『2999年のゲーム・キッズ 完全版』を読む。昔、ファミ通に連載していた、はずのSF短編集。週刊誌の連載だからか、数ページのショートショートが沢山収録された一冊(五〇〇ページ近くある)だ。

 未来の機械の生活、未来の人間の生活というのは、興味深い。俺は未来の犯罪やサスペンスというよりも、未来の人の、ロボットの生活というものが好きだ。新しい犯罪はたしかにわくわくするけれど、何よりも人の生活が誰かのロボットの意志が描かれているとしたら。ちょっと先の、或いはありもしない世界の生活。見てみたい。

 ただ、俺はSFに多少の苦手意識をもっている。著者が作り上げた設定にいちいち突っ込みをいれるべきではないことと、ある程度の共通認識を前提として楽しむものだ、というような思い込みが俺にはあるのだ。

 この技術があるのに、あの技術がないの? 等と感じることがたまにある。そして、技術が万能の魔法のように描かれてしまうなら(しかし高度な技術は魔法と言っても過言ではないし、物語の主人公が特別にそれを行使できても不思議ではないのだが)何だか興が醒めることもある。

 また、高度な世界の奇妙な人や狂気や精神的な問題を持った人の描写と言うのは困難であると思うのだ。精神疾患にある者にもそれぞれのルール、規範と秩序というものがあるはずで、未来に高度な技術の中で生きている彼らのそれ、に俺は興味があるけれど、そこを掘り下げるとSFとしての舞台、ガジェットを生かすのとはずれてしまうように思う。SF世界のイレギュラーな存在は、あくまで読者の理解の範疇にある狂人として登場するのだろうか? 特異な、ポエティックな、ぞっとするようなトリックスターはどこかの世界ではなく、身近な風景から見出す方が、まだ容易だと思うのだ。

 等と口にしてはみるものの、要するに俺はSFやらミステリを読むと一々なんで?と考え、内容が頭に入ってこないということなのだ、それを楽しむ素養やら才に乏しいのだ、向いてないのだ。不思議に疑問に感じることは何にだってある。それらが野暮な突込みばかりなら、別のを楽しむべきだろう。でも、好きなんだロボットの生活。神様信じてないのに、何かに帰依している人たちの生活も、好きなんだ。

 俺はこの著作、の一部。ファミ通に連載されていたそれを何度か読んだはずだった。でも、たしかな記憶はない。でも、その雰囲気には惹かれるものがあったのだ。

 ロボットが結婚する。子供を購入する。離婚をする。子供のデータを消す。新しい体になる。

 こういったストーリーは俺の好みだ。生活の中で生まれる、ロボットの苦しみ、悲しみ、喜び。それも技術的な処理でどうにかなってしまう。でも、人間だって感情の処理に依存を友愛を自涜を薬物を愛情を選んでしまう。どうにかなったり、バグが起こったり、どうしようもなかったり。

 そして大抵、身体にバグを残したまま生活は人生は続いて行ってしまうのだ。

 この本を読み終えて、楽しかったし、少し物足りないような気がしていた。元々がファミ通の数ページの連載をまとめたものだから、突っ込んだ内容を期待しすぎる方がおかしいのかもしれない。でも、俺はロボットの生活がロボットの喜びを苦悩を虚しさを、もっと知りたかったのだ(ロボットを主人公とした連作は本の前半で、後は様々な未来の人達のショートショートなのだ)。

 負の感情に身を任せるのは簡単で、使い古し汚れた寝具のように心地良い。自分を慰撫するものがそれしかないのなら、きっと仕方がないのだと思うし、貧乏人に「良い生活をしたら頑張って働いたら友達に相談したら」なんて言っても、意味がない。

 ただ、こんな生活は嫌だし、いやだ、と口に出せるくらいの元気は持っていたいなあと。

 

 【コスモドライバー∞UP】マイティボンジャック (Hey! speed Remix)

 

あからさまに酔っ払って フワフワ雲になって
あのコのこと考えると また少しいい気持ちになった

Hey,Jack
Hey,Jack どこまでもこの世界は 素晴らしくてしょうがないな
悲しみの爆弾を どこかへ持ってってくれないか?
Hey,Jack どこでなにをしてても 不安定でしょうがないな
あのコが笑ったなら もう2,3分でボクなんか消える

 

 少しの悲しさと虚しさとポジティブな気持ち。本と音楽と、行きたくもない場所に歩いて行くことを考えると、少し、まだ大丈夫なんだって。大丈夫だってとりあえず口にする方が、身体にいいんだつて。