何でそれ何て知らないよ

メンタルが沼の中。沈殿したまま浮上する気配がないのだけれど、何かしらどうでもいいことを書く/喋る方がいい。

 

メンタルがどうしようもない。スカスカな頭とブレブレの集中力でパゾリーニの『デカメロン』を見る。頭に入らないなりに、単純な物語の筋が助かる。

 ああ、いいな。こういうどうでもいいエロチックな物語。豊かな気持ちになる、ほんの少しだけ。

 好きな映画監督の映像、というのは何であれ良いものだ。俺はわりと神経質で甘々なので、何か一つでもよければオッケーだと思う。色々分からなくても好きではなくても、好きな人の(撮った)映像がある、としたら幸福な事なんだきっと。

 写真機が欲しい、と思った。正確には、何か作りたいって思ったんだ。何か作る、と考えると、小さな目標とかやるべきことが頭に浮かぶ。何でもいい、作りたい、と思いたい。或いは作る、という覚悟が。覚悟があるならとりあえずは大丈夫だ。大丈夫だ、大丈夫だと自分に語り掛ける。

 写真集とか、写真の雑誌とか、写真の批評の本をまとめて読んでいて、でもそれは単に暇つぶしでしかないんだけれどね。てか、図書館で一度に十冊程度本を借りるから、大抵どうでもいい、大して見たくもない本を借りるのだ。

 でも、一度に多くの人らの作品を見るというのは、とりあえずよいことだ。アマチュアの作品もセミプロ(という表現がいいのかは分からないが)もプロの作品も、とにかくたくさん見て、考える感じる。考えることが感じることがあったなら、その作品は自分にとっての何かを与えてくれたってことなんだから。

 普段有名な人の写真ばかりみていたからか、雑誌の投稿写真をじっくりと見るのは新鮮な気持ちになる。それと、セミプロだったり、写真史には名前が出ないような人の作品。やっぱプロとは違うねとか、あれ、この人の好きとか思ったり。勝手な感想。ただ、撮られてしまったものなのに。

 写真って、簡単に撮れてしまうものだ。それに最近はスマホのカメラが高性能だからか、SNSがあるからか、カメラ雑誌や写真史とは無縁な素人のあの子もこの子も結構オシャレな、或いはどっかに載っても不思議じゃないようなのを撮る。

 素人のそれと、プロのそれ。或いはちょっと勉強した人のそれとプロのそれを比べて、どちらが良い、と言うのは難しい問題だ。そりゃ、自分が好きな作品とか作家は別格であったり(見てわかったり)、他の分野だってそういう問題はあるけれど、写真というのは他に比べると、発表媒体によってはそこまで技術が必要とされないという側面があるからか、何だか判断に困ることがある。

 撮れてしまうんだ。たまたまなのか、「センスがいい」ってことで片づけていいものか。

 写真がうまくなる、ってどんなことだろう。どういうつもりで写真を撮っているか、ということは前提としても、自分が写真家だとしたら、何だか心細い気分になる。

 いや、そんなのは写真への情熱がない人間の物いいだ。撮りたいと思うから撮る、撮り続ける。それだけだきっと。

 色んな人の作品を見ると、こんなん自分でも撮れるんじゃね、なんておこがましい気持ちと共に、俺が撮らなくてもいいんだって気持ちになったりする。

 まあ、でも、何にせよ、下らなくたって素晴らしくったって、何かを生み出している人は好きだし、そういう時間が多い方が良い。

 

 大橋仁、第二写真集。『いま』を見る。

 

妊婦、病院の協力のもと1年8ヶ月に及び10人の出産の瞬間を、そして、とある幼稚園の、四季を通じて強い光を放つ園児たちの姿を撮影。大橋が「命」を真正面から撮りきる話題必至の問題作。

 とのことで、この人のインタビューがわりと前のめりな感じで興味を持って、写真集を見てみた。

 出産の写真は、生々しく、正直ずっと見ていられなかった。勿論これは悪い意味ではなく、俺がそれに慣れていないだけだ。少ししか見ていないのに、新生児にまとわりついたぬめる体液の色を想起できる。ああ、親も、写真かも、きっと生まれてきた子に何かを感じ取っているんだなって伝わるショットだ。

 そして、園児たちの写真。とても良い。元気な子供たちの写真、なんて言うと陳腐だが、それを魅力的に撮るというのは、やはり大橋の眼差しがあってこそで、彼はきっと、カメラを手に、こどもみたいにわくわくしていたんだと思うんだ。

 俺は二十代後半になってからか、小さな子供を素直にかわいいなーと思えるようになった。それまではわりと無関心だった気がする。かわいいなーって思えるようになったきっかけは分からない。でも、ある時、彼らの、ちびっこのエネルギーってすごいなーって了解したんだ。もしかしたら、それが自分に欠けていたからだろうか。

 社会に出るということは、庇護ではなく、能動的に他人との関係を作るということだ。相手と社会と会社とチューニングを合わせなきゃいけないんだ。でも、子供は体当たりをする。良いとか悪いとかじゃない。わかんない。わーっていったりおどおどしたり泣いちゃったり新しい物に夢中になったり。

 オンオフの切り替え、というのが上手だったり適応したりできてしまう人ではないんだ俺。だからといって、子供ではないしむしろおっさんだし俺。だけど、あー、全身で喜んだり悲しんだりしたいなしたほうがいいなって、してないなって、たまに思う。子供には戻れないけれど、わくわくしないなら、生きてる意味ないよ。一度で終わりなんだから、それまで長く夢を見れるように、幻を描けるように。

 この写真集は大橋の家族への子供へのあたたかな眼差しと好奇心に満ちていて、優しい作品だ。

 ああ、俺はこういうのできないなあって思う。それが嫌いとかではなくて、そういうのをはいした、感情移入を拒む(かのような)写真が一等好きなんだ。質の違いはありまくるけれども、感情移入の為の写真を撮るのはそんなに難しいことではないと思うし、見るものに安心を与えてくれる。

 俺はそういう写真に触れると、どこかで居心地の悪さを覚えていた。

 質、と、自分で勝手に思い込んでいる独善の物差しで、「私小説」のごとき写真に触れ、あわないと思いながらも、その中に好き嫌いを見出す。親密さが嫌いってわけじゃあないんだ俺。でも、なんで俺は居心地が悪いんだろう。何で、私情がない、かのような写真に惹かれてしまうんだろう。

 大切なのはきっと、考え続けること。参加すること。ずっと、何も感じなかった「子供」への興味がわいた、みたく、俺は親愛さの発露と和解しなければならないのかもしれない。誰かを撮る/撮られることでそれは回復に向かえるのだろうか? 

 とにかくできることは、こういうどうでもいい垂れ流しの思考。黙って寝ているよりかはまだましだ。もし、できたら、誰かを何かを見る。立ち止まって考える。貴方は何で、写真を撮ってるんですかって、写真家を、写真を見て考えている。