人並みに人のふりの処方箋

 色々駄目だ。体調も調子も。明らかに俺悪くねーよな、ってことがちょちょいあって、本当に嫌な気分になって、解決なんてしないそういうことに拘泥してしまうのは、馬鹿なことだし、つまり俺の余裕がないってことなんだけど、いっつもないんだ余裕ぎりぎりで生きていたい、訳なんてないのにぎりぎりなんだ。

 

 いつまで身体が持つのだろうかとか、前向きに、建設的にものごとを感じられるようになるのか、というのは四六時中考えていて、馬鹿馬鹿しい。

 認知のゆがみ、という単語や概念を想起するとむやみやたらとむかむかして気分が悪くなって、つまりそれは俺の中にあるらしいのだけれど、ゆがみでも幻想でも錯覚でもなんでもいいのだが、自分で獲得しているのならば、それが世界を認識しよとする姿勢でありひいては美意識に繋がるものだ、とは思っても真実は事実は現実は、生きようとすることに、恒常性に優しくない。生活するための「認知の歪み(に相当するような目隠し、虚偽)」は称揚されるが、他人を自らを蝕むような、治療対象になるような思考は、正すべきなんだ、なんてものはまっぴらだし傲慢だしうんざりする、けれど俺は健康になりたい。健康に。ほんわかふわふわした気分、とはいかなくても、人並みに人のふりができるような生活がしたい人並みに人のふりが。

 とはいっても、しているのはいつまでお金が持つだろうかとか、いつまで俺は誤魔化していけるのだろうかという下卑た算段。

 そんな時に読み散らす本。本を読む、というのは、まあ、いいことだ。何かをしたような気がする。家に山積みになっている、未読の本やら何やら。ベッドの上、本だけで十数冊あって、酷い有様。家にヤコブセンの椅子とヴェルナーパントンの家具を飾りたい、けれどそれは俺の人生じゃないんだ多分ごみ溜めの繭の中での寝食。

 いつもにもまして集中力がないのだけれど、せっかく買ったから再び見る映画、アニエス・ヴァルダの『5時から7時までのクレオ

 ルグランが音楽を担当していて、ゴダールやカリーナもちょい役で出演している、これだけでも幸福な映画。

 

 自らがガンではないかと不安を抱くシャンソン歌手・クレオは、診断結果が出る7時まで、街で時間潰しをすることにする。

 のだが、モノクロのパリの街が、そしてクレオが、とても美しくって、モノクロの映画にはとても点が甘くなる俺だけれど、それを差し引いても、レネの『去年マリエンバートで』のごとき美しさ。一々構図が美しいんだ。うっとりするんだ。

 それは自分が癌ではないか、と悩むクレオの様々な感情の発露が捉えられているからで、彼女の不安も喜びも覚悟も笑いも映画の中に盛り込まれているのだ。不可解で硬質で美しく見るものを拒絶する『マリエンバート』とは違い、『クレオ』は単純な筋書きで、しかしクレオの不安定な心境がうまく映し出されていることから、この映画を豊かな物にしている。

 パリでの二時間(映画は90分)の情景は、彼女の衣装チェンジと街と室内との変化、そしてクレオ自身のころころと変わる情感によって表されていて目まぐるしく変わり、宣告へと収斂する。

 ラストの、クレオの覚悟は、美しくも痛ましい。まるで、自分自身を納得させているかのような、そんな感想を抱いてしまった。幸福も不幸も、映画の中の人も、そうでない人も、凡庸で(本人にとっては)重大な生活は悲喜劇は続いて行ってしまうのだ。

 映画を終えて、狭い家の中に引き戻されてしまう俺だって、生活は続いて行ってしまう。

 いつにも増して体調が悪い、でも、真夜中になる少し前、その時間帯だけ、少し、体調が良くなることが多い。真夜中になるまで、朝になるまで。淡い夜の帳の時間、その間は何だか、俺も誰かの友愛の中にいる、かのような。ディスコミュージックやハウスミュージックやブルースやジャズやポップソング。そういった物に向いている時間。他人の声他人の肌、朝になるまではきっと幸福、だなんて、そんなことはないんだってさすがに知っているのだけれど。でも、まあ、音楽位なら、簡単に手に入ってしまう。幸福。幸福ということで。

 Big Fun - Blame It On the Boogie

 

 

  ジャクソンズのカヴァーで、プロデュースがPWLってマジ最高じゃないっすかね。しかも女の子向けの、三人組アイドルの男の子がゲイとか、オチもきいている。こういうクソダサポップスほんと好き。モータウンサウンドをクソダサポップスにするのほんと好き。リック・アストリーみたいに、歌唱力がある人をPWLプロデュース(ソウルミュージックをユーロアプローチ)よりも、やっぱ歌下手アイドル能天気ディスコポップスの部分を引き出して欲しいんだ。

 クソダサイファッションと下手な踊りも好き。子供が真似できそう、ってこういうポップスだと不可欠な要素だと思う。りゅうちぇるがカヴァーしたらヒットしそうじゃないですかね俺静止画のりゅうちぇるをみたことしかないけど。

恋=Do!

 田原俊彦のこの曲ほんと好き。歌詞が意味わかんない所も好き。恋はDO!って何だよ。このサビの上下ダンスありでも歌えるってさすがアイドルって感じで好き。

ギャル (GAL) - マグネット•ジョーに気をつけろ

 マグネットジョーって誰だよ。知らねーよそんな奴。でも、聞いたらその説得力を感じちゃうんだ。正に「私だけはと 誰でも思うけれど」「だめと言われる度に心が動く とっても危ない」んだよね。さすが(作詞)阿久悠やで。スリリングでどこか隙があるコーラスも好き。

NONA REEVES / 夢の恋人

 安定の良質ポップス。こんな曲を聞いていると、まるで俺の人生も素敵、みたいに錯覚しちゃうよどうしよう。

 俺、こんなにポップスが好きなのに、明るい曲が好きなのに、人生に反映されていない気がするんだおかしいな。

 高校の時に読んだ雑誌で、テイ・トウワが「家でテクノ作ってるみたいな人はネクラでしょ」とかいうようなことを言っていて、腑に落ちた。実際の所なんて知らない分からない。でもさ、DJが幸福な仕事だとしたら、何だか、居心地悪いよね。別に、幸福な音楽を作り出せる人が幸福だとして、それが悪いわけじゃないけれど、人の人生に楽曲の中に、幸福も不幸もどちらも大量にあるとしたら、『クレオ』みたに素敵だと思うんだ。

Private Eyes (feat Bebel Gilberto) Model: Faifah

 

 

 高校の頃に買ったテイ・トウワのCDに入っていて、ガキながらにすげーおしゃれーって思ったし、好きなアレンジなんだけれど、何だか寂しい気持ちになってしまうからあまり聞けなかった。ハウスミュージックをポップソングを、聞いて寂しくなるってことは、それが良質だってことの証だ多分。

 じっとしていられないような、でも好きな音楽。そういうのを聞きながら、行きたい場所なんてないけれど、一人、外を歩くと、どうにかなるような気がしてしまうことがあって、凡人の錯覚/Delusions of Mediocrity とか天才のひらめき/Stroke of Genius っていうような出来事があるとして、それはロマンティックなことだけれど、俺ができるのは日々の小さな積み重ねだけで、無為に過ごす日々、それしか『哀れみの処方箋』(この書名は好きなんだ)が思い浮かばないような人生。まるで、俺の認知に歪みがあるみたい、笑い事。喜劇、いや、悲喜劇。終焉トラジコメディ。

 でも、音楽を聞く気にすらなれない。夜になるまで。夜になるまでなにもしたくない。時間を無駄に何てできる「身分」じゃないのに。駄目になるまえにどうにかしなくっちゃ。俺が駄目になって、困るのは俺だけなんだから。

 そんな日々。効き目なんてあてにしていなのに頼ってしまう処方箋じみた、いや、何でもいいから代わりの何か代用品になる埋め合わせになる目隠しになる何か! 何でもいい何か! 何か!

 ショパンマズルカ第1番~第51番 / サンソン・フランソワ (ピアノ)

 

 クラシックってバッハ以外はよくわかんない、感性の乏しい俺だけれど、アファナシエフやグールドやカサルズは好きなんだ多分。そして、この人、サンソン・フランソワも。

 ショパンってあんまり聞けないのだ。演奏している人によっては、すごい拒否反応が出てしまう。なのに、彼のショパンの野性的な激しさは、ショパンの足りない部分にぴたりと収まっている、ような気がしてきて。うっとりする。乱雑な詩情。アファナシエフショパンはげんなりするような美しい怠惰、しかし統率されているそれ、があって、それも好きなんだけれど、フランソワのショパンはそれと対照的な野生が感じられて好きだ。

 酒におぼれて腕が衰えて四十代で死んでしまった、そうで、そういうエピソードも心温まりますねいやいや長生きして欲しかったですねそうですね。

好きなんだ、それに好きって言葉、嘘でも本当でも冗談でもいいから、口にした方がいいんだ。健康の為に幻想の為に認知の歪みの為に。

 ちいさなことで、救われる一瞬数分数時間。駄目になりませんように。何度も思う。何度も目隠し、いや、『目を見開いて』読んで。