正義って、それを行使する人にも、俺にも君にも不都合なことだよ ところで魔法は?

どうにかもがく。どうしようもなさとかどうでもよさで俺の中一杯。どうにかしたいけどどうにかできない。何もない、何もない日々。いや、あるけどさ、生きてる実感がいつにもまして希薄で。自分の身体がどうでもいいとかどうにかしたいんだって焦燥。そういうどうでもいい日々。どうにかなりそうにない日々。

 直前になってキャンセルをしようかと思いながら、起床して、銀座のエルメスで映画見る。

監督マルセル・カルネ 『悪魔が夜来る』

15世紀フランスの伝説に基づく物語。美しき五月のある日、城では婚約の宴が続いていた。そこに紛れ込んだ吟遊詩人のジルとドミニク。二人は悪魔が人間たちを絶望に陥れるため地上に遣わした使者であった。ジルたちは不思議な力を使って城主の娘アンヌとその婚約者ルノーを誘惑し、破滅に導かんとする。

 しかし悪魔と契約を交わしたにもかかわらず、わずかな良心を残すジルは本来の目的を忘れアンヌと恋に落ちてしまう。そして嵐の夜、ついに悪魔自身が姿を現す。本作はナチス占領下の厳しい時代に製作されたこともあり、劇中には反ファシズムのテーマが垣間見える。映画史に燦然と輝く監督と脚本家の名コンビ、カルネ=プレヴェールによって作り出された美しき幻想譚。

 

 とのことで、俺集中力が園児だから、こういう話の筋がシンプルな物が好き。しかも製作が1942年ということでモノクロでさ、いいよね。モノクロ映画。

 昔の貴族の、豪華な宴というのは、とても映画映えする。だってみんな馬鹿みたいな衣装を着てるんだ。実用性から遠く離れた衣装。とても好きだ。話も演出も驚かせるとか特別な何かがあるわけじゃないけど、ぼんやりと饗宴を眺めることができるんだ。

 でさ、俺の隣、遅れてやって来た男性がいて、でもその人遅れてきたくせに隣で鼻息立てながら寝てるんだよね。たまに起きたら時計ちらちら。見なくてもいいのでは……という思いがよぎると、なんと、隣の女性もうつらうつらしていて、思わず苦笑いがこぼれそうになる。

 そう、この映画。結構退屈なんだ、堅実なつくりなんだけど、山場もないし演出も個性を感じるというものではないし。話は多分みんな分かるようなものだし。テンポ良くすればいいのになー120分映画だけど、90分にしたらいいのにな。

 とか思いながらも、やはり外で映画を見るのはとても健康にいい。それに、スクリーンの上でありえない、立ち会うことができない世界が広がっているのは、それだけでも幸福な事なんだ。悪魔とか魔法とか無駄遣いとか宴とかロマンチック過ぎる恋物語とか、虚構の輝き。手に入らないそれらのおかげで、ふっと、俺も気が楽になるんだ歩き出そうって気になるんだ。

 ふと、エロール・ル・カインの『おどる12人のおひめさま』を昨日読み直していたことを思い出した。12人もお姫様がいる、というだけで意味が分からなくてとても良いのだが、ル・カインの作品の中でも、個人的にはこの作品がベストではないか、と思うような、題材と彼の描く画との相性の良さを感じる。優れた絵描きのイマジネーションを広げる、自由でロマンチックな題材。絵本の中には秘密の宴。うっとりしてしまう、作り物。ああ、俺って本当に魔法が大好き。現実世界との親和性が低い人間は魔法のことばかり考えてるんだ。魔法が使えないのにさ。

 憧れのプレインズウォーカー(多元宇宙/Multiverseにおいて、次元/Planeの外に広がる久遠の闇/Blind Eternitiesを通り抜け、別の次元へと渡り歩く力を持っている存在のこと。読んで字の如く、「次元を渡り歩く者」の意)

にはなれる見込みはない

 

 けど、対戦する相手もいないのに、MTGの灯争対戦のパックを6つ買う。ワイも魔法使いになりたいんじゃ。お値段2200円。紙きれに2200円の出費なんて安すぎだろ!、なんて思う人は正常だがオタクだ。2200円は俺の眼球一つ売った値段だからねー。でも眼球はもう一つあるからねー。

 確率は物凄く低いが、当たりのカードは、売却6、7万なんだよね。天野喜孝リリアナフォイル。まあ、宝くじに当たる確率くらい? でも宝くじは外れたらゴミクズだけど、MTGはカードが残るよ! みんなMTGを買って僕と握手!

 当然、そんな高額カードは当たらないわけで、でも、日本画ウギン、萌え画のナーセットとビビアンが当たって、ちょい当たり、かな? このセットはプレインズウォーカーが必ず当たるから、むいていて楽しい。プレインズウォーカー、すごい魔法使いはいくらあっても困らない。明日も買いたい。魔法使い、なりたいんだよね、俺。

 本屋で『ボタニカルアート 西洋の美花集』というのを買った。とても美しい本だ。だって、花が描かれているんだ。それだけでも最高ってことだろそうだろ?

 でさ、美しい本って、山ほどあるんだ。まあ、大体2、300円くらいで買えるんだ。買えちゃうよ俺の眼球並みプライスで。途方に暮れるよ。美しい本、山ほどあるありすぎる。ああ、全部欲しいでも、全部は買えない置けない、だから買わなくていい買えやしないんだ。

 なんて見る度手に取る度思うけれど、買って読むとさ、やっぱいいよね。手のひらの上、花園なんだ。

 見知った画、どこかで見た画。なのに、とても楽しい。だって花が描かれているから。その中で、澁澤龍彦の『フローラ逍遥』の表紙に描かれている見事な椿の絵柄があってすごく幸せな気分になって、また彼の本が読みたくなるんだ。

 そして百合のページで思わず目が留まる。俺のタトゥーの柄と同じなんだ。てか、俺、図書館で適当な百合の画を図鑑から見つけて、彫り師の人に渡したんだよね。まさかここで再会するとは。誰が描いたか分からない画。でも俺は君の百合がとても素敵だと思ったんだよ。

 

 身体中が花園になる夢を見られたら、なんて思いながらも俺の身体、何年もタトゥー入れてなくて、無駄金使う代わりに生活費に消えてる。生活費以外に余裕がない生活。そんなんでプラスティックの心もズタ袋みたいな身体も駄目になってく、けど、誰かの魔法のことを非実在の王国のことを考えると、気が楽になる。俺も偽物魔法使い。

 帰りの電車でユルスナールの『とどめの一撃』を再読。俺は戦争とか歴史とか血筋とかほんっと興味がない。なのにさ、彼女の小説は本当に優れているから素晴らしいからその題材がどうであれ読みたくなってしまうんだ。

 「抑制した語調と抽象的な文体を用い、辛辣さをまぶした」語り口で、俺は「第一次世界大戦ロシア革命の動乱期,バルト海沿岸地方の混乱」なんてものを理解しているわけでも理解したいわけでも理解できるわけでもないのに、この作品は優れていて、この作品に見出すんだ痛ましくて、高潔なんだ。

 ユルスナールは序文で「高貴さとは、利害打算の完全な不在を意味する」と語っている。また、この作品は「人間的ドキュメントとしての価値(もしそれがあるとすれば)のゆえでこそあれ、決して政治的ドキュメントとしての価値のせいではなく」と述べている。だからだろう。俺みたいな政治も歴史も戦争もどうでもいいよ、なんて人間だってその痛ましさに高貴さにげんなりして、惹かれてしまうんだ。禁欲的な文章。それは彼女の持つ厳しいモラルから生まれるんだと思う。

 厳しい、げんなりするモラル、というので映画監督のハネケやキェシロフスキを想起する。それは誠実であるということだ。そして各々の誠実さがそれぞれの異なる刃物になり手にしようとする者らを拒絶し、手にできた者たちを傷つけ困惑させる。

 しかしそれは誰かの正義ではない。正しさの為のナイフではない。誰かを叩きたくて自分が被害者のふりして振り回す正義、楽しい卑近な凡庸な闘争なんかじゃあない。美しいモラルなんだ。美しく出来上がってしまっている=作品、なんだ。作者も傷つけずにはいられないようなモラルなんだ誠実さなんだ。だから、俺も知りたいって思うんだ。正義なんて知らないよ、でも、君の誠実さを魔法が見たいと思うよ。

 正しさを証明したい人らの、自己実現と正義の混同混交は本当にうんざりする。でもさ、正しさから距離を置きながらも自分のモラルを誠実さを「正義に近づこうとする姿勢」は、尊いと思うよ。自己実現よりも信念を。特定の性別とか政権とか国とか人種とかをぶちのめそうとする人の(しかもかれらは被害者ぶっていて差別反対をしていて平等とか正当防衛とか大好きなんだ!)正義なんかじゃない。

 正義って、それを行使する人にも、俺にも君にも不都合なことだよ。俺はそう思っているよ。

俺の生活、どうでもいいどうしようもない。でも、続けてもいいような気分になるよ。

 だから、もう少しもう少し、騙し騙し、チープな夢を錯覚を。