君が見たものを何度でも

大事ではないのだけれど、(いや、その時その時ではとても大事なんだ俺の中で)色々とあって盛沢山。良くも悪くもとにかく疲れる。眠りが浅いのに、家の中にいると、ふと、寝入ってしまう。

 自分の残り時間、寿命、ではなく、何かしら意欲を抱けそうな時間が短いような、まだまだあるような変な気分だ。小さなことで、ぽっきり折れそうな、折れても仕方がないような、根なし草生活。そんなの嫌なのに、結局の所それしかできないんだ。

 そんな生活を向上させるとしたら、好きな物を見るとか触れるとか。それが難しいとか欲もないとか叶わないから見ないふりをする、ことだって仕方がない、けれども何かしらしていなくっちゃ、駄目になる。駄目ってどういうことか、理解したくないし理解できてはいないはずなんだけれど。

 恵比寿にある東京都写真美術館で「場所をめぐる四つの物語」を鑑賞。四人の写真家の作品が展示されているのだが、誰の作品が見たくて行った、というわけではなく、まあ、気が向いたから、といったような感じで訪れた。

 最初に展示されている、ユージン・スミスの「カントリードクター」の一連の作品がとてもよかった。おそらく、アメリカの田舎医者の診察や手術の光景を撮影しているらしいのだが、そこにあるのは緊迫した雰囲気で、まるで戦場での衛生兵の働きのよう、なんて感想を抱いたのだが、当たり前の話だ。手術に挑む医師も患者も、真剣そのものだから。ただ、それだけの話しだ。そして、スミスがそれを写し出したのだ。

 とはいえ、ゆったりとした時間、カントリードクター、何でも屋のオフショットも収められていて、戦場だって病院だって、悲しみと徒労ばかりじゃあない。働いている人々の様々な姿をこの一連の写真からは見出すことができて面白かった。

 奈良原一高「人間の土地 緑なき大地 軍艦島」も、とても見ごたえがあった。軍艦島で生活をしていた労働者、その家族、子供たちを収めた写真。奇妙な、あるいは一般社会からずれた人々の生活の記録、というのはそれだけでモチーフとして訴求力がある。

 その中で、人を、人の生活をどうとるか、というのが写真家のセンスと言うか、好みなのだろう。ロマンチックな眼差し、親愛なる眼差し、或いは、対象者を見たい映したいという(表現者としての痛々しくも切実なロマンテシズム)欲望。

 彼の写真は、そういった物がほどよくブレンドされているような気がした。センチメンタル過ぎず、しかし彼らの生活に寄り添っている、惹かれているような感じ。突き放すでも傍観者でもない。ちょうどよい、距離。

 ユージン・スミスもそうだが、奈良原も俺の超好み、な感じの写真を撮る人ではない。でも、惹かれたのは、彼らの構図やセンスが優れているという以上に、彼らが訴えたいものが俺にも見えた、感じたということなのだろう。

 誰かと同じ、かのような物を見る、追体験するというのは不思議な経験で、しかしとても好きなことだ。芸術の、表現の好きな所は、他人の生を、美意識を感じられることで、俺は無数の人生の一編に触れているよな感じがするんだ、好きなんだ。

 外に出て、スマホで写真を撮るようになっていた。どうでもいい風景。できあがりも「たまに、マシかも」程度の。でも、続けていくのが大事だ。街の中に構図を見つける作業は中々楽しい。

 最近は疲れまくっていて、写真や演劇や美術の本を読むばかりで、ちょっと頭を使う小説が読めてないし書けていない。でも、まあ、別のことをするのも大事な時間なのかもしれない、ということにして。

 山下裕二『驚くべき日本美術』を読む。その中での、彼の現代美術に対する視線にスゲー共感。

 

「社会問題を反映している作品が多いんだけど、そんな映像は僕に関係ないじゃない。しかも言葉で言えることなのにわざわざ造形美術にする意味があるとは思えない。(略)だったらジャーナリストになればいい。ところがみんな、美術という衣を着たがる。だから僕は基本的に社会派の現代美術が大嫌いなんです」

「文脈=コンテクスト。説明しなければわからないこと、とでも言うのかな。それが多ければ多いほど、美術としてはつまらないんだと思います」

「文脈倒れの作品は、絵をかけないやつが理屈に逃げているだけなんです」

 俺は大学生のころから、キャプションで辛うじて自立できるような、美術館の中でしか生き延びられないような作品がとても嫌いだった。でも、美術館で見られる現代アートの大半が、その文脈、アートワールドでしか生き延びられない作品だったのだ。

 ただ、山下裕二はめっちゃ作品を見ている美術史家で、自分の好きな作品が大好きで(なんて健全な事だろう!)単純なことを言っているだけなんだと思う。作品は見て感動出来てなんぼだろって。当然の主張だ。美術作品、なのだから、見て美しいか、すごいと感じるかという話なのだ。

 俺があまり好みではない、現代アートの村上やら山口晃やらを山下は評価していて、しかしそのポイントは俺も同じなのだ。俺は「好き」ではないが、絵、作品そのものに力がある。前後の文脈、立ち位置、なんてものを考慮しなくても、作品にインパクトがある。

 画って、見て美しいかそうでないか好きか嫌いかってのが「自分」にとって一番だろ? 誰かの評価ばかり気にしてるようじゃあ、アートワールドの一員には、投資家にはふさわしいかもしれないが、芸術家としての資質には欠けているだろう。

 好きな物は好きでいいんだ。

 そんできっと、好きすぎたら、ただ、好きって言うだけじゃあ物足りなくなるんだ。

 色々とトラブルと変化の日々。どうにか、暮らしていけますように。いかなくっちゃ、いかなくっちゃ。