美術引用のメモ

プロビデンスプロヴィデンス(英: Providence)

キリスト教における「すべては神の配慮によって起こっている」という概念。日本語では「摂理」(せつり)、
「神の意思」と訳され、用法等によっては「天帝」とも訳される。摂理 (神学)の項で詳述。

モチーフで読む美術史 宮下規久朗 持物(じもつ

マルコは福音書記者 マルコの福音書を書く ライオン 
マタイは天使 ルカは牛 ヨハネは鷲 
マルコを守護聖人にしたヴェネツィアはライオンの像 羽の生えたライオンはヴェネツィアの象徴に
ライオンは中国に伝わると唐獅子となる 

蛇はキリスト教が広まる前は良い意味 男性器や雨の象徴 ギリシャのアテナやローマの知恵の神ミネルヴァの持物
蛇は賢い動物 医術の神アスクレピオスや伝令神メルクリウスの持つカドゥケウスという杖にからみついている。

ギリシア神話 向日葵はアポロに恋い焦がれて死んでしまった水の精クリュティエが変身したもの

薔薇 愛と美の神ヴィーナスの聖花にして聖母マリアの花
棘はヴィーナスの場合は愛の試練を表し、聖母の場合は受難を表す。
白薔薇は聖母の純潔、赤薔薇は殉教の血を表す

西洋では虹は平和の象徴 大洪水の時に助けられたノアに対し、神が人類との契約のあかしとして虹をかけると言ったから
最後の審判の時のキリストの玉座にもなる。
フランドルの画家ロヒール・ファン・デル・ウェイデン の作品キリストの下に天秤を持つ天使ミカエル左右に聖母と洗礼者ヨハネ
キリストからみて右に百合左に剣のタトゥー 1446-1452 

グイド・レーニ 聖セバスティアヌス 1615-16 三島の好きな画

スペインの宮廷画家 ベラスケス ラニメニーナス 1656 贋作師の 鏡と少女

砂時計を持った骸骨 死を表す 大きな鎌を持って眠る老人 時の翁 時間の擬人像 

ヴァニタスは虚栄と訳されることもあるが、この世のものは全て空しく朽ちていくという教訓
中世以来のメメントモリ(死を思え という主題と同類
砂時計 書物 骸骨 宝飾類 コイン ひっくり返った杯 消えた蝋燭 花 楽器 シャボン
世界の珍しい物輸入していた オランダ絵画に日本の着物や陶磁器出てくる  
日本刀 高価な工芸品であり殺傷道具だからオランダ絵画でヴァニタスの仲間として絵画に出てくる

窓は絵画のメタファー さらに窓はイコン(聖像)のこと そもそもキリスト教美術の始まりはキリストの顔を描いたイコンだった
8世紀の聖像論争や16世紀の宗教改革で製造は偶像だと攻撃するイコノクラスム(聖像破壊運動)がおこる
カトリック教会は聖像は神そのものではなく、神を見る窓であるという理論を確立した
つまり、神の像を拝しても、対象はその像に対してではなく、像を通して見る神に対してであるという理屈

梯子、ヤコブのはしご 天国へのはしご

英語でありのままの裸はネイキッド 理想化された裸体や裸体芸術をヌード

西洋では神への愛(アガペー)や弱者への慈愛(カリタス)は称賛されたが男女の性愛(エロス アモール)は否定的

慈善行為の主題はとくにカトリック改革後の16世紀後半から17世紀にかけて流行
その背景には、自由意志論争と呼ばれる神学上の問題があった。人間の救済は、自由意志に基づく善行が作用するというカトリック
に対し、プロテスタントは救済は神の恩寵にのみによって成就しており、功徳や善行などは関係ないとする予定説を主張
そのためカトリック側は積極的に善行を推奨して美術でも残る→よきサマリア人 聖書のたとえ話
トゥールの聖マルティヌス 冬に裸でこごえる乞食にじぶんのマントを半分切り裂いて渡すと 
夢の中でキリストがマントをきてやってくる
聖人が施しをした貧者が実はキリストであったというのは最後の審判の時のキリストの言葉
「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」(マタイ二十五章)
に基づく

2巻

白鳥は死ぬ間際に美しい歌を歌うと言われている。白鳥の歌(スワン・ソング)とは辞世の歌、絶筆や遺作のような意味であり、
白鳥は詩人や作曲家の象徴になった

オウム キリスト教では聖母マリアに受胎を伝えた祝福の言葉の象徴となり、聖母の純潔や無原罪の象徴。さらに忍耐や雄弁
の擬人像の持物 非常に高価だったから富の象徴 19世紀フランスオウムと戯れる女性が主題、ドラクロワ クールベ マネらが描く

サクランボ 実が甘美だったから天国の果実 実が赤いから血を暗示し キリストの受難や死を表すように

日本では元来中国の影響によって梅花の愛玩が普及しており、『万葉集』では桜よりも梅を詠んだ歌の方がはるかに多い。
平安時代に国風文化の発展と共に桜を主題とすることが増え、花と言えば桜を指すようになった

天使たちが音楽によって神を賛美する「奏楽の天使」という主題があって中世からルネサンスにかけて流行する

カラヴァッジョが描いたのは、エジプトの逃避途上に休む聖家族のもとに来てヴァイオリンを弾く天使
ヨセフは天使に楽譜を掲げ、聖母マリアと幼児キリストは演奏を聞きながら眠っているようだ
カラヴァッジオ 逃避途上の休息 1596

西洋の代表的な美徳 信仰 希望 慈愛 という三つの対神徳と 剛毅 賢明 節制 正義という四つの枢要徳がある
剛毅は甲冑を身に着けた人物として表現された
カラヴァッジオの勝ち誇るアムールは「愛は全てに打ち勝つ」というテーマ 微笑む愛の神の足元には武力を示す甲冑
戦争は死と直結するためヴァニタスのモチーフのひとつ

国之楯 亡くなった兵士の顔に国旗がかぶせられており、その上に同じ部隊の兵士たちによる寄せ書きが見える
展覧に供するために陸軍省から依頼されて描かれたもの 国の為に命を落とした無名の兵士への追悼と鎮魂がこめられた作
小早川秋聲 国之楯 1944

大鎌サイズ 小鎌シッケル 農耕神ケレスないし夏の擬人像はシッケル
鎌は命を刈り取るということから死や時間の擬人像の持物 ギリシア神話のクロノスそれと同一視されたローマの農耕神の
サトゥルヌスの持物 サトゥルヌスは時の翁とも呼ばれる時間の擬人像

賽子 西洋ではキリストが磔刑にされたとき兵士がその衣をかけて賽子をふったことから、賽子はキリストの受難の象徴をひとつとなる

  

アグルーカの行方 北極の生活について

荻田 レゾリュート湾から北極軸まで約600キロの凍った海の上を一人で37日かけて踏破する
寒い所の高カロリー食事ペミカン 
三月氷点下22度まで上がる 暖かいと汗をかく 極地では汗は深いなだけでなく身体の冷えや凍傷の原因になる
テントの中での乾かし物が面倒になるしゴアテックス上着やズボンの内側が結露で真白になる 
顔を覆うフェースガード
三月に異常な高温 橇のバックルにつけていた寒暖計が九度を指す。普段よりも二十度近く気温が高くなる 氷が割れないか心配
乱氷帯にて
日中の気温が氷点下30度くらいまで下がると足先は完全に冷えてしまい、歩いていても身体が温まっても感覚はほとんど戻らなかった
足の凍傷をふせぐためテントの中では血行をよくする軟膏を塗りこんで末端の神経を拡張するための錠剤も飲む。
極地の旅では7.80キロの重さの橇を引きながら一日平均20キロの距離を歩くのが普通 訓練は重い荷物を背負って歩くボッカ
週末に四十キロくらいの荷物を担いで奥多摩南アルプスの山を登ったり 皇居周辺でビニール袋で防水した50リットルのザック
に水を満タンに入れて十五キロから二十キロほど歩いたりした。荒川河川敷でタイヤ引き 橇引きの練習  

お金儲け出来たら 暴力なくなってもいいのかよ 

 

さらに取材を進めると、ミナミでアビスグループと対立していた半グレ集団
「O7(アウトセブン)」の元幹部に話を聞くことができた。このグループも準暴力団の指定を受けたため
、12月になって解散届を提出している。

Q.なぜ、半グレは暴力団に属さずに活動する?
「ヤクザをやっぱりやりたくはないですよね。
今のご時世しんどいからちゃいます?暴対法厳しいし。逆に暴対法なかったらみんなヤクザやってると思うしね。
お金儲けできないからでしょ、すぐ懲役いくし。
そういうご時世でヤクザやりたくないって思う人間が多いんじゃないですか、今の不良でも」(半グレ集団「O7」元幹部)

では、暴力団との接点についてはどうなのだろうか?

「(暴力団との)付き合いはみんなあると思う。
盛り代(みかじめ料)とか払ってませんって言っているけど、大半払っていると思う。
切っても切れないっていうのが今の現状なので、暴力団も生き残っているわけだし、付き合いはあるのはあります」
(半グレ集団「O7」元幹部)

アビスとO7(アウトセブン)という2つの大きなグループが解散届を出したことでミナミの街は変わるか?と聞いてみると…

「“いたちごっこ”ちゃいます?古いのが消えていって新しいのが出てくる。
ヤクザやりたくなくて、でも不良したいってミナミ出てきて、それがたまたま半グレになって。
僕らがフィールドアウト(退場)したところで、
『あ、消えた!次は俺らの時代や』っていってまた新しい子が出てくると思うので、当分なくならないと思う、そういう人たちって」
(半グレ集団「O7」元幹部)

摘発を受けてもなお、場所や名前を変えて密かに活動を続ける「半グレ」。警察との“いたちごっこ”がしばらく続きそうだ。

 

サルトル 水入らず 333p 一指導者の幼年時代についてのあとがきの解説。

サルトルはこの作品の中で、無限の可能性を持って生まれた人間が、ある宿命を自ら仮構することで
(したがって、大部分の可能性を流産させることで)、いわゆる大人になる、その過程を描いている。主人公は、「自己にとっての自己」
(対自)ではなく「他人に見られるままの自己」(即自)を選ぶことで、支配階級の人間となる。ある意味では、これはファシズム
心理の分析だといえる。彼はそうした指導者の傲然たる姿勢の中に自己欺瞞を発見している。


アウトサイダーアート入門 椹木のい


251 伝統的な手仕事による造形を放棄して、単一の規格からなる形態をシステマチックに反復することで、絵画の表面性
とも彫刻の集塊性とも異なる、物体をめぐる第三の可能性―ミニマルアートの巨匠、ドナルド・ジャッドが呼ぶところの
「特殊な物体(スペシフィック・オブジェクト)」を探求するものであった。

 芸術家との対話 矢内原伊作 187P


「哲学とは愛知です。物事の根本的な真理を知ろうと努めることです。ところが今日では哲学は一つの狭い分野になっていて、
そこでは自分で哲学するよりも過去の哲学について議論することが重んぜられています。人は私にそういう狭い意味での哲学を
求めていますが、それは私にはまったく興味がありません。私にとって必要なのは、デカルトパスカルについて知ることではなく、
デカルトパスカルのように生き考えることなのです。哲学について学ぶことではなく、人生そのものを学ぶことなのです。この時、
哲学論文を書くことも芸術論を書くことも私にとっては全く同じことです。そしてそのいずれも、究極においては詩になるように
思われます。なぜなら深い心理は詩としてしかいいあらわせないからです。それはちょうど、あなたが粘土をこねて一つの
彫像をつくる、それと全く同じ仕事ではないでしょうか。哲学者も詩人も、粘土の代わりに言葉を用いて真理を刻むのです」

 

215p

「おお、君は美しい」と彼は嘆声を発する。「とらえるには美しすぎる、それは私の力を超えている」と。美しいのは私の顔ではない、
彼が見ているものである。モデルは誰でもよかった。すべてのものが彼には、「とらえるには美しすぎる」ものとして
見えていたのである。


千葉成夫 ミニマル・アート

119P

ミニマル・アートという運動は存在しなかった。存在したのは、まず、ミニマル・アートという言葉であり、それをめぐって
書かれたいくつかの批評文である。しかしそれとても、ミニマル・アートという名で呼ぶことのできる作品なり潮流をとらえようと
して後から追いかけて書かれたものであることもあり、運動を組織するためのものでもなかったし、適切な時点で潮流をすくいあげた
というものとも少しちがっていた。むしろ、はじめから、様式というよりはひとつの造形精神のありかたを指して使われていた、
といったほうがよい。

184P ソル・ルウィット モジュール床構造体 1966 彩色された木で作られた
ソル・ルウィットの場合は、物体なり平面から遠心的にひろがりが展開するのではなくて、ある空間にグリッドの構造体が置かれる
ことによってそこに求心的なひろがりが生まれる。内側に向かって凝縮しようとするふつうの彫刻をおもいうかべてみればわかる
ように、求心性は普通は空間を凝縮させる。つまりある量塊の物体に彫刻としての強度を与えうるものである。しかしここではそう
はなっていない。その理由の中空という構造にあることはいうまでもない(中略)
ルウィットの関心が空間を彫刻のように凝縮させることにはないところに、もとめられる。ルウィットのグリッドは、空間を
いったん求心方向によびこみ、ついでにまた遠心方向にひろげる、そういう作用をもたらす。この両方向の同時的な動きが
生んでいるひろがりは、平面的ということはもちろんできないが、さりとて彫刻的でもない。このグリッドは、たとえていうと
2.5次元くらいのところにある。

原田隆之 サイコパスの真実
114 115

目的の為には手段を選ばない傾向 マキャベリズム
ルネサンス期のイタリア人思想家 ニッコロ・マキャベリの名前に由来 
君主論』どんな非道な行為であっても国家の利益を増進させるならばそれは許容されると説いた

犯罪学ではレッテル貼りを戒めている アメリカの犯罪学者ベッカーは「ラベリング理論」を提唱した。彼は、
子供の非行を必要以上に厳しく罰し、周囲が「非行少年」「逸脱者」というラベルを貼ってしまうと
さらにその逸脱を助長してしまうことの弊害を強調している

189

治療効果のエビデンスとして、一番信頼がおける情報源は、メタアナリシスという統計的手法を用いて書かれた論文である。
その手法としては、ある治療法の効果についてこれまで書かれている論文を、データベースなどから徹底的に検索する。
次に、見つかった論文の質を吟味してふるいにかけたうえで、質の良い論文だけを残す。
そして、それらのデータを統計的に統合して、あたかも一つの大きな研究のようにまとめる。

196

焦点を当てるべきは、行動のコントロール力の向上、暴力や犯罪の合理化(言い訳)の修正、犯罪のスイッチを押すような
引き金を避けるなど再犯防止スキルの獲得である。
別の言い方をすれば、治療において「あなたが悪いのだから変わらなければならない」というメッセージではなく、
「これまでの行動を続けていれば、あなたの損になるから、別の行動を取ったほうがよい」
というメッセージを伝えることで、治療のモチベーションを高めるということである。

フェイクの時代に隠されていること 斎藤環 福山哲郎

30
精神医学でいう「ハームリダクション」 猛毒をさけるために弱い毒を使う
依存症で言うと、ヘロイン中毒の患者に中毒性の弱いメサドンという合成鎮痛薬を与える。
ヘロインほどじゃないけどそこそこ聞くので我慢しやすくなって、それを機に依存から脱することが出来る
弱い毒で強い毒を置き換える

103 福田赳夫 が言ったといわれている「正しいことを言うときは気をつけなさい。正しさは常に人を傷つけるから」
という言葉があります。これは、古き良き保守の発言だと思っています

サンテグジュペリ 人と思想 稲垣直樹

63

1993文芸フィガロのインタビュー
「飛行機に乗ることと文芸作品を書くこととでは、あなたにとって、どちらがより重要なのですか?」
「わたしにとって、飛ぶことと書くことはまったくひとつなのです。肝心なのは行動すること、そして自分のいる位置を
自分の中で明らかにすることです。飛行機乗りと作家はわたしの意識の中で同じ比重をもって混然一体になっています」

76

 自分が身をもって体験したこと、直接人から聞いたこと以外はサン=テグジュペリは書かない。
自己の体験とそれを元にした省察がテキストを構成する。これがサンテグジュペリ文学の本質的姿勢である。

船木りょう メルロポンティ入門

57 歴史ってその時代その時代の支配的な階級のひとたちが、自分の正当性を主張するために改竄していくような、
過去について記述したもののことでしょう
 
 と私にこたえた学生がいた。
 歴史は、統治者が代わるたびに書きなおされてきた。支配的な国の歴史が、そうでない国の歴史をその部分として
位置づけてきた。現代における重要度や、外交関係と内政問題の比重が、歴史の全体を変形したりもしている。

ゾルゲのツイ
(予言・雷峰の再来)中国の文化大革命期に雷峰という人物が登場する。
一応実在しているのだが、限りなく理想化された偶像に等しい。
おそらくこれからポリティカル・コレクトネスの文脈で雷峰のような存在が登場する。
若くして死んだ、理想的で規範的な、そして都合の良いロールモデルである。

51 人の為に祈ること 超健康体になる オキシトシン

ギリシャ神話に登場するオルフェウスは竪琴を演奏し、それによって病気を治療したといわれています。
古代ギリシャの哲学者のアリストテレスは、音楽のカタルシス効果を論じていますが、
これは現代の音楽療法にも生かされている理論です。

誰も教えてくれない聖書の読み方 訳山形浩生

神様に忠実であることは厳しい規則に従うことだった。 食べちゃいけない 生け贄に捧げなきゃいけない
エスは刃向かう 神様の戒律は機械的に儀式的に従っていれば尊守できるような魂のない契約じゃない と説いた
あれは倫理的な行動を義務づけるものなんだと

神様は寄付や従うことではなく よい行いやよい態度 ポイント 天国で永遠の命というごほうびもらえるよ

循環論法
全ての議論や論理は「AだからB」であるに言い換えることが出来る。例えば、以下の様な事例は循環論法となる。

「AだからBである」→「なぜAなのか」→「それはCだからである」→「なぜCなのか」→「それはBだからである」

すなわち、証明すべき結論をそのまま前提として用いてはいけないということである。
これでは命題自体の絶対的な説明が行われておらず、何も証明できていないのと同じである。

シリーズ哲学のエッセンス メルロ=ポンティ 哲学者は詩人でありうるか 熊野純彦

8 小林秀雄「誤解を恐れずに言うなら、それは、哲学者は詩人たり得るか、という問題であった」

 小林のレトリックを引いておくならば、日々のふるまいにあって私たちは、
「物は見ない、物の名前を呼ぶ」だけなのです

 すぐれた詩人や哲学者は、知とことばの帳を引き裂いて、世界との接触を回復し、その経験を、
ふたたび言葉によって語りだそうとします。

19
 答えのない問いの繰り返しを詩人も哲学者もする。詩人はたまに、それに言葉を与えて、哲学者は問いの前で立ち止まる(俺の感想

 世界と、世界をめぐる経験のすべてが、そこに結晶しているような一語を語り出すために、いくえにも錯綜したことばのすじみちを、
あらためて辿りなおさなければならない。そのとき哲学的思考が抱え込むことになる困難は、日常の風景を反転させて、
世界の相貌を一変させる一行の詩句を探しあぐねる詩人の困惑と、その質において、ほとんどひとしいものとなる。

25 メルロポンティの『知覚の現象学』の序文

「 バルザックの、プルーストの作品、ヴァレリーの、あるいはセザンヌの作品がそうであるように、現象学とは不断の辛苦である
―おなじ種類の注意と驚異、意識に対する、おなじ要求、世界あるいは歴史の意味を、それが生まれでる状態において
とらえようとする、そのおなじ意志によって。現象学はこの点で、現代の思考の努力と一致するのである。」

 世界に意味が生まれる、その状態をとらえようとすることで、哲学者は、詩人たちの努力と合流することになるだろう。
すでにできあがった意味に、ではなく、意味が分泌される現場に立ち会うことはすぐれて詩人の仕事である。
哲学的思考は、世界をみつめなおそうとするその不断の努力において、詩人の辛苦をも引き受けることになる。

54 

 私の身体、私がそれを生き、それを経験している身体をメルロ=ポンティは、「現象的な身体」と呼ぶ。
とりあえずは、私にとってあらわれるがままの身体ということである。そうした現象的身体には、ただのもの、
たんなる物体とは際立ったちがいがある。「もの」と身体との差異を見定め、物体と身体とのことなりを際立たせるさいに、
メルロ=ポンティがとりわけ注目する論点が、いわゆる「幻影肢」をめぐる問題

 戦場での負傷や、交通事故、存在しないはずの手足の末端に痛みやかゆみを感じることがあると言われている。

 身体は単なるものではなく、また純粋な意識でもない。

光琳アート 蓮池 小泉淳 2010 16面の襖絵 東大寺にある 金の泥と鮮やかな白と桃色の蓮がとても美しい

反知性主義ファシズム 佐藤優 斎藤環

27 ギルバート・ケイス・チェスタートン 英国作家 聖公会からカトリックに改宗する
「人を正気たらしめてきたのは、何あろう神秘主義である」

186 佐藤優 私はドストエフスキーの世界観を買ってないない キリスト教とはほとんど関係ないと思っている
    というのは、あれだけキリスト教について過剰に語るということは、信じていないからです
    私は、ドストエフスキーっていうのは、基本的に革命家だと思うんです。
 
 神話なき世界の芸術家 バーネット・ニューマンの探究 多木浩二

47 彼が言語による思考の役割に、科学とは異なる(つまり詩的な)機能を認めていた例としては、詩人としては
もちろん、美術批評家としてもボードレールを高く評価していたニューマンが、1968年1月にパリで開かれた
ボードレールのシンポジウムに招かれ、美術批評について語った『情熱的な批評』という講演をあげておくのがよかろう。
その時彼は「私が美術批評家に求めているのは科学的な論文または芸術作品をつくることではなく、彼がそれ<批評>
を書く度に、自分自身を創造することである」と述べている。「自分自身を創造すること」つまり詩的な言語の働きである。

89 あえて形式主義的にいうと、モンドリアンの自己言及性はヴォリュームに基盤をおく建築空間の経験と整合する
空間としての絵画の純粋化であったが、ニューマンのフィールド絵画はこの整合性を拒否していた。ここでいう
ヴォリュームとの整合性の意味は、モンドリアンの一時的な仲間であったデ・ステイルの芸術家たちの空間化された仕事
を思い浮かべれば理解できるであろう。モンドリアンがニューマンを苛立たせたのは、次元の差異には意識的であっても、
結局はこの異次元間になりたつ整合的関係を求めていた以上、抽象絵画といえども伝統的な建築空間に属する
表層的な空間であることを免れないからであった。

 ニューマンのあたらしさは、絵画であり、かつ表層空間ではないことにある。あとになってもう一度、われわれはこのパラドックス
に正面から取り組まねばならないだろう。簡単に予告しておくと、彼の研究の独自性と困難さは、従来の絵画のありかたでは人間の
自然な知覚と想定されてきた慣習とは異質な、あたらしい知覚的経験の次元を発明しおうとしたことにある。

 109 ニューマンの言葉
「空間の自由、人間的スケールの感情、場所の神聖さは、うごいているものである―サイズではない(私はサイズを克服したい)、
色でもない(私は色を創造したい)、領域でもない(私は空間を宣言したい)、絶対でもない(私はすべてのリスクを感じ、
知りたいのだ)。眼が見えず言葉もないフェティッシュや装飾は、<自己>の恐怖を見つめることのできない人々に
しか印象を与えない。テリーブルでコンスタント(常に一定していること)な自己こそ、
私にとっては絵画と彫刻の主題である」

124
 第一回の展覧会で書いた文章
「これらの絵画は<抽象ではないし、<純粋な>理念を描いたものでもない。それぞれの絵画がそれ自体として感情の
、固有な分離された実体」であった。彼はしばしば「感情」という言葉を使うが、それはスピノザに由来しているのかもしれない。
彼は(すでに引用したように)「絵画は感情と同様に、生きた声である」と述べているのだから、感情とは絵画がそれ自身として
獲得した「強度」をさしているのである。それはストライプに見えるZIPのあるなしにかかわらず、画面をより明確な
絵画的な強度を持つフィールドとして組織することが目的であった

 

宗教と生命 佐藤優 池上彰


30 新井紀子
『AIvs教科書が読めない子供たち』

 


シンギュラリティのもともとの意味は非凡、奇妙、特異性などですが、AI用語では正確には
technological singularity という用語が使われ、『技術特異点』と訳されます。
それは、『真の意味でのAI』が、自律的に、つまり人間の力をまったく借りずに、
自分自身よりも能力の高い『真の意味でのAI』を作り出すことができるようになった地点のことを言います。
1未満の数字はいくら掛け算しても1より大きくなることはありません。
それどころか、無限に繰り返すと限りなくゼロに近づいていきます。けれども、
1・1でも1・01でも、1・001でも、
1を少しでも超える数は、掛け算を続けていくと無限に大きくなっていきます。
『真の意味でのAI』が自分よりも少しでも能力の高い『真の意味でのAI』を作り出せるようになれば、
それをものすごいスピードで繰り返し続けることで、無限の能力を持った『真の意味でのAI』が生まれるのではないか」

 


池上 「シンギュラリティが来る」と言って政府からお金を集めたことで、
今、齋藤さんは小菅の拘置所にいます。シンギュラリティが来る、
だからそこにお金を注ぎ込むべきだという話に、私はなんとなく胡散臭いものを感じてしまいます。
そのような夢を語るとお金が集まる、
国からお金を引き出すためのキーワードとして「シンギュラリティ」が使われているのではないか、
という構造に見えてしまうのです。
その点、新井さんは「シンギュラリティは来ない」などと発言したらお金は集まらないのに
それでもきちんと言っています。

 

計算が速くなったり多くなったりしているけど、今までできなかった全てのことが計算できるというのは見当違い

『ロボットは東大に入れるか』というプロジェクトをしているが、優秀過ぎるAIが、
東大生が解けるのに解けない数学の問題がいくつもある。その理由は、分かっていない。

結局、コンピュータには意味がわからない、というのが決定的な弱点だといえるだろう。

言葉に関して、つまり言語に関してのシンボルグラウンディングは全く理論上も突破できる
見込みがまだ立っていない。

シンギュラリティが来るかもしれない、というのは現状では『土星に生命がいるかもしれない』
とあまり変わらない。できるできないの証明は難しい。一方で、土星土星人がいるかもしれない、
ということを前提に国家の政策について検討するのはいかがなものか。


「おおよそ合理的には論破されている言説がなぜまかり通っているのか、考えて欲しいのです。
おそらくここに、AIと宗教の接点があります」佐藤


佐藤「人間の限られた知性によって表象される神は人間の偶像で、
神ではないからです。その意味で、われわれは神を証明できないのです」

池上「仏教的にいうと、えにし、あるいは縁起ですね」

佐藤「ええ、哲学者のレヴィナスの言葉で言うと「外部」になります」


佐藤「悔い改めよ。神の国は近づいた」の代わりに、「悔い改めよ、シンギュラリティは近づいた」と言う。
それで今までの律法はすべて廃され、今までの仕事はすべて廃される。
そうして新しい時代がやってくるのだということで、基本的には洗礼者ヨハネやイエスと同じフレームで人を煽っています。

 と佐藤は語り、宗教の構造を分析すると、それによって新しいビジネスが生まれる、ということですね、
と池上が冷静に発言の意図をくみ、佐藤はそれに同意をする。

安藤泰至の話も面白かった。

 

 

 

 生命操作をめぐってキリスト教でよく使われる「神を演じる」(playing God)という言葉があります。
普通は「神を演じてはいけない」という意味合いで使われます。
世界初の体外受精児が生まれた時、それに反対する人たちは
「人間は神を演じてしまっている。恐ろしいことだ」といった言い方をしました。

 ところが、アメリカのプロテスタントの中には、この言葉を逆の意味で、

すなわち「人間は神を演じるべきだ」という意味で使う人もいます。
人間は遺伝子操作をしてもいいから、もっと優れた存在になり、神に近づくべきだと言っているのです。
(中略)また、神学者のテッド・ピーターズは、人間は神によって創られた被造物であるとともに、
神と一緒に創造している共同創造主なのだと言いました。(略)

 これはルター的なプロテスタントの、有限なものをどんどん高めていったら

無限に近づいていくという発想で、「人間は神の似姿(イマーゴ)に作られた
」という聖書の言葉をこういう方向に解釈する人もいるのです。

 

 

 

 

 また、前の対談の内容に戻るが、佐藤はプロテスタントについてこう言っている。

 

 

「神の領域に手をつけてはいけない」というのはカトリックの論理です。なぜなら、創造は神の秩序だからです。
だから堕胎も、遺伝子組み換えもいけないことになります。一方プロテスタントは創造の秩序を認めません。
従わなくてはならないのは神の言葉だけですから、何をやってもいいのです。原爆や遺伝子兵器についても、
聖書にこれらの兵器を作ってはいけないとは書いてありません。その意味で、プロテスタンティズムにおいては、
条件は一般の日本社会と同じです。

 そのためプロテスタンティズムは、ストレートに神さまを持ち出すことを嫌がります。
ぎりぎりまで人間の知恵で考え、最後の地点で階の元へ飛び越えるのだ、と言います。

 そして、佐藤はヒトラーがルターを尊敬していたのだ、という話題に触れ、
キリスト教の持つ性悪説というプログラム、自分が良いことをしようと思っても、
それは悪事を行っているかもしれないという意識が、極端なひどい考えを廃するのではないかと述べている。

大竹昭子 彼らが写真を手にした切実さを <日本写真の五十年>

66 それに撮られた写真は特別なテクニックを必要としない、シャッターを押せばだれでも撮れるスナップ写真
であり、その意味で「作品」としての価値は高いとは言えない。
 しかし考えてみればこれこそが中平が繰り返し唱えてきた写真のありようである。『決闘写真論』の中で
彼は、写真とは自己を表現する手段ではなく、世界を丸ごと受け入れる受動的な行為であるとし、写真家が自意識を
超えてアノニマスな存在になったとき、写真は写真たる力を発揮すると語った。つまり観客を求めずに撮影行為を
持続し続けることに、写真の唯一の意味を認めたのである。

 288 複雑な技術を必要とする撮影ではないものの、写真装置そのものになりきっていることが見る者を打ちのめす。
写真集を一冊出すくらいはこの撮り方でできるかもしれないが、次の本も、そのつぎもこれでいくのは非常に困難である。
それはなぜか。「写真装置」になるうちに、「私」が「私」であることの意味が失われて、不安が忍び寄るからである。
 「撮影行為によって自らの自意識を超えて行くのが写真である」と中平は説いたが、それを実現するのに必要な自意識
が、写真装置になりきることを邪魔するのだ。自意識と表現意識は同じ穴のむじなであるから、表現意識を持たないことを
意識する、というのは容易なことではない。この二律背反を乗りこえたところに、私は中平の凄みを感じるのである。
 構図のとり方も鋭くなっており、技術的にも躍進が感じられる。『プロヴォーク』の最終号のタイトルは
『まずたしからしさの世界をすてろ』だったが、「たしからしさ」を放棄した果てに、彼は新たな「たしかさ」を
つかみとった。いまの中平の写真は、一目見れば彼の写真だとわかる特質をそなえている。
表現意識を超えているゆえに、その写真は強いのである

沢渡朔 ナディア

「最初軽井沢で貴方は私しにこう言いました『ナディアは私のニンフェット、私しのヴィーナス私しのナルシス、
私しのダフネ私しの女……』今貴方のビヂネスとなった?」

「貴方のハートの中に入りたかったけれども貴方の悲しいフィーリングの写真に入っただけかも知れない。
貴方は人形およくとった。私しはその写真はとてもすばらしいと思う

 人形は気持ちがないでしょ貴方は自分の気持ちで人形をとる。多分私しはもただ貴方の人形だった。
『森の人形館』ベルメルの人形よりも少しダイナミックな人形でしょ!!」

「貴方はかびんからまだフレッシュな時に捨てたでしょ枯れてから捨てればよかったとおもわない?」


A アルトー『神の裁きと訣別するため』

121 彼は線や形ではなく、大変動のまっただなかにあるような不活性の自然の諸事情を描いていた。

ホンマタカシ たのしい写真 

スーザン・ソンタグ『写真論』

41「通りでだれかを見かけるとします。その際眼につくのは本質的には欠点なのです」とアーバスは書いている。
42 アーバスの写真の説得力はその引き裂くような被写体と、落ち着いた、ありのままを注視する態度との間の対比からきている。
47 アーバスは自己の内面を探求して彼女自身の苦痛を語る詩人ではなく、大胆に世界に乗り出して痛ましい映像を
「収集する」写真家であった。そしてただ感じたというより調査した苦痛については、およそはきっりとした説明などないものだ。