チェット・ベイカーと愚かで哀れな

頭の中がぐじゅぐじゅしていて、たまに涙が出たり、目が潤んだり。少し、愚かなことをしたり哀れなことをしたり、その代償を支払ったり。いつもの日々。

 こんな俺も、一瞬は、数時間は、数日は数ヶ月は或いはそれよりもっと、友達や恋人がいた時間があったと思うと、なんだかほんわかふわふわした気分になってくる。不思議だ。好きな人がいる時間。

 好きな人がいる時間。好きな時間。

 俺のitunesチェット・ベイカーの曲の並びがとてもいかしていて、一曲目のmy funny valentine もいいのだが、二曲目から四曲目の並びがやばくって、

Let's get lost

I fall in love to easily

but not for me

 って並びなんだよね。だからさ、この三曲の並びがやばすぎて、最初の方の三曲ばかり聞いちゃうよ。

「二人で消えちまおうぜ」「俺は簡単に恋に落ちる愚か者」「輝かしいことがあっても、それは俺にじゃない」ってチェットが口にするんだ。甘い声で甘いマスクで。最高だ。最高にロマンチックで、さ。それは俺がチェットベイカーではないからかもしれない。物語の、作り物の世界の住人が酔うにはどうしているのだろう? いや、俺は俺の心配をしなくっちゃな。

 少し、気を許した人に遊び人だと思われるようなことがたまにあって、遊び人、遊んでる、その定義なんて人それぞれし、俺はすぐに「おれよりすごい(良くも悪くも)人がいるから、まあ自分は「ふつう」じゃないのかな」、なんて考えてしまうのだけれど、ふと、じぶんが色々な初めての体験なのに、「慣れてる」と相手に言われたり思われたりしたことを思い出す。

 うわべだけの適応なら得意なんだ多分。うわべだけの適応しかできないから、毎日涙が出るんだ。チェットベイカーの曲を聞いて、本当に心が安らぐんだ。

 芸術が何よりの救い。だなんて、本当だとしてもぞっとする話ではないだろうか? 俺、自分がそんな人間だったらぞっとするな。つまりさ、人間関係を作れてない、或いは世界に帰属できていないってことだもん。ぞっとする。でも、ひとりぼっちでも、本とか音楽とかは優しい。千円で買った中古のチェット、いつまでもいつまででも、甘い声で歌ってくれる。ひどいはなし。

 スーザン・ソンタグの『写真論』を再読して、全部が全部ではないけれど、彼女の描くダイアン・アーバス像は彼女のことをうまくとらえていると思うし、好きだ。誰かについて批評家として評論家として、或いは雄弁に語る時の、あの語り口がどうもむず痒いものがあって、つまり他人を他人が語ることに関する困難さについてどう思うのか? という問いと共に、そういう傲岸さをもってしか小世界に君臨できないのではないか、言い切ることによって、社会参加できてしまえるのではないか、というもやもやが生まれるんだ。

 困難さ、傲慢さから逃げようとする、我がままで臆病な俺。でも、誰かに会うためにはそういうのを気にしない覚悟が必要なのかな。

 

好きな、引用部分

 

スーザン・ソンタグ『写真論』

41「通りでだれかを見かけるとします。その際眼につくのは本質的には欠点なのです」とアーバスは書いている。
42 アーバスの写真の説得力はその引き裂くような被写体と、落ち着いた、ありのままを注視する態度との間の対比からきている。
47 アーバスは自己の内面を探求して彼女自身の苦痛を語る詩人ではなく、大胆に世界に乗り出して痛ましい映像を「収集する」写真家であった。そしてただ感じたというより調査した苦痛については、およそはきっりとした説明などないものだ。

 

 

 好きな人の、好きな言葉。恋人や友達がいなくても、短い時間しかそれらを得られなくっても、好きなことを考えていないと、毎日泣くだけの日々。チェットベイカーと、愚かな哀れな行為。そういう人生も悪くはないかもしれないけれど、俺は友達とか恋人とか、そういうの大事だと思うんだ。だから今日も愚かで哀れ。