すききらいで生きていたい

人に会いたいなって思って、コンタクトをとったり、会ったり、だめになったり、裏切られたり。ネット、アプリでやりとりをすると、たまに(よく?)こんなやべーやついるのか! って引くことがあるんだよね。詳細は書かないが、マジかよ……案件多くないっすか?

 小さなことを一々気にしてたら生活できないよね。そう、俺、生活できてないよ! 毎日綱渡り芸人。止めたいな。ゴールに、向こう側につきたいな、足を踏み外したいな。

でも、それを選んだのは俺なんだ。中年になってまで、観客のいない芸人稼業を続けるなんてぞっとする。 でも、それが俺なんだ。俺に残されたもの、脆い体の奥の、熾火の熱情

 今日会った人とは、さっとあって、さっと楽しんで、さっと別れた。もう、会うことはないかもしれない。けど、その人との楽しい時間が、俺を正常にしてくれる気がしたんだ。正常というか、フラットに近づけてくれるというか。楽しい思い出、思い出すことできるだってこと。

 誰かとの、たまゆらの触れ合い、ふざけあい。そんなことで、まだまだなにかしらできそうな気がするよ

 たまっていた映画の消化。寺山修司の、初恋・地獄変。はるか昔に見たような見てないような……

 とはいえ、思っていたよりずっと楽しめた。すれっからしの30過ぎとしては、ちょい小っ恥ずかしい場面や演出がないこともないのだが、日本映画特有(は?)の湿っぽくて明るいエロスや不幸が青春映画って感じで楽しかった。

 鈴木清順の、ツィゴイネルワイゼン 多分、10年ぶり位に見る。 当時の感想。色々すきだが、後半飽きませんかね? というのと、全く同じ感想を抱く。冗長さもまた、清順映画の良さを構成しているような気がするのだけれど、俺みたいな集中力がない人間だと、ちょっと飽きちゃうんだよなー。もう少しコンパクトにする(バッサリかっとしちゃう)と俺好みになるのにな、俺好みにしなくてもいいですね、そうですね。

 吉田喜重『告白的女優論』を見る。見る前から退屈そうだなあ、どうせ芝居がかった台詞を聞かされるんだろうなあ、と思いながら見る。その予感は的中する(じゃあ見るなよ)

 

 三人の美人女優のオンとオフ、そして不可思議なミステリーやアクシデント。そのどれもが、悪い意味で、手垢のついた「文学的表現」とか「抒情的」とか「高級風味通俗的」(通俗的であっても恐ろしい小津やダグラス・サークとは対極にある!!!!)とか、そういう言葉がよく似合う、そんな映画。

 なのに、俺は彼の映画をそこそこ文句を言いながらも見ていて、そう、彼は「映画」或いは、いや、多分「映像」や「静止画」を撮る才能があるってことだと思うのだ。だから、「映画」を見ると、登場人物の言動にいらいらしてしまうのだが、でも、映像がいいのだ。彼には才能があるのだ。見てしまうのだ。

 同じような印象を受けるのがヴィム・ベンダースで、見ていると必ず、ひょっこり顔を出す、彼のエゴイスティックってご都合主義なナルシスズムに辟易しながらも、俺は彼の映画をそこそこ見ている。才能があるから。

 アプリとかsnsとかを利用していて、分かり切っていたことだけれど、俺ってマジで面倒な部類の人間と言うかとっつきにくいというか(というか、そういう人はそういうのを活用しないのだろうが)、文句をいいつつも「才能があるから」とか言って映画を見る人間に友達が出来るだろうか???(一応、そういうのはオブラートに包みまくってるんだけど!) うわべなら、まあ、平気かもだが、それはとても困難なことだ。

 でも、誰かの前で、俺も素直でいたいんだ。素直に、思ったことを交換したいんだ。

 二十代の頃、俺は多分孤独にひたりきっていた。人よりも本が大好きだった。だって、本って素晴らしすぎるから!!!! 三十過ぎて、誰か、に会うのって、話すのって、中々いいことだなって、やっと気づいてきたのかもしれない。

 俺の好きじゃない物や、全く興味がないことに夢中になるあの人この人。彼らに意志があるなら、大切にしていることがあるなら、やっぱりそれを知りたいと思う。

 人と会ったり、コンタクトをとったり。子供メンタルな俺はすぐに一喜一憂してしまうけれど、明日か明後日かしあさってかその先に、知らない誰かに会えたらいいな。誰かに会って、楽しいなって、好きだよっていいたいな。