インナーチャイルドよりも、オブセッションに愛を。

今すぐ、自由になりたい、仕事場なんかに行って、病院なんかに行って、自分から進んできちがいに何てなりたくない、とはいえ、鳥かごに逃げた鳥が戻る、或いは脱走した犬が首輪を、餌を求めて帰宅するかのように、いや、もっと、卑近な、つまり、金の問題だ。お金の為に小銭の為にきちがい俺ら。

 雪と松、という好きな漫画の中で自分に惚れている人物に対して「お前の好き(やりたいこと)を我慢するんじゃねえ」といったような趣旨の台詞を言うシーンがあって、印象に残っている。とてもいい台詞と言うか、言葉じゃないだろうか? 日々、我慢していると、好きを、口にしていないと、それが分からなくなる。でも、そしたら生きている意義なんて意味なんて見いだせなくなる。

 三十数年生きて、そろそろ摩耗しきってしまったのだと、たまにそう思う。微かな希望やら薬やら性愛やらを繋いで綱渡り、だなんて真っ平御免だ御免だ御免だなのに、俺の貧しい処世術はそれ以外のものを持ち合わせていないのだ。

 家で一人でいると、寝てしまう。買った本借りた本が山積みになっているのに、注文して届いていないものもあるのに。

 毎日、買い物をして、毎日、誰かに、他人に会いたい。等とぼんやりと思っても、俺の財力や身体的魅力でそれは難しい、けれどもそれが叶ったとして、本当にそれがしたいのか、といったらまた別問題で、ああ、そう、単に俺は見た映画や読んだ本のことを言いたいだけ。それだけ。それだけで、真白な錠剤よりもずっと人間的な営み。

 

森達也の『fake』を見る。耳が聞こえない、とかそういう「嘘」がばれて、ゴーストライター騒動で有名になったさむらなんとかさんについてのドキュメンタリー。数年前のことなのに、ああ、あったなあ、こんなこと。みたいな気分で鑑賞。

 これが、思っていたよりずっと面白かった。以前読んだ対談の中で、森達也がドキュメンタリーはただ映すだけではなく、働きかけをする。試験官の中で化学反応が起こるように、ゆさぶりをかける。作家は演出をする。アクションを起こす。仲良しこよしというよりは緊張感がある方が面白い、というようなことを語っていたと思うが、さむらさんの「被害者ぶる」態度(俺は広義での加害者、が被害者ぶるのが本当に大嫌いで殺意が湧くんだ!!!!!!!!!!)とか、言い訳じみた態度とかを映しながらも、さむらさんのまぬけっぷりや愚かさや騙されてしまった傷ついた生活、

 つまり、彼の普段の生活、性格を見せることで、ドキュメンタリーとして興味深いというか、泥船航海記を(さむらさんを傷つけ追い詰めながらも味方然として)穏やかに映す、というある意味非情でもある映画を成立させた森達也は中々悪い人だと思って、少し好感を抱いた。それに、面白かった。(やばいレベルで読みにくい文章。直さないが)

 

 岩井俊二監督『市川崑物語』を見る。市川崑関係の映画だと思って見たら、岩井俊二による市川崑ドキュメンタリーだと知って、また、岩井俊二市川崑の熱烈なファンだと知って少し驚く。

 市川崑は文芸作品実験作品から娯楽作品まで幅広く撮っている、撮ることができる多彩な人だと思うのだが、俺は主に文芸系のしか見ていなかった。それでも、このドキュメンタリー映画は面白かったし、岩井俊二による市川崑への愛情が伝わる良い映画だった。

 岩井俊二の映画は何本か見て、手放しで好きだとは言えない、何だかセンチメンタルすぎたり(でも、それが彼の映画の魅力でもあると思うのだが)、飛びぬけたセンス、とか恐ろしさ、とかを感じない、でも、嫌いではない、という自分の中での位置づけに困る監督ではあるのだが、この映画は丁寧に市川崑の生涯、映画と伴侶について語っていて、ストレートで、ややベタな愛情が良かった。かけひきなんてしない、告白。素敵だ。

 泥のような思考で、逃避のことばかり考える頭で、ジュネの『泥棒日記』をどうにかして読み終える。こんな頭でも、読み通すことができるジュネの小説はやはり偉大で、大好きだ。大好きなんだ、本当に。以下、また引用。

 

 


聖性がわたしの目標ではあるが、わたしにはそれがいかなるものであるかを
言い表すことができない。私の出発点は、
この、倫理的完全に最も近い状態を指す。聖性と言う言葉それ自身なのである。
それについては、私は、ただそれが得られなければ
私の生涯が虚しいだろうということ以外、何も知らないのである。
聖性を―美と同様―定義することができない状態のまま、
私は各瞬間ごとにそれを創造したいと思う、つまり、
わたしのあらゆる行為が私の知らないこの聖性なるもの
に向かって私を導くようにしたい、と。

 

聖性への憧れと、到着しないという不条理。大好きなユルスナールもエッセイで似たようなことを語っていたのが、二人の境遇の大きな違いを思うと興味深い。また、それなしでは生きるのが、酷く辛いのだ。

 また、サルトルが語るように「悪について、泥棒について語る」ではなく「悪が、泥棒が語る」というのは肝要な問題で、しかし、もう、今となっては作品の出来が良ければなんでもいいように思えてくる、のだけれど、やはり、その精神性を獲得するためには、相応の境遇や才能や努力や覚悟が、つまり「悪」が、生き延びる為の悪が、詩が、詩への希求が必要なのだろう。

 しばらく小説が書けないで、仕事で気持ちが悪くなる以外は、現実逃避のスマホか寝ているだけで、本当に屑なサイクルを送っていたのだが、でも、新しい小説の骨子というか、肉片を拾い集めていて、どうせいつもの俺好みの、つまり、悪とか聖なるものというのは成し得ないのだ、という、酷い目に合う、一生懸命自滅する(ように見えてしまう)少年の青年の中年の話になってきてしまって、一生こういうのしか書けないのだから、腹をくくるしかないというか、それしか興味がないのだ多分。

 愛とか裏切りとか肉欲とかわくわくするよ。もっと、高尚な事柄(おもしろい、興味深い単語だな!!!)も、まあ、好きだけれども。

 とにかく、生き延びる為に、愚かな道程。見返すと、恥ずかしくなるようなそれを書き散らし、でも、あれもこれも忘れるのだからと嘯く。

 忘れたいのに、忘れられない様々なオブセッションが、俺の一番の恋人や友人のような気がして、ぞっとする。でも、長い付き合いなんだ。インナーチャイルドよりも、オブセッションに愛を。