悪意断捨離無効

疲労困憊、やらなきゃいけないことは山程あるはずなのに、ついついねてしまうし、おかしばかりたべまくってしまうし。ストレスの発散方法とか、アンガーマネージメント(なんだ、それ?)とか、よく分からないんだ、嘘、分かるけど、できるかどうかは別問題。でもさ、結局は積まれたゴミをどうにかしないと、生きていくのはもっと辛くなるってことだ。

 仕事の休憩中に、大江健三郎の『芽むしり仔撃ち』を再読。読んだのは十年ぶりくらい? でも、やっぱ初期の彼の作品はワルガキクソガキが多くて好きなんだ。 文章だって、割と好み、でも、大好きとまではいかないのは、彼の文章に自分の求めるポエジー(詩的な物)を感じないからだろうか。でも、面白いんだけどね。好きなんだけどね。

 なんか、ほんとに結局高校大学で好きな作家の多くに触れてしまった気がして、げんなり。死んだ人、死にそうな人ばかりすきだなんてぞっとする。今生きている人の小説が下手だとは思わないけれど、俺の好みとか価値観とはかなりずれているのだろう。

 日本橋高島屋の『資生堂のスタイル展』に行く。資生堂にそこまで思い入れがあるわけではない。そもそも俺は男だから化粧品を買わないのだ。(やっすい化粧水とかは買うけど)でも、重い腰を上げていくと、楽しかった。

 俺、古い瓶って大好きなんだ。だから昔のパッケージを見るだけでもとても楽しかった。昔のデザインの今にはない品の良さってあると思うんだ。あと山口小夜子のポスターもあって満足。セルジュ・ルタンスのプロデユースした一連のポスターや山名文夫の画もあって、資生堂ファンというか、レトロな品を求める人にはとても良い空間だったと思う。

 というか、これを会社として成り立たせている、というのが多分物凄いことなんだと思う。資生堂=オシャレ というブランド力を作り上げる、維持するというのはすごいなあと、自分とは遠く離れた世界のことだが思う。

 会場の催事場では、東北展も同時に行われていた。休日の高島屋は賑わっていて、幸せそうな人がいっぱいで、いたたまれなくなる。自分がこの建物の中で一番不幸な男だと錯覚しそうなくらいに。

 不幸でも、そうでなくても、さっさと逃げ出さなければ、気持ちを立て直さねばならない。銀座線で渋谷に出て、ふらふら歩く。何も買わなくても、雑踏を歩くと気持ちが少し楽になる。人肌も独りも他人だらけの街も、そこそこ俺に優しいんだ、きっと。

 期限が近いから、嫌々借りてしまったハネケの『ピアニスト』をまた見る。嫌な映画。嫌と言うか、ハネケの中で一番好きな映画だけど、やっぱ後半に行くにつれて見るのが辛くなる。周りとコミュニケーションがとれないプライドは高く手厳しい皮肉屋って……面倒ですよね……(じつと手を見る)

 でも、それでも、彼女は、主人公は生きようと(或いは破滅しようと)もがいている。その姿を笑うことなんてできない。彼女を、その生きざまを見るのはいたたまれないけれど、でも、俺もちゃんとしなきゃなってそう思うんだ。告白も決断も、本気で生きてない人間じゃないと、いざという時にたじろいじゃうもんね。

 借りた本で、戸部民夫『関東の美しい神社』を読む。写真+エッセイや注釈みたいな、最近のこういった本はとてもセンスがいいのが多いと思う。食べ物系の本とかもそうだ。下手したら、実物よりも「盛って」或いは「幻想的」に対象を捉えることができている。

 ともかく、この本で紹介されている神社でなじみが深いのは何度か行った明治神宮くらいなのだが、ここもこういう風に(他人には)映しているのか、写っているのかと考えると興味深い。俺が見ていなかった、或いは既知のそれに気づく。

 最近カメラで写真を撮っている。携帯のだけど。でも、俺には高級なカメラじゃなくて、手軽に撮りたい時に撮れるスマホで十分なのかもしれない(本当は、中平卓馬森山大道と同じのが欲しいな!!!)。

 写真を撮ると、無意識に街中で構図を探している自分に気が付く。これは中々良いことだと思うのだ。スマホのカメラだから、縦長のばかり切り取ることになるけど……でも、写真撮るのって、面白いな。いつかは、好きな人を物を沢山撮り続けたいな。

 この本の中で、特に好みだったのが、乃木神社だった。写真だけで判断するのはよくないのだが、マジ好み。ミニマルというか、決められた線で構成されているらしき設計はすごくモダンというか、機能美を感じる。

 また、狛犬も直線が強調されていてかっこいい! 普段想像するのとは全然違うんだ。それに檜の白い肌に金細工で模様がされている拝殿はめっちゃ好みだ。ミニマルな美と、きらびやかな装飾がお互いを阻害せずに調和している。写真だけでもうっとりする。

 檜の白い肌を思うと、幸田文の『木』というエッセイを想起した。すごくいい本なんだ。読み返さなきゃいけない本がまた増えてしまった。

 死ぬまで、駄目になるまで、おれはいったい幾つの本を読み返せるだろう? 理解に近づけるだろうか?

 幸田文の文章を読むと、身を律するような思いを感じることがある。大江の本を読むと、(俺が大好きな作家と比べると)悪意が憎しみが足りないのでは? と感じることがある。

 品性の良さと悪意憎しみ下劣さ、どちらも持っていたな。それが自分にとってしぜんだと思えるから、酷く、居心地が良いから。駄目かもしれないけれど、大丈夫だ大丈夫だよと誰かに俺に、俺が言うのはきっと、生きてきた誰かの、「もの」の、姿を感じ取れるからかもしれない。時にそれは愚かで痛ましくても、それ以外分からないことだらけ。血まみれの処世術が輝いて見えるのは十代の瞳にだけ、だとしても、俺は小説を書くときは自在に、それであらねばならないのだ、と。いや、単に俺が成長できていないのだとも。