素面で死体とサイケ

気分がふらふらふわふわ。寝てばかりもいられなくって、元気を出すためにアイドルポップを聞きたくって、youtubeで聞くだけじゃなくてipodでいつでも聞きたいから、近所のツタヤへ。

 代金はアルバム一枚300円くらい。でも旧作なら十枚で1000円! ということで千円で10枚借りることにして、でも、都心のツタヤではないから、借りるものに困って適当に借りてレジへ。

 そんなこんなで何の気なしに借りたアジカンのホームタウンっていう新しいアルバムがとても良かった。俺はポップソングが好きだから、アジカンのアルバムは大体聞いているけれど、そこまでのファンではないし、一番好きなのは サーフ ブンガク カマクラ だし。アルバムの数曲は好きかな、みたいな感じだった。

 でも、このアルバムは大人のアジカンって感じでよかった。いつものポップ、キャッチーさを残しながらも、低音が聞いていてなんか俺が好きだった2000年位の洋楽ロックテイストというか、ちょいグランジというか。

 長く活動しているバンド、製作者って、色んな試行錯誤や変遷があって、でも、受け手は、消費者はそんなことを知ったこっちゃないんだ(熱烈なファンをのぞいて)。

 でも、生き残って、進化している、変化している人らはやっぱすごいなぅて思えた。

 アジカンの最新アルバム(だと思う)とは逆に、大好きだった(今も嫌いではないが)髭の初期のミニアルバム「BATTLE OF MY GENERATION」を今更聞く。

 すごくよかった。あの頃の髭、というか、オルタナ・サイケ・ポストロックとかすごく好きなんだ。けだるくってどうしようもなくって、でも、どこかポップで勿論ロック。20代のころの俺の青春のどうしようもないロック! なんだこの言葉。恥ずかしいね! 気持ちいいね!

 大好きだったバンドのインディーズ時代の楽曲のcd。15年前に発売されたそれを聞くと、何だか不思議な気分になる。完全にリアルタイムではないけれど、髭は二十代の頃に聞いてはまって、最近聞いてなかったなあとか、自分の好きな物、趣味って変わらないなあ、でも、色んなのがかわってしまって、たまに、取り残されているような気分になってしまうな、とか。

 たまに、いや、一日に何度か自分が駄目になることを考えて、でも、あまりにもそういうことを考えすぎていて、考えることに疲れて、逆に平気な気がしてしまうのが滑稽だ。駄目でもどうにかなっちゃうよ。どうにかなっちゃうんだよ、きっと。

 滑稽な頭にはアイドルの甘すぎるポップスを、或いは何もしたくなくなるような、倦怠に似た充足のロックを。

 『画狂人ホルストヤンセン』を読む。ヤンセンは、大学時代に仲が良かった友人がとても好きな画家だった。プライドが高くって、人懐っこいくせに人付き合いが苦手な女の子。

 その子とはある事情で連絡をとらなくなってしまった。俺にしては珍しく、喧嘩したのではなくて、結構複雑な事情があった。でも、もう少しこちらから連絡をすればよかったのかなあと、通り過ぎていった誰かについて、ふと、思う。

 もうできないことだ。でも、これからできたらいいな。誰かに出会えたらいいな。

 ヤンセンのその本は、140ページという薄さなのに、本人のことやら評論や作品らがきちんと収められている良いものだった。画狂人、ひたすら画を描き続けるエゴイスト。俺は彼の熱心なファンではないが、彼が鉛筆で描いたアマリリスの画(コピー)が壁に貼っている程度には好きだ。

 

谷川渥が寄せた文章が好きなので引用。

41 ヤンセンにとっては、いずれにせよ対象をまるごと再現することではなく、
パウル・クレーのいう「見えるようにする」線によって対象を浮かび上がらせること、
線描することによって世界をわがものとする
ことが問題なのだ。その眼差しは、したがって解剖学的に解体され、
平面化されて、コレクトされていく。
その意味で、ヤンセンはまぎれもなく死のコレクターなのである。

 

 愛でも欲望でも虚妄でも、なんでもいい。意欲と言うのは大切だ。そして続けること。狂人、というのが誉め言葉になりうるとしたら、それはその人が真面目に生きている、真面目に生きようとしている時に限られるだろう。シラフで頭おかしくなくっちゃ。おかしくなくっちゃ、やってらんない。それでもって、素面じゃあないと、何も生み出せない。表現と表出は違う。人目を惹きたい一発芸人ではなく、綱渡り芸人なんだ、俺。

 だから、もう少し綱渡りの日々。続いてしまう。