涅槃も揺籃もまだ早い

 気分が悪くって、そんなこといつものことだけど、抜け出せない。そんな折、数年ぶりに健康診断を受け、体重を計ったら、予想よりはるかに太っていて動揺した。

 というか、ここ一年以上、ストレスで過食が多く、2、3日に一度は、お菓子だけで一日千カロリー(!)とってたんですよね。太って当然ですよね……。元々ガリガリだったので、腹がぷよってるのが本当に嫌すぎる。このままだと本当にデブになるので、バカ喰いは控えなければ。

 でもさ、寝るのとバカ喰いがストレス解消だったんだよね。色んな不安や不満から目を背けられていたんだよね。

 ただ、いつまでもそれじゃあ駄目ってことだ。分かってるけど、分かってるけどさ。

 好きな美術系の評論家、批評家の本やら大して好きでもない人の本をぱらぱらと見る。再読している中には、ああ、このエピソードや表現は好きだったな、なんて思い返したりして。

 ただ、自分の小説が全然描けてなくて、げんなり。俺は色んなものがなくって、でも、小説を書いている間は、完成させた時は、充足しているような気分になれるのだ。

 身体も精神も、友愛や金銭も、ガタガタだ。早い所なんとかしたい。でも、なんとかできないから、せめて、小説位かけてもいいじゃないか、と思うけれど、そう上手くはいかない。感受性が死んでいる、主人公を、物語を、動かそうという気力が涸れている。

 どんなに辛くても苦しくても、自分の人生は自分でどうにかしなければいけなくて、ついつい俺は不安に拘泥して、決して晴れないその寝台で眠り続けてしまうのだけれど、分かってるんだ、外に出なければいけないんだって。 雑踏こそが友人だって、分からなければならないんだ。

 行こう行こうと思いながらもずるずる先延ばしにしていた展示に行く

 住友コレクション 泉屋博古館 分館 文化財よ永遠に

 

 修復された文化財が展示されている、とのことで、展示数はあまり多くなかった。そして展示品は硝子越しでかなり距離があって、修復されている絵画なのだが細部やらがとてもみづらく、入り口で単眼鏡を貸してもらったほどだった。単眼鏡借りるなんて初めてだよ! 

 展示の品々の中でも 狩野一信 五百羅漢図 がすごい迫力だった。

羅漢図:釈迦が涅槃のとき,正法を付嘱され,この世にとどまって正法を護持することを命じられたという羅漢の像

羅漢:〈人々から尊敬・布施をうける資格のある人〉の意で,悟りをひらいた高僧を指す。

赤と緑の補色が目を引く中にいる人々、羅漢達。後輪のあるのが羅漢だと思うのだが、どれもこれも美しさというよりも悪漢のようなギョロ目の信用ならない男たち。美形=善人という理想化された身体表現ではなく、生々しさがありつつも、異様な迫力がある立派な画だった。

 他の画も、所々(修繕していても)剥落してあったり、顔がほとんどみえなくなっているのもあったが、それが両腕のないヴィーナスのように、また味が出ているので見ていて面白かった。

 水月観音像 は観音が岩肌に座し、衣の下部分がくすんだ薄桃色で身体には白い薄布をまとっており、その顔は仏頂面ではあるが、艶めかしく、魅惑的だった。ごつごつした岩と二重の後輪の対比も美しく安定感を感じられる。

 この会場で、個人的ナンバーワンが、富士三保清見寺図 伝雪舟

 これは、マジで印刷物では良さが半減以下だ。雪舟って有名だよな、ってどっかの本で見た気になっていたが、本物は墨絵の濃淡の表現力がすさまじく、どこを見てもバランスがとれていると感じられるような、幽玄の世界があった。力強さも儚さも、空気感も、荒々しさもあるんだよ。一枚の絵の中に全部ある! 絵ハガキ買ったけどさ、印刷されたらのっぺりした感じになっちゃうんだ。仕方がないことだけど。あー見られて良かった! 

 電車では、澁澤龍彦の『フローラ逍遥』再読してた。大好きなんだこの本。美しい植物がと、心地良い、短いエッセイ。最高の組み合わせだ。

 死んだ人のことばかり、会えない人のことばかり思ってしまう。ただ、それでも、空元気が出る方がましだ。数時間でしぼんでしまうなら、明日も何かを誰かのことを考えられますように。悲しみに埋もれるよりも、違う幸福を俺は知っているんだきっと。