今日も君の為に僕の為に嘘を

『真珠のボタン』という映画を見たら、前に感想を書いた『光のノスタルジア』と同じ監督で、同じ内容だった! いや、中身は勿論違うのだが、語っていることが、構成が同じなのだ。チリの過酷な歴史と、広大な自然、神秘的な自然。チリの人間が見た真摯なひとひら

 ドキュメンタリー映画としての質はいいのだが(穏やかでしっかりとした語り口、美しい風景。余計な音楽は入れない。抒情に寄り過ぎない)何であまり感情移入できないのか、というと、俺が国への帰属意識が低いからだと感じてしまった。数十分ごとに気分が変わる人間が国とか同胞とか理解できないから! 哀しい事実。かなしい? ほんとは、かなしいとか、難しくて分からないけど。

 次に見た映画は『聖なる呼吸:ヨガのルーツに出会う旅』

 

クリシュナマチャリアの直弟子で現代ヨガの最大流派の一つであるアシュタンガヨガの祖・K.パタビジョイスから太陽礼拝を学び、アイアンガーヨガの祖・B.K.S.アイアンガーからアーサナ(ポーズ)の指導を受ける。そして旅の最後に、クリシュナマチャリアの三男から“命をつなぐヨガ”を施される。南インドの美しい風景と貴重な映像を交え綴られる、ヨガのルーツに出会うドキュメンタリー。

 

 何を書いている(コピペ)しているのか分からないのだが、まあ、そういうことらしい。

 間違っているかもしれないが雑な説明をすると、廃れたヨガをあるインド人が現代人に広めたよーってことらしい。雑過ぎ……

 この映画の中で印象的だったのが、ヨガの哲学は思索と実践の両方からなるもので、片方だけではいけない(だから身体を使いヨガをするのだ)、とかいう趣旨の言葉で、普段頭ばかり使って身体が疎かになっている俺には新鮮に映った。

 というか、身体の動きと連動するっていうのは、幸福なことなんだ。声楽をしている人やスポーツ選手を、たまに羨ましく感じる。俺が描く小説は、いや、俺が考える小説家というのは、格闘や高揚をどうにかして手なづける、虚妄の猛獣使いのようなものだから。

 昔、とても仲が良かった彫刻をしていた友人の言葉を今も鮮明に思い出すことができる。

モデリング(物を加えて形を作り上げる)よりも、僕はカービング(石や木を削って形を作り上げる)の方が好きなんだ。石をノミで削る時の、あの、手のひらに打った衝撃が返ってくる感覚が好きなんだ」

 それを聞いた時に、素直にいいなあって思ったんだ。文字を書くとか隊員ぐするのよりも、ダイレクトな快楽がそこにはあると思ったから。

 ヨガの映画を見ながらふと頭に浮かんだのは、数時間前に読んだ『ルルド 巡礼者へのしおり』という本で、俺は神を信じていないのに、宗教関連の本が好きでよく読む。でも、はなから何も信じていないので、読んでもそこから大したものを受け取ることはできない。

 本によると年間7万人もの人が、ルルドへ訪れるらしいのだが、宗教の先に「救い」があると考えるのは、救いを提示するのは、なんとも無粋で危険でつまらない、と思うのは俺だけだろうか? しかし宗教は、救済で成り立つものだと言っても過言ではないだろう。救いがあるからこそ、人々は集まる。

 だけど、俺は俺以外のほとんどの人が「救いを求める」とか「組織に属して固定収入を得る」ことができているという事実が恐ろしくて仕方がないのだ。俺だって、そういうことの真似事位で来ていたから、この年まで図々しくも生き延びることができた、のだけれども、そんなこと続けていて気が違ってしまいそうになるのか、少しずつ腐敗しているのか、分からない。

 恐ろしいおぞましいそれを先延ばしにして、愚かな夢想、

 の手助けになる、素敵な本『ミッドサマー・イヴ 夏の夜の妖精たち』を読む。アーサー・ラッカムやエドマンド・デュラックといった有名どころから、古典的西洋絵画のような妖精も、素朴なタッチの妖精も、様々な妖精の画が収められた楽しい本で、辺見葉子の解説文も丁寧で時代ごとの妖精画<子供だましに見られたり、時代遅れになってしまったり、人気を吹き返したりする>への理解を深めてくれる。

 この本でも触れられているのだが、人はとにかく神秘がないと生きられないということだ。それが妖精なのか、ヨガなのかキリストなのかは人によるけれども。スピリチュアル、という言葉は、というかそれに関係するような人種が本当に無理なのだが、物事の持つ神秘性には惹かれる。

 神秘を私利私欲、自己顕示欲や金儲けに利用して居直る人間が本当に無理なのだ。キリスト教で共感するとしたら、自己放棄という概念で、神秘に神に自分を捧げてもいいじゃんって思うんだ。神秘を信じているなら、何で自己実現の為にそれを利用するんだろう? こんなん思ってるいるから俺は信仰とも労働からも遠く離れているのだ。そしてゆっくりと、全身が、錆びて、駄目になっていくんだ。

 先日、上野を歩いていて、日比谷花壇の前を通り過ぎると、硝子越しに目に映ったのは美しい薔薇の花で、逆光でよく見えない上に硝子越しなのに、思わず携帯のカメラに収めてしまった。

 歩きながら頭の中でその花ばなのことを想像する。あまりよく見えなかったが、作り物のような脆い薔薇で、絹色をした肌の、花先だけが薄い菫色をした、こぶりの薔薇だったはずで、なんとも上品な印象を受け、少しだけ酔い、俺にまともな収入があればそれを買って帰るのに、等と記憶の中の薔薇のことを考えながら歩いていた。

 後日、写真を見返すと、その薔薇は可愛らしい薄桃色の、どこかの店先にある、よく目にする、しかし良い薔薇だった。俺の夢の中の薔薇とは異なっていたのだ。また、俺がいかに物を見ていないか、と改めて思い知らされた。

 だがしかし、そういう嘘を、作り事を、詐欺をできるのが小説家、芸術家、というもので、俺にできることは嘘ばかりつくこと位しかないのかもしれない。ただ、一応俺は美しい物が好きだし、できるだけ、上品にしなければならない。貧すれば鈍する、という言葉は俺にとって身に染みる重い言葉で、しかし、嘘の為に虚妄の為に、神様の天使の薔薇の欠片に触れる素振りや片思いのごとき振る舞いを。