幸福になるよりも、迷子になろうぜ君も

 仕事はいつまでたっても決まらないし、未来の展望もない。おまけに、気持ちがぐらぐらして夜眠りにつくのが3,4時になるのもしばしば、午後、ふと気が付くと、眠りについてしまうこともしばしば。

 こんな終わっている状況なのに、それなりに精神が安定しているのは、小説を書けているからだろうか。多分そうだ。巨大な岩に向かって、がむしゃらに鑿を振るっている気分だ。どんな形になるのか、きちんと作り上げられるのかは分からないけれど、とにかく、腕を振るうのだ。その位しか、俺にはできることがないのだから。

 とはいえ、自分の無計画っぷり、非生産っぷりには、我ながらやべえなあ、と思う。特に三十過ぎになると、二十代で出来ていた目隠し、空元気にも限界が出てきていて、ふとした時に、ああ、俺ももう駄目なのかな、とか、早く楽になりたいなあ、とかそういう希死念慮離人感に似た空疎な思いに囚われるのだが、岩に向かって、腕を振り上げている時は、まだ平気なのだ。当然、そんなことを続けられるわけでもないのだが、でも、蛮勇を遊ばせることができるのは、幸福なのだ。

 小説を書くときは、他の人の書いている小説を読む気にはならないことがしばしば。特に、新しい、見知らぬ人のや、面倒で好きな小説は難しい。かといって、詩的な言語や、美しかったり暴力的だったり我儘だったりする小説、文章を目にすると、良い刺激になるのも確かなのだ。

 数年ぶりに、笙野頼子『幽界森娘異聞』を再読する。笙野の小説は金井美恵子町田康の小説と似た長文の、ドライブ感のある語り口で読んでいてとても面白い反面、自分がある程度体力や気力がある時に読みたいなあ、という作家たちで、書くこと、考えることについて体力と時間を割かねばならない今は、読めないなあ、なんて思いながらも、読んだ、面白かった。

 この本は笙野頼子による森茉莉論でもあり、自身の、そして森茉莉の格闘の歴史でもあって、それを軽快で力強い語り口で一気にしゃべり倒す。

 

彼女、彼女、この故人のこの活字の世界での名をいきなり「森娘」と命名する。本名森茉莉をそのまま使わないのは、私の描いているこの故人が、どう考えても本物の森茉莉とはずれた人物だから。鴎外と志けの娘、では決してないから。私が知っている森娘は、……「贅沢貧乏」という1冊の本の中に住まった1体の妖怪だ。私という作家の雑念と思い違いがそこにこごった、活字の怪でしかない。「作家は死んだ時その本の中に転生する」

 

 という本書の説明があるが、妖怪、奇怪な森の中の「姫、娘」について、過剰に美化することもなく、所々つっこみをいれながらも、しかし最大級の賛美を与える、素晴らしい森茉莉論でもあり、ファンからの「よく分からない存在」へのラブレターだった。

 読んでいて元気が出るんだ。敬意と熱情によって創られた作品にふれるとさ。ネットができて、とても便利になって、とても読みやすい、有用な記事、スマホで、或いはパソコンで数分程度で消費できる、ファストフードのような文章が山ほどある(俺はファストフードもファミレスも好きだ)。

 でもさ、やっぱり活字で育った俺は、昔の人達(勿論今の書き手を否定しているのではなく)が書いた、面倒な、熱量が強い文章が読みたいんだ。俺も、森の中で迷子になりたいんだ。

 自分が、それを書けると、森の中でも出来が良いものに仕上げられると信じて、腐心して。それが無益であったとしても、迷宮を作らねばならないのだ。幸福になるよりも、迷子になろうぜ君も。