魔法は誰が教えてくれるの?

朝起きて、喉と頭に痛み。外に出なければならないのに、憂鬱になる、っていつもたいてい憂鬱。ブルーブルーブルー。今、色々と問題になっていて、それとはあまり関係なく、俺のこれからもヤバイ。最近こういうことばかりしか言っていない。 でも、少しでも気を紛らわせるため、読んだ本の雑記等を。

森山大道の『もうひとつの国へ』というエッセイ本を読む。暇人なので、森山大道の本は数十冊読んでいて、彼の写真や文章は好き、というか、心地良い。海外で展示を何度もやって本だって男十冊も出ている、しかし、その生活は、どこか適当で、野良犬じみている。一方的な共感を覚える。以下、引用。

『ぼくにとってのアートとは、ぼくの日常性の中に、一瞬の裂け目をつくり、そのすきまから異界を覗き見せてくれる
もののことである。(略)さまざまな街区や路上に転がっているように思える。(略)街角には、思わずのけぞって
しまうほどチープでジャンクでエロティックな代物もまた在って』

『”写す”ということへの、いくばくかの強迫観念を抱えながら、都市の路上を撮り歩く日々が、いわばぼくの
ルーティンワークである。むずかしいことだけど、生きているという実際の内訳にはなるべく立ち入らないようにして、
さし当たって”写す”という気分が、いまのぼくの、写真とのスタンスである』

 森山大道の本は何十冊も読んでいて、というか彼は100冊位本を出しているのではないだろうか? (アート系のくくりだと)おそらく荒木に次ぐ知名度というか、刊行数だ。なのに、彼はエッセイで度々貧乏だのふらふらしているだのといったことを口にしていて、俺みたいな無職のガチのやばさとは別にせよ、彼の中の異邦人というか野良犬というか、そういった面には一方的な共感を覚えるのだ。だから、俺は彼の作品が好きなんだ。肌が触れ合っているかのような、雑踏ですれ違っただけのような。そんな距離感。

 ロベール・ドアノー写真集 芸術家たちの肖像 を読んで、どこかで見たな、と思いながらも、ジャコメッティのアトリエを映した写真は、とても愛おしい。雑然としているような整理されているような矛盾した印象を受け、魅力的なんだ、単純な話で、俺は、彼が、彼の作品が、彼のアトリエが好きなんだ。

画像1

 大好きな人がいる、という幸福。たとえそれがなくなってしまった、もう二度と会えない人だとしても。

 

 久しぶりに全然知らない人、ケン・リュウ『紙の動物園 』を読む。

 香港で母さんと出会った父さんは、母さんをアメリカに連れ帰った。
泣き虫だったぼくに母さんが包装紙で作ってくれた折り紙の虎や水牛は、みな命を吹きこまれて生き生きと動きだした。魔法のような母さんの折り紙だけがずっとぼくの友達だった……。


ヒューゴー賞/ネビュラ賞/世界幻想文学大賞という史上初の3冠に輝いた表題作、しかもレビューの多くは絶賛。だけど、俺にはちょっと合わなかった。小説としてきちんとした佳作、だとは思ったが、「魔法」の扱いに誰も疑問を感じないのとか、後半のお母さんの「泣かせる」長台詞とか、どうも俺には合わなかった。

 というかさ、俺は、登場人物に善人ばかりが出る話や、魔法(があるとしてそれ)に「代償」が無いのがしっくりこないのだ。不思議な話は好きだけれど、それだと何でもありになってしまう。魔法があっても不自由であったり大変なのが当然ではないか、と感じてしまうのだ。

 ここら辺は作者の好みやら作品(絵本の世界なら何でもありでいいけれど)によって異なるし、簡単には言えないけれど。まあ、俺にとっての魔法は、悪魔と契約をして手に入るような物だってことだ。

 

ジャン・ジュネのエッセイの一節。

美には傷以外の起源はない。単独で、各人各様の、かくされた、あるいは眼に見える傷、どんな人間もそれを自分の裡に宿し、守っている。そして、世界を去って、一時的な、だが深い孤独に閉じこもりたいときには、ここに身を退くのである。

 

 

 最近、色々諦めようかとか、もう少し頑張らねばとか、いつものぐらぐらした気分に襲われながら、ひたすら寝ている。悪魔なんていないのに、俺は悪魔の夢を見る。できれば天使、キリスト、メシアの方がいいな。また、グレゴリオ聖歌を聞いてこれを書いている。神様悪魔様天使様、明日はもう少し、貴方たちのことを考えられますように。